すずめの戸締まり
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以下全て、制作者側があえて設定している話かどうかは全く関知しない。(後で資料とかインタビュー見てしれっと解釈を変えるかもしれない)
基本自己解釈ベースの妄想で、「自分の考えとして物語をきれいに補完できるか」「腹落ちできるか」に過ぎない
鈴芽はなぜ、あれほど素早く、かつ迷いなく自己犠牲的精神(自ら人柱、要石となってもかまわないと宣言して草太を取り戻す)を発揮できるのか?
また、そもそもなぜ危険に自ら飛び込む真似をするのか?
この2つはおそらく不可分で、物語的な都合、という以外に正当化する余地として以下のような理屈がある
震災期に現地で育ち、母子家庭の母を失うという凄絶な体験をしている少女には、根底から常人の死生観とは隔たりがある
また、一度常世に行って帰るという経験をしたことで、常世との結びつきの強い存在となっている(「天気の子」の陽菜と類似の構造)
草太の祖父は鈴芽のことを「タダヒト(只人)」と呼んだが、とんでもないことである
鈴芽は徹頭徹尾、今作における「巫女」だ
「ここではないあちら」へ至るきっかけに対し、常に敏感で、迎える姿勢がある。言い換えれば浮世(現世)に対する執着の弱いところがそもそもある
「自分は生き残った側である」という感覚は、翻って他者を救う自己犠牲的衝動に転換されうる
あとはまあ、映像だけだと伝わりきらんところだが、まじで草太がゲキヤバイケメンすぎて、それだけの力が鈴芽の中に湧いてでたのかもしれん
鈴芽の椅子の4本目の脚はどこにあるのか?
常世にあるのだろう(現実としてはすでに海か土の中で朽ちているのだが、この両面は特に矛盾しない)
震災の混乱と多くの死の中で、現世と常世の境目は曖昧になり、当時の鈴芽は常世に迷い込んだ
「すべての時間がある」常世で未来の鈴芽自身から椅子を受け取ることになるが、この椅子がもし「未来の鈴芽が現世から持ち込んだ(12年経過した)椅子」だったとするとよくあるタイムパラドックス、無限ループになってしまう
別になってもいいのだが、以下のように解せばもっとシンプルである
椅子に身をやつして(?)その後要石となった草太を荒ぶる神から引き抜き、要石の責務(=人柱)から開放したことで人の身としての草太が取り戻された
この時点で、草太の依り代となっていた椅子は消えた(草太の人の身を取り戻すのと引き換えになった、と言ってもいい。母の強い思いのこもった贈り物である椅子にはそれだけの価値・意味があった)
その後常世に迷い込んだ過去の自分を見つけた鈴芽は、椅子を拾い上げて走る。このとき拾い上げた椅子が、震災で瓦礫に紛れ、常世に紛れた(作られて間もない方の)椅子だったとすれば、辻褄が合う(椅子は一つ!)
もしかすると、ちゃんと見直せば塗装の劣化具合でこのことは明確に示唆されているかもしれない
仮にそうなら、母・椿芽が椅子を作るシーンで明確に塗装する描写があるのはその布石になっている
(なければ空振り)
ダイジンはなぜ要石の役目を放棄したのか?
引っこ抜かれちゃったから
というのは表面的な話で(そもそも抜き差しは象徴的儀式表現にすぎない)、
まず(ウ)ダイジンとサダイジンは一対のカミである
基本的に荒魂であるヒミズノカミを鎮める役割を果たしていると見られる。その意味でヒトにある程度友好なカミである
私的な前提解釈として、そもそもヒミズノカミ=日本列島のウブスナ(産土神)である(草太の祝詞)
「日を見ず」と解せば根の国(黄泉の国)に住まうカミ、すなわち死のカミであり、「火水」と解せばすなわち災害のカミであるから、いずれの解釈でも荒魂といえよう
さて、ダイジンたちが鎮めのカミであるとしても、カミは基本的に気まぐれであり、また一つのカミのうちにも二面性をもつ
したがってダイジンたちもまた荒ぶる、気まぐれを起こすことがある。産子であるヒトが死ぬことや、災害が起きることに対し超然としているのも当たり前である
そう考えるとDEATH NOTEのリュークってカミ的だな…
World of WarcraftのBwonsamdiもカミ的だな。WoW時代に導入されたキャラの中ではかなり好きなんだけど、だからか……
また、草太のセリフの中に言及があったが(ちゃんとは覚えておらず)、
要石を打ち、後戸を閉じた上でヒトがその周りに家や村、町を築いて住まうことで地は鎮まるはずのところ、過疎化や大きな災害で空洞ができることで鎮めは緩む
そしてヒトが住んでいる間は彼ら産子の活力それ自体が鎮めの力となり、また自然と祭礼も行われ、カミに対する畏敬・感謝も保たれる。が、それが途絶えると鎮めは緩み、カミは力を失い、へそを曲げて気まぐれも起こしやすくなる
閉じ師が後戸を閉じるとき、その土地にかつて住んでいた人々の思いに耳を傾けるのは、失われた活力・鎮めの力を一時的にしろ取り戻す行為なのだろう
ダイジンが鈴芽から供物(自宅で草太を手当しているときに煮干しとミルクを与えた)を受けたことで血色が良くなったり、逆に物語中盤過ぎ、鈴芽に拒絶されたことで痩せ細ったのはその表現
東京の後戸の奥で鎮めていたサダイジンが、基本的にダイジンよりも大きく、血色が良く、常世でミミズ(ヒミズノカミの荒ぶる姿)と戦うことができているのは、ヒトが多く、祭礼もいまだ盛んな東京で務めていたから
鈴芽が去った後、草太の祖父の窓辺を訪れたのはサダイジン。基本的に閉じ師・宗像家は江戸・東京を根拠地としているのだろう
祭礼などの機会にサダイジンは姿を(形代であれなんであれ)宗像家に見せることがあったのかもしれない。それで面識があった
関東大震災後に後戸を閉じたときなども宗像家のの先祖が頑張り、サダイジンに力を注ぎこんだのだろう
ということで、宮崎の田舎、廃墟となった温泉街で徐々に要石としての力を失ったダイジンは機を見て逃げ出し、草太を椅子(というか人柱)にし、鈴芽とともに各地の後戸を閉じて回らせることになった
これはいわば業務引き継ぎである
鎮めの地が衰えてすっかりやる気をなくしたが、それでもなんだかんだちゃんと産子の面倒を見てくれているわけである
終盤で鈴芽も「(後戸のある場所に)連れてきてくれてたの?」と気づく
鎮めの要石の役目は、カミが務めればヒトにとっては都合がいいが、気まぐれにカミが抜け出したならば人柱で代えなければならないのはまあ自然の成り行きといえる
(東日本大震災があったことで、鎮めの要石の位置もそちらに移したほうがいいという流れも働いたのかもしれない)
だとするとなんか「天気の子」と話の構造似てない?またこういう話なの?
というかここまで総じて、「民俗学的日本」の文脈のお話でよくでてくる要素が多いのは間違いない。新海監督のSF作品はこの類型結構多い
常世・幽世に対する現世・浮世
常世と結びついた「巫女」、妹(いも)の力
人柱
災害とカミ(荒魂)
言い換えれば、これらは新海監督にとっての主たるモチーフであり、「書きたいもの」の構成要素なのだろうと思っている
得意とする美術的表現との親和性も高い
エンタメ性やメッセージ性はそれぞれの作品ごとに違いありつつも、根源的モチーフがいくつか通底しているために「似たような作品」と捉えられるのは間違ってはいないと思う
いわゆるセカイ系っぽくなりがちなのもこの辺が一因か
それを「味」「得意」「らしさ」と見なせば強みになる
前作との違いとして、
「天気の子」では最終的に陽菜(=巫女=人柱=常世と結びついた存在)を現世に取り戻すため、大雨という災害を受け入れるという代償が支払われる
これは「(人の生死や地が乱れることに感知しない)カミの超然とした立場」を人々が受け入れた(受け入れさせられた、受け入れざるをえない状況になった)と解せば、「すずめ」におけるダイジンの振る舞いなどと表裏の関係かもしれない
終盤で立花家の祖母の口から語られるように、地が乱れたとしてもそれは昔の姿に戻っただけかもしれず、カミの時間軸では些事である
とすると「すずめ」で最終的に諸々丸く収まるのはなぜか
「すずめ」においては鈴芽を始めとする産子たちは大きな代償(大震災)をすでに支払っている
そこから生じた因縁の末として、産子の一人たる鈴芽が巫女(閉じ師)の立場となり、また心底からの自己犠牲(人柱に進んで代わる)を発揮した
ダイジンは、鈴芽から強い力を見出し、また震災で失われた多くの産子たちの声・思い(本来その土地を鎮めていたヒトの力、活力)が時を超えて流れ込んだことも重なって、力を取り戻し、再び鎮めの要石の役目を受け入れた
このように時間軸や因果を逆にして、共通するモチーフを持った物語を紡いだ、と受け取ることができそうだ
そのへんの「前提」が仮にあったとして、作品内で説明が完結してないのってどうなの?
「作品内で説明が完結しておらず、放映対象文化圏の習俗・文学などの知識が作品理解のためにある程度必要」な映画って、普通じゃない?
キリスト教的世界観・習俗を前提としてないと受け止め方が微妙になる欧米の映画とか多そうだし
あと、そもそもどんな媒体の創作物であれ、その作品内で全てが完結してる必要がそもそもないよね(受け手側の理解・解釈と補完しあって「感想」「批評」になるのが普通)
そういう意味で、
共有された「前提」をもって見るといい感じに映画で提示されるアイデア・ストーリーと補完しあって「おお〜いいね」となるが、
そのような「前提」のない状態で見ると「微妙じゃね?」となってしまう(有り体にいうと、例えば「海外受けが悪い」とか)
…という状況がもし「すずめ」や他の新海作品において発生したとしても、そんなに驚かない
ということで、個人的に今作はここまで書いてきたようなオレオレ解釈が綺麗にハマったし、単純に視聴後の気分も良かったので、傑作でした
小説読んだ?
読んでない!なんなら新海監督作品の小説版、読んだことないかもしれん
結構小説で色々補完されるのが毎度のこと、というのは聞いてるので、この記事は改めて、映画だけ見て書いてるオレオレ解釈です
東京の後戸、あそこだけファンタジー感強くない?
神君の都にして帝都東京やぞ、地下に常世への門くらいあるわな