ObjectからGraphへ:オントロジーにおける人間中心、あるいは人間中心のオントロジー
様々な様態の存在のなかで、もっとも関係するもの(強く有意義性を見いだせる存在者)は、身の回りにあり、日常的に私たちが手で触れる道具です。コップは水を入れるための器ですが、水を入れるのは現存在が飲むためであって、究極的には生きるためです。私たちが触れる存在は、そのように現存在の「存在する有り様」に関わってきます。これが「道具存在(手許存在)」と呼ばれるもので、現存在が関わりその内にいるところの世界は、現存在にとっての有意義性(指示関連)をもつ道具存在の総体として「存在を存在する」場に明るみになるのです。 また、視点を移せばコップは机の上に置かれ、机は床の上に置かれるという関係にあります。私たちがまわりの存在を認識するときも、個々の事物をそれぞれいきなり区別して見ているわけではありません。部屋という全体的なもののなかで、コップが現れてくるわけです。道具は単一の道具として存在するのではなく、指示関連のネットワークの中で体系だって「道具立てられている」のです。
この道具存在の考え方は、現代では特にアフォーダンスやシグニファイアの概念に結びつけて考えたくなります。車のルーフ(屋根)は運転をしているときには雨風から身を守ってくれるものとして意味づけられるが、車から降りて自動販売機で飲み物を買い、ルーフの上に置いたときには机として、動的に意味づけられます。車内という環境世界が、そこから降りた瞬間にゆるやかに変化し、現存在である私たちにとっての「道具存在」の指示関連が変化するのです。 なお、アフォーダンスの概念はゲシュタルト心理学にルーツを持ちますが、もうひとつのルーツとして、ウィリアム・ジェームズの根本的経験論に大きく影響を受けています。ハイデガーは存在をまず現存在(人)にとっての有意義性として意味づけているわけですが、これはジェームズ、そしてパースやデューイのようなプラグマティズムの指向するところとよく似ていると思われた方も改めて多いのではないでしょうか。実際、ハイデガーより先にデューイのほうが30年ほど早く似たような発見をしているのだと考える向きもあります。 もちろん先程も触れたアフォーダンスの例が明らかにしているように、人の認知や認識は言葉によってのみ支配されているわけではないのですが、意味が言葉や記号のシステムに影響されるというのは、設計者にとって大きなインパクトを持ちます。私たちが「ラベル」をつけたり、UIを記号として組み立てるときには、先になんらかの絶対的な概念があって、それを理解できる言葉を個別的に付与するという組み立て方をしがちです。しかし、言葉や記号と、その記号群が織りなす記号システムが違えば、概念も違うことを前提にするというのは、本当に大きな影響力を持つことなのです。
具体的に例示するとその深刻さが明らかになってきます。Twitterで投稿される写真と、Instagramで投稿される写真は同じものでしょうか。おそらく多くの方が、違うと答えるのではないでしょうか。UIのコンポーネントとしては同じ画像を取り扱っているのであっても、それらが成している意味は全くの別物です。Twitter、Facebook、そしてInstagram。どれも「構成要素」単位でみたときには、同じような「オブジェクト」あるいはその「写像としてのインスタンス」からなる構成を成しているはずです。記号は一緒。しかしそれぞれの持つ意味は違う。
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