シン・エヴァンゲリオン劇場版
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図らずもどこもレイトショーを止めている時期だったので、仕事の時間とずらそうと思った結果公開初日(2021/03/08)朝イチで見ることになった
TOHOシネマズで普通の2Dスクリーンで見た
映画感想とか今までそんなに書いてきてないけど、公開当日はソーシャルメディア上のネタバレ警戒が強い雰囲気だったのでスクボでダラダラ書く
雑感
諸々の意味を含めて、ちゃんと卒業できた
そういう意味では「万感の思い」ってやつ
少なくともQをあんな感じで世に出すことになってしまったことに対するアンサーはまあまあちゃんと得られた。庵野監督皆様お疲れさまでした
震災後にシン・ゴジラをやり、その後ちゃんと時間をとったことで色々折り合いがついたんだろう、と勝手に後方腕組み頷き
以下色々書くけど、世の中骨太なエヴァ語りの人は他にいくらでもいるし、自分のにわか語りなぞまともに受け取る必要はない
事前予想
新劇場版に追いつかれてから再度追い越す形で2013年に貞本エヴァ(漫画版)が完結しており(Qは2012年!)、個人的にはその結末に対し一定の納得感を得ていた
なので、新劇場版のほうがとんでもないことになっても貞本版を正史と思いこめばまあ卒業はできるつもりだったが(別にずっとエヴァのこと考え続けてたわけでもないんだけど)、シンの事前予想としておそらく貞本版とそこまで矛盾しない落とし所になるんじゃないかという予感はあった
そもそも貞本版にしろ旧シリーズにしろ、クッソ大雑把に言えばシンジ含め登場人物に通底している「他者への恐怖・拒絶」が「他者の受容・希求」という自然な心理的成長(ないしは鈍化)に凌駕される(「おとなになる」)という人間の生涯における青春の「ある一瞬、明確にはわからないどこか」を拡大してSF世界観で縁取ってお送りする、的なテーマは共通しているので(自分の理解では)、そこをあえて外す意味はもはやないだろうという直感
庵野監督自身、はるか昔に所帯持って、もうおとなになった作家なわけだし
ここでまたワケのわからん方向性を提示してもう10年15年オタクとプロレスするのはもうやってられないはずだ。ウルトラマンが撮りたいのだ
ユダヤ教世界観などのモチーフは本当にただスタイリッシュなSFロボットアニメを撮るための借り物でしかない(ので深く考える必要はない)と認識している
あとは漫画版に見られた、最後の(シンジとレイとの)やり取りと決断を経たあとの爽やかさを伴った締め方は、ちょっとありきたりとも言えるがリファレンスとしては十分だと思ったから
もう1つ思っていたのは、「おとなになった庵野監督」が、重荷になりすぎてしまったこのフランチャイズに一定の終わりを与えて、納得されて解放されるためには、多少チープだとしても、作家性を捨てたと言われるとしても、スッキリと「終わった」と帰れるようなエンタメ作品にしてくるだろうということ
(この予想のベースには新海監督作品の影がある)
もっとも、結局何年かしてまたわけわからん映画撮り始めるのかもしれないが
事後感想
で、概して予想はあたっていたので、スッキリして映画館を出て仕事に行ったのだった。久々の物理出社だった
Qだけで見ると筋書きがブッ飛んでいて、それでいて上映時間短め、の割に動きの乏しいシーンも多く、不完全燃焼だったわけだが、シンでまあ大体補完されたんじゃないだろうか
というかもともと序破Qで3部作構成だったのがお尻はみ出して4部作になったわけで、Qでまとめきれなかった部分を時間とってちゃんとやったらこうなった、ということか
Qの予告に含まれていたカットの多くが実際にシンで流れたところを見るに、おおよその流れ自体はQ制作時点で定まっていたのかもしれない(の、割には仕上げに時間かかったなあ)
Qで存在抹消されていたトウジ、ケンスケらを含む民間人の行方、そもそもニアサードの瞬間〜直後の流れ、加持さん周りとヴィレの成立の所以などは、(全て事細かにとは当然いかないものの)映画の尺の中で期待できる程度には全て、明らかになったか、仄めかされた
シンジと感応し、時空間ないし世界線を超越して「シンジが笑える世界」を追い求めるに至ったカヲル(「渚司令」)が、(加持さんを通して)ヴィレの行動の原点となっていたというのは面白い筋書きだった
個人的には、他の人物にまつわるあれやこれやは置いといて、最後に示唆されたこの1点において「なるほど面白いな」と感心した
どうせ最後は碇親子対決になるのは既定路線だったのだし、着地点も見えているのだから尺を圧縮して、代わりにこの「渚司令の謀」をもうちょっと具体的に描いたほうが「オオッ」となったかもしれない気はする
が、ここへ来て新たな語り草を増やして混ぜっ返すよりはサラッと「こんなアイデアを糊付けとして使ってみたけどどうでしょ」くらいの紹介に留めたのは正解かも
加持さんが自己犠牲的に死に、残されたミサトが空回りながらも奮闘し、最後にはシンジたちに世界を託して死んでいく流れは目一杯引いた目で見れば旧シリーズと共通している
一方でリツコが残され、救われる側になったのは違っている
というか序破Q通してリツコ(赤木母娘)の扱いは旧シリーズと大きく変わっていて、有り体に言うと捨象されている(MAGIとその来歴、ナオコとゲンドウの関係や母娘の愛憎、「使徒、侵入」のエピソードはカットされた)
NERV前夜、大学や研究室時代のゲンドウら登場人物を、補完計画の草創期から本編に結びつける役割の一端を担う人物設定だったのだが、昇華しきれなかったのだろう
代わりに研究室時代からの知己として過去と現在をつなぎ、かつ新劇場版におけるトリックスター(+女っ気増量要員)を演じる存在としてマリが導入され、ほぼまるっと赤木母娘の必要性を除去した
マリについては結局どうしてこんなにも優遇、というか重要な部分を担わせることになったのか、映像内ではそこまでちゃんと語られない(たぶん、覚えている限り)。登場した破ではエヴァの暴走を任意に発生させる裏コードを物語に導入するくらいの役割だったが、Q以降では、
ウダウダやってるシンジの代わりにアスカのバディ
ヴィレサイドのメインの戦闘パート担当(アクションスター)
冬月の決着(といってももはや抜け殻だったが)
最終決戦で補完の儀式に取り込まれたチルドレンを現実世界に引き戻すアンカー
ついには、補完後の再構成された世界の幻想において、シンジを最後の枷から解放する存在、まで務めた
ここ結構「真に受けてる」人が多いように見えるが、あのシーンは「再構成されたあとの世界のあり方の可能性の一つ、幻想」でしかないはず。いろいろな描写からそのように理解できる
とはいえ幻想なのかリアルなのかはもはやそんなに意味のある区別ではないので、どう受け取ってもいいのだが。貞本版のラストもその点は同様
マリの正体は新劇場版の映像内では明確に説明されていないが、漫画版描き下ろしエピローグでユイを慕う天才少女として来歴が語られ、さらにシンでのカットシーンへの映り込みからシンジ誕生以降にも渡って継続的な関係が示唆されており、ゲンドウ・シンジ親子の行く末を代わりに見守り、ときに導くようユイに託された、ないしは自らそう選択した人物であると伺える
ある意味では碇親子およびアスカにとってすごく都合のいい存在である(デウス・エクス・マキナ的)。マリが外挿されたことによって新劇場版は「丸く収まって」いる。でもいいじゃん、物語なんだし
便利屋キャラを持ってくるのではなく、旧シリーズからいるキャラをベースにちゃんと解決してほしかった、という感想もあるだろうが、坂本真綾をキャストに加えることによる(興行的な?)恩恵も受けられるし、ヴィレ側にもう1人、訳知りの適格者を導入しないと展開がしづらかったというのもあるだろう
シンのラストで仮にマリがいなかった場合、アスカが儀式に取り込まれたあと、シンジが立ち上がるまでの間、戦線を維持するファイターがヴィレ側に足りない
旧シリーズに則るならば再起動実験と第9使徒の時点からトウジを舞台に引っ張り上げるというのが一つのアイデアだが、アスカの役割を担わせるにしてもマリの役割を担うにしても、画面もセリフも鬱陶しいし、なんかしっくりこないだろう
コケティッシュな魅力がありつつ、脇役からの昇格ではなく当初から重要そうな役として導入されたミステリアスな存在で、声が坂本真綾のマリだからこそ、観客はそこそこ満足できるし、なんだかんだ許せるという効果だ
アスカの物語は旧シリーズと方向性においてめちゃくちゃ変わったというわけではないが、かなり簡略化はされた。幼少期から抱えている孤独、承認欲求などの要素は共通だが、母親との物語は語られないし、弐号機は「ゴメン!」の一言で毎度グチャグチャにされる
ニアサード直前の第9使徒を体内(左目)に封印、もしくは同化しながら影響を抑制していて、最終的にそれを解放・結合しながら改13号機のATフィールドを破るシーンは結構カッコよかった
が、残念ながら筋書き上そこまではゲンドウ側の思うつぼだったので、活躍としてはスポイルされてしまった。まあ碇親子がおとなになって完結する物語である関係上、道を譲ること自体は避けられないが…
そもそも新劇場版の式波タイプは綾波とは別に補完のため仕組まれた存在だったという筋書きが明かされるため、母親との物語が欠落するのも必然ではある
シンジに対する失望を14年間抱え続けていたが、帰還後の農村生活(笑)であっさり寛解したシンジと宥和したり、破で青春してた頃は互いに好きあっていたことをすんなり認めたり、第3村滞在時に身を寄せているケンスケとそこそこ信頼関係を人間らしく築いていたりと、だいぶすっ飛ばした描写になっていたので、アスカをもっと中心的に描いてほしかった人にとっては不満は残っただろう
とはいえアスカもおとなになったのだ。もう「おとなになった」でだいたい全部いいじゃないか、という開き直りは全編通してひしひしと感じられた
シンジの「寛解」は確かにご都合主義的と言えるが、物語をちゃんと進め、かつ終わらせるためにはしょうがない要請だし、シンの前半1時間半だけの話ではなく、これまで25年ずっと鬱屈させられ続けていた積み重ねありきでの前進だと考えれば、「いいじゃないか、もう先に進めよう、進ませてあげよう」という人々の後押しをついに受けられたのだなあと感無量である
風呂敷をたたむとはこういうことだ!
「いや、シンジくんってそうじゃないだろ。そうじゃなかったじゃん。そうじゃないのがエヴァだったじゃん」という意見に対しては正面切っての遮断・決別となる
2021年の現代に対する「エヴァ的」なケレン味みたいなものはハッキリ言って薄かった(破では旧シリーズの展開に対して、Qではこれまでのエヴァ世界観全体に対して、それぞれまだ「邪道」感を発揮していたと思う)
それ故にある種の軽さ、空虚さみたいな感覚はつきまとうのだが、「それでいいのだ」。なんというか、一つのセカイですら究極的には浮世の遊びに過ぎないのだし、まして物語の世界を殊更一大事のように後生抱え続けることの狭量さからこの際、せーので解放されよう!という儀式としてシンは成立していたと思う
解放されたくない!と頑張るのもまたそれはその人の自由ではある。が、最近はそれに応えられるような物語・作品ってあんまり思いつかないなあ。上で少し触れたが、新海監督なんか先んじてエンタメにハンドル切ることに成功しちゃったしね
ほかの記事など読んで
大筋で自分の理解とかけ離れているものは見当たらなかったけど、1点、マリのモチーフは「おとなになった庵野監督」の妻・安野モヨコその人、という説があるらしく(知らんかった)、色々合点がいった
旧シリーズを描いていた頃にはなかった存在で、新シリーズに至る中で庵野監督を大人にしたまさにその人と言える
とすればマリが最後に解放者となるのは必然だし、名実ともに「旧シリーズとの相違点」そのものなのだから果たす役割が大きく、多いのも当然である
『監督不行届』を読むと色々わかるらしいので読んでおこうと思った
解放された派・されたくない派、いずれも見受けられた。とはいえいずれの立場もそのことについて自覚的な書きぶりが多く、観客層の高齢化は厳然たる事実だなあと感じたのだった
なんにせよこれにてエヴァは晴れて幕引きできたと言えるだろう。幕引きに納得できない人はどうぞ苦しみ続けてください、私はウルトラマンを撮ります!という卒業式だった
個人的にはシン・ウルトラマン、楽しみにしております(劇場では見るかはわからないが)