イヴァン・イリイチ
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思想
思想家としてのイリイチは、学校、交通、医療といった社会的サービスの根幹に、道具的な権力、専門家権力を見て、過剰な効率性を追い求めるがあまり人間の自立、自律を喪失させる現代文明を批判。それらから離れて地に足を下ろした生き方を模索した。 脱学校化
学校教育においては、真に学びを取り戻すために、学校という制度の撤廃を提言。パウロ・フレイレの革命的教育学と並んで、地下運動から国際機関まで世界中を席捲した。イリイチの論は「脱学校論」として広く知られるようになり、当時以降のフリースクール運動の中で、指導的な理論のひとつになった。 バナキュラー
バナキュラーは、そもそも、「家庭で最初に身につける言葉」などを意味する語であるが、イリイチは、この言葉が有給の家庭教師を雇わずとも身につけられることに焦点を当て、バナキュラーを「一般の市場で売買されないもの」と拡大規定した。しかし、近代産業社会のサービスによって、このバナキュラーは交換可能なものとなり、結果として、人びとの生活からバナキュラリズムが失われていくさまをイリイチは指摘している。
サブシステンス
サブシステンス (subsistence) とは、「シャドウ・ワーク」での訳者の玉野井 芳郎の解説によると、「これはすでにイリイチ理論の先達ポランニーが重要視していた用語であり、市場経済、産業経済に対置されるキーワードであるが、これの含意する内容もかなり多義的である。地域の民衆が生活の自立・自存を確立するうえの物質的精神的基盤というほどの意味であると解される。それゆえこの言葉には『人間生活の自立・自存』といった訳語をひとまずあてておいた」とされている。またこの本のイリイチ自身の注では以下のように記載されている。「私はこの用語を使うべきだろうか。この言葉は数年前までは、英語では『サブシステンスの農業』という使い方によって独占されていた。これは辛うじて生存している数十億人の人々のことを意味した。開発当局はこの運命から彼らを救うべきものとしている。あるいはこの言葉は、一人の浮浪者がドヤ街でやっと生きてゆく最低限を意味した。また、最後には、賃金とも同一視された。これらの混乱をさけるために、『公的選択の三つの次元』のなかで、私は『ヴァナキュラー』という用語の使用を提唱した。これは商品というものの反対概念として…。(中略)私はヴァナキュラーな活動とヴァナキュラーな領域について話したい。にもかかわらず、ここでは私はこの表現をさけようとしている。なぜならこのエッセイだけで「ヴァナキュラーな価値」を読者に熟知させることを期待することはできないからだ。(しかし、この本の第二章を参照せよ。)使用価値を中心とする活動、非金銭的な取引、埋めこまれた経済活動、実体=実在的な経済学、これらはすべて、これまで試みられてきた用語である。私はこの論文では『サブシステンス』に固執する。たとえ経済活動が支払われようと支払われまいと、私は、形式的な通常の経済の意のままになっている活動にサブシステンス指向の活動を対置させようと思う。そして、経済活動の範囲内で、賃金と<シャドウ・ワーク>が照応するフォーマルな部分とインフォーマルな部分の区別をしようと思う」(pp.245-246) シャドウ・ワーク
詳細は「シャドウ・ワーク」を参照
イリイチは、バナキュラーの実態と変容を探るべく、家庭の主婦の家事労働などに目を向け、産業サービス社会において報酬を受けない再生産労働を「シャドウ・ワーク」(影法師の仕事―鶴見和子の訳)と命名した。イリイチの理論枠組みからすれば、学校のなかの生徒、病院における患者、交通機関における通勤・通学者もまた、シャドウ・ワークの担い手なのであるが、この概念化は、とりわけ女性の家庭内労働の新たな捉え方として注目されることになった。
ジェンダー
シャドウ・ワークの分析の後、イリイチは、産業化とバナキュラーの対立軸において、ユニセックス化とジェンダーの対立を設定。すなわち、産業社会においては、ジェンダーがセックスから離床し、バナキュラーな男女のジェンダーが失われることで、中性的な「経済セックス」化がなされていると批判した。バナキュラーなジェンダーが中性化され、近代産業社会における経済分業を担う「経済セックス」者となることで、賃労働を担う男性とシャドウ・ワークを担う女性とに振り分けられているというのである。
イリイチの共感者たちによれば、イリイチの議論の意義は、産業経済社会における労働・分業や生産・消費のありようが、あたかも本来的なものであるかのように制度化、客観化されてしまっている状況を明らかにし、既存の近代社会科学の枠組みから離れた新たな問題設定を行おうとする点にあるが6、当時のフェミニストは、それを実態論的に捉え、男女差別の固定化を唱えるものだとして批判した。 医原病
詳細は「医原病#広義の医原病」を参照
また、イリイチは、医療制度は「専門家依存」をもたらすものであり、すなわち人間個々人の能力を奪い、不能化するものであると批判し、これを広義の医原病(社会的医原病、文化的医原病)であるとしている。