インスタグラムと現代視覚文化
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プラットフォームとしてのメディウムという考え方を写真の歴史に適用することで、ポロライド・プラットフォーム(カメラ+ポロライドフィルム+インスタントプリント)やコダクローム・スライドプラットフォーム(コダクロームのフィルム+使いやすいコダックカメラ+コダックのラボ処理+スライド+スライドプロジェクタ)といった、部分的なプラットフォームの他の例も発見した。ただし、ポロライドやコダクロームは(インスタグラムのように)数多くの機能をひとつに集約してはいないので、あくまで「部分的」ではあるが、その強い美的制約のため「プラットフォーム」としての資格がある
"その強い美的制約のため「プラットフォーム」としての資格がある"という文章を共有したく、この記事を作った。全てを集約させるか、APIとして繋がることが当たり前となった現在のソフトウェアと違い、美的制約によってプラットフォームが成り立っていたカメラから何かヒントがもらえそうだと感じた。
APIが無かったとしてもpostalkに強い美的役割があれば他のプラットフォームとも接続することが可能であるとも言えるのではないだろうか。