問題は「集合知」や「集団的知性」は役に立つのかということである。IT屋やネット派のほとんどは役に立つとみるのだが、はたしてそうなのか。
from ジャロン・ラニアーの提案
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問題は「集合知」や「集団的知性」は役に立つのかということである。IT屋やネット派のほとんどは役に立つとみるのだが、はたしてそうなのか。
集合知(collective intelligence、collective knowledge)が役に立つと考える研究者や開発者は、集団的に情報や知識を集めていくほうが、集団の中の個人が考える結論よりも穏当あるいは適確な答えを引き出しうるというふうに見るからだ。スロウィッキーは市場(いちば)に出された牛の重さを多くの群衆が推測した平均値は、他の専門家の推測値よりも正解に近かったという例を出して、集団知の正しさの検証につかい、そうなる理由は人々の意見が多いほうが異なる誤差を互いにキャンセルしあうからだと分析した。
これは一見すると、民主主義や市場経済のよさを語るにはうってつけの強力な説明になる。またネット社会に多様なコメントが乱れとんでいることを容認するにあたっても、強い味方になる。さらにはまた人工知能や学習マシンなどの妥当性もこの味方から援軍をもらえる。
しかし、集合知が正しい「値」を示しうるかどうかということは、一概には決められない。古来の宗教的知性の動向、選挙結果の歴史、ブームやバブルの破綻、ファシズムや集団的暴挙の問題など、かなりいろいろな集合知がまきちらした実害の事例を吟味する必要がある。そこには「衆愚」が跋扈する。また、これらをサイバネティクスや計算機科学に導入したときの推移を検討する必要がある。残念ながら、まだそういう検証はされていないままなのだ。
最近は、集団的知性モデルとしてIQS(IQ Social)などという怪しい数学モデルも出回っていて、集合知を計算プロセスに置き換える方法(N要素推論ドメインと時間の確率関数)も提案されている。
安易に集合知が役に立つという路線が、かつて歴史的にもたらしてきたものは、けっこう危ないものだったのだ。
そもそも集合知といっても、これを十把一絡げにはできるはずがない。感覚のレベルなのか、認識のレベルの集合なのか、判断のレベルの集合なのか、言語表現行為のレベルなのか、あるいはすでに影響を受けた者どうしの集合なのか、統計上のファクターに依存した集合なのか、こうしたレベルやプロセスがあきらかにはなっていないのだ。
それでもなんとか集合知を政治活動や社会活動やマーケティング活動に活用しようとすると、やたらにデータを“総合化”することだけが合目的化されていく。また、うっかりすると脳に電極を差して賛成か反対か保留かのニューロン発火を統計したくなったり、ニューロトランスミッターの出具合を計算したくなる。つまりは集合知の奥座敷の脳や体に手を入れたくなるということにもなる。これはかなりヤバイことになるだろう。
しかしそれ以上に問題なのは、今日のインターネット社会で言われる集合知が、すでに検索エンジンがやっていることやソーシャルブックマーカーがやっていることそのものだということにある。つまり「ソーシャル」(社会的)だとみなされていることが協調フィルタリングを通した集合値(=集合知)でしかないというふうになってしまっていること、このことだ。
いいかえれば、個人ユーザーがネットにかかわっているときの相手は、ソーシャル化された集合値という化け物でしかないということなのである。
これは集合知の計算が「集団誤差→平均個人誤差→分散値」というふうになっているからで、ここには「創発」はおろか、個人の「ひらめき」や「まごまご感」や「うろおぼえ」などがまったくない。それらはほぼ排除されてしまうのだ。これではラニアーならずとも警鐘を鳴らしたくなる。
もうひとつ老婆心ながら付け加えておきたいのは、この手の集合知と、なんと集合的無意識(Colective unconscius)やセレンディピティ(serendipity)がごっちゃになるときさえあるということだ。これはもっとむちゃくちゃだ。