Self-Made Men: Identity and Embodiment among Transsexual Men
Henry Rubin(2003)
タイトルを訳すとしたら,「叩き上げの男たち」とかかな?
どんな書籍?
90年代後半USのトランス男性(FTM)のアイデンティティの形成と身体について探索的に検討した書籍.特徴としては:
「トランスジェンダー」のことを話す時,しばしば見落とされてしまうトランス男性にフォーカスした初期の著作(同時期には,Aaron DevorのFTM: Female-to-Male Transsexuals in Society(1997)がある).
FTMに関する医療の状況と身体やアイデンティティの関係,身体に関する主観的意味づけ,家族や知人との関係性とアイデンティティの関係をインタビューデータから記述している.
バイナリなトランスを想定してはいるけど,現在においても記述の中身は十分示唆深いものだと思われる.っていうか日本だとFTMやトランス男性の集合的な固有性にフォーカスした社会学研究(自伝はあるけど...)がそもそもあまりないのでは?
周司あきらさんの本とかはそれも指摘しているだろうし.
良くも悪くもトランス女性ばかり焦点が当たるからこそ,トランス男性のナラティブ研究も蓄積せねば,となるわけです
NBiやXも当然だよ!排他じゃないからね!
もっとも,ここに書かれているトランス男性のナラティブは,今や必ずしも多くのトランス男性に当てはまる,というわけではないだろう
人によっては,2000-2010年ごろのトランス男性のナラティブかな?みたいな感情を持ちそう
とはいえ,別に全く異質な経験とは言えないだろう.ここで示されるいくつかの重要な経験の説明については拾い上げつつ,適切にアップデートしていく必要はある
当時の多くのトランスに対する議論や研究に対する批判的な指摘と,それを乗り越える方法論を提示している
90年代までのトランス研究は,しばしばFTM自身の望みや声そのものを焦点化したり,社会的に位置付けることがうまくできていない.
ガーフィンケルのように,トランスという逸脱した存在を通して社会にある「ジェンダー秩序」を探る(トランスそのものには焦点は当たらない)ことや,
社会構築主義や系譜学を用いて,トランスの主体性を無視したり切り崩す(例:結局のところ,トランスの人は勘違いや思い込みをしている」とか「医療によって餌食にされている」といった結論を描いたりする)ことがあった
それに対し筆者は系譜学と現象学を組み合わせることで,「社会学的想像力」(個人の語りと社会的状況を適切に結びつける力)の発揮を可能にした
i.e. トランス医療の立ち上がりとその必要性の論理,そしてレズビアンコミュニティ上の変化を記述することで,FTMアイデンティティを説明する上での言説的資源や,FTMというアイデンティティの形成の背景の一端が理解できる
私の修論博論的には,特に§1が興味深い
i.e. メルロ=ポンティのモデル「身体イメージ」と「物質的身体のずれ」を用いることで,性別違和経験のうち,特に身体に関わるものをナラティブに準ずる形で説明することに成功している
→「フェミニスト現象学入門」とかでも持ち出されてる
問いを"What's the matter with you?"から"What matters to you?"に移すと言う発想は私の座右の銘の一つ。トランスに限らず、人の実存に関わる時には肝に銘じておきたい。
その他,身体とembodimentの社会学においても重要な示唆がありそう
という感じで,地味だけどトランス・スタディーズ的にも,(トランス)男性学的にも,現象学的にも大事だと思われるので,翻訳されるといいなぁ(採ってくれるところがありましたらやります〜)
++++++++以下全体の要約.元々は自分の理解用まとめなので結構長いです++++++++
イントロダクション
FTM...Hilary Swank(Boys dont cryでBrandonを演じた俳優)によってめっちゃ広まった
しばしばFTMTSは「伝統的なジェンダーにconformしている」と言われるが、それは全く間違いである
「普通の生活」と「ジェンダー規範に従っている」ことは異なる。
かれらは「普通の生活」を望んでいるが、「ジェンダー規範に従っている」わけではない
「自分自身でいる」ことが、自身を大きなリスクに晒さざるを得ない
筆者が行った22人のFTMに対するインタビュイーでも、こうした声は支持された
規範に従わないことのリスクを承知で、自らのジェンダー、embodiment、自然性に抗っている
筆者は「普通の生活」であるが、「慣習的でない人生」を送っていると分析する
フィールドワークについて
本稿のエスノグラフィックデータは、アメリカ都市部(SF, Boston, NY)で得られたものである
都心の方が、匿名性、医療アクセス、当事者コミュニティの存在によりFTMが多い
各地のコミュニティに出向き(1994-1995年)、そこで参加者を募集することにより集めた
インタビューは1-3時間。
インタビュー参加者の特徴
階層:労働者階級から上流階級まで多岐にわたっていた
人種:多くはヨーロッパ系白人だが、ネイティブアメリカン系、ジプシー(ロマ族)、mix-racedの人々も存在した
宗教:多岐にわたる:ユダヤ教、カトリック、プロテスタント、ユニタリアン(プロテスタント系だが三位一体説を否定する宗教)、仏教
多くは宗教実践を行っていなかったが、それはトランスであることと関連づけてはいなかった
年齢:23-49。20代が9人、30代が7人、40代が6人
13人がレズビアンとしてかつてアイデンティティを持っていた
22人中19人が男性ホルモンを利用していた
多くが胸の除去をのぞみ、また実際に手術に踏み切っていた
インタビューの対象となる条件は、「自分の身体が性自認と一致していないと認識している人」だった
しかし当事者の中のヒエラルキーの存在:「ホルモンをしている人が「真の」トランスセクシュアルだよ」
コミュニティの基準では「ホルモンが男を作る」と強調されている
→歴史的な主張が通じない。社会的事実は、ブッチとFTMは連続性があることを主張するが、FTMの人たちの同一化のありようはそれとは異なるものだった
究極には、研究の最も荒い部分が、最も興味深い問いを提起する。社会学はどのようにして、研究対象の生きられたものとしての身体や生物学を説明できるのだろうか?なぜ個人の生を理解する際にほとんどの人が方法論的個人主義になるのだろうか?社会学者として、社会学的想像力の欠如を研究対象者に問うべきなのだろうか?どのような手段の説明を取ることが、研究対象の生を理解するために展開するのだろうか?社会学は、偽りの意識という概念に頼ることなく、これらの説明システムを認識し、分析することができるのだろうか?(9)
結局のところ、これが私のやっていることなのだ。歴史的なモデルも、TSのインタビューを再構成・分析したものも、私である。FTMTSについての知識は、私自身のものである。他のTSや社会学の専門家、あるいはセックスとジェンダーのマトリックスに利害関係のあるすべての人にとって有用なものであると想像している。しかし、それはその制作の条件ではない。この責任は私にしかない。
何が問題=重要(matter)なのか
誰かに、「あなたのどこが具合が悪いのか」を尋ねるとき、私たちはしばしば診断と治療を求める。一方、「あなたにとって何が問題なのか」と問う場合は、その人にとって世界がどのように見えているのか、何が重要で何が重要でないのかという、その人の世界観を問うことになる。前者は病理化するものであり、後者は探求するものである。(10)
後者をインフォーマントに尋ねると、自分の身体が重要だと答える。
かれらは自分の体が自分を裏切ったと説明する。その裏切りのあと、参加者の多くは自分の身体に強い違和感を覚えたのだと。
自分の身体と核となるアイデンティティーとのつながりを回復し、再び自分を認識できるようになりたいと願っていた。
→身体は個人のアイデンティティ形成と認識において重要な要素
「身体」を理解するためには、対象者が自分の身体についてどのような経験をしているかを理解する必要がある。簡単に言えば、主観性が重要なのである。
「中核的な自己(core self)」を認識しているというFTMの報告は、社会学的に重要である
「中核的な自己」への疑義はしばしばなされるが、これは超越的な主体とその経験を唯一意味のある知識源とする哲学的・社会学的な理論への反発である
しかし、これは構造的な制約や主体の言説的な構成を過度に強調している
認識論的なシーソーを経験の方に傾けることが重要である
個人が「真の自己(true self)」を持っていると感じるのはどういうことかを考えねばならない
TSは、怪物(monstrous)、気違い(crazy)、人間以下とみなされてきたので、彼らの経験を重要視することは二重の意味で重要なのだ
しかし、経験だけが身体やそこに宿る主体を測る尺度であってはならない。
身体と主観性を考えるとき、歴史が重要(history matters)であることにも気付かねばならない
社会は、対象者が自分の人生経験を意味づける方法にある程度の制限を加えている
アイデンティティのカテゴリーは文化的に抽象化されたものであり、一人の人間や個々の人生経験の総和が正確に満たされることはない(=社会実在論)
したがってすべての経験は、歴史の流れの中に位置づけられなければならない
経験は知識の有効な源として否定されるべきではないが、そのような経験を対象者や他者にとって意味のあるものにしている歴史的な条件や状況についての考察なしに、無批判に受け取られるべきではない
FTM参加者の経験を理解できるようにしている文化的意味を理解するためには、これらの意味のあるカテゴリーの歴史を提供する必要がある
主体の深さ(Depth of Subject)/主体の死(Death of Subject)
内的な主体性を表す言葉は、「解釈的主体(hermeneutic subject)」や「中核的アイデンティティ(core identity)」など多岐にわたる
哲学的には「深い主体(deep subject)」と呼ばれる(引用がない)
「深い主体」概念は、一時的な議論の中でいくつかの打撃を受けてきた。
最も強い批判を受けたのは、フェミニストやフーコーの理論家たちであろう
これらの批判は、「主体の死」とまとめられることができる。そこで一貫して主張されているのは、「深い主体」は私たちの文化的想像力を結集したフィクションであるということである
しかし、FTMにとっては、「死」ではなく「深さ」が主体性を支配する原理である(=「深い主体」概念を利用する)
「深い主体」概念の重要性は、否定するのではなく理論化する必要がある
Charles Taylorは、「深い主体」の哲学的ルーツと社会的帰結について「真正性(authenticity)」 と「認識(recognition)」という用語を用いて説明している
現代の文化において真正性は、各個人が自分自身の本物を追求する相対主義的でアノミー的な形をとっているとされる
しかし真正性は、間主観的な認識に基づく形のものもある
間主観性を形成する最も重要な他者の一人は自分自身であるが、一方で真正性を認識するには他者が必要
実際、FTMの生の原則として、真正性が関わっている
アイデンティティやembodimentのありようの文化的側面を用いて、FTM男性は自らの真正性が誤認識されてしまっている問題に面している
セックス、ジェンダー、他の用語
社会学におけるTS
1.ガーフィンケル(EM研究,アグネスのケース)。ここではジェンダーは我々が「行う」ものとして理解される
ここでTSは、普遍的に我々が行っているジェンダーの実践の(極端な)例として利用される
ここで、ジェンダーは社会的に構築されているという主張がなされているが、この主張は問題含み
2.Robert Bodgan...Jane Fryというトランス女性のインタビューデータを利用。
Jane Fryは「異なること」の経験を強調し、BodganはそれをTSの生活の特徴としている
普遍化を行うガーフィンケルとは対比的。
フェミニズムにおけるTS
Kessler and McKenna FTMとMTFの差に気づいていない、ジェンダーを普遍化
Raymond トランス男性の動機を「偽りの認知」として説明しようとする
これらの説明は、TSの主観性を信用できるものとして描いていない
しかし、女性の生きられた経験から分析を始めている
この分析はしばしば、歴史性を無視している
TS研究
Hausmanのように、歴史性が強調される
フーコーのセクシュアリティ研究に習って、QSはジェンダーやTSの歴史性に取り組んできた
主観性に注意を払わないが故に、これらの研究では、しばしばTSの危機やトラブルが無視される
FTMとMTFの差異に注意が払われず、MTFばかり研究されるが故に、FTMはMTFの逆として位置付けらがち(実際は非対称な経験をしている)
本稿のGender, sexの意味
Gayle Rubinの『The Traffic in Women』に準ずる
gender...社会の役割期待。「男性」「女性」の役割期待が存在する
sex...身体に対する社会の期待。「male」「female」が存在。ヘゲモニックには、二次性徴や外性器で定義づけられる
(いわば,身体に対するステレオタイプをsexと再定義するわけですね)
(あとしばらく定義が続く...)
方法論:系譜学と現象学
本研究は、系譜学と現象学を用いる。
系譜学は人間の知や行動の言説的な条件を強調
現象学は知と行動を可能にするような、生きられた経験や具現化された(embodied)エージェンシーを重視する
2つの方法論を用いることで、一方だけでは不可能な発見をすることができると主張する
系譜学の長所/限界点
本研究の前半では、FTMTSという新しい種、アイデンティティの系譜をたどる。
この歴史では、内分泌学と整形外科の台頭が描かれている。
系譜学はあらゆる歴史的区間における、言説的制約や自由を前景化させる。
個人が自分の人生を理解するために使用するカテゴリーの歴史性を明らかにできる
フーコー流の系譜学は、「起源の歴史」という実証主義的な目標を、「系譜(line of descent)」と「現出」の探索に置き換える。
まるで人が自分の家系図を辿るのと同じように、出来事の(偶然の)関係性をたどる
顕著な限界点として、系譜学は主観性や生きた経験の重要性を否定する傾向にある
主観性を力の産物としてしか理解できないため
フーコー「構成された主体を捨て、主体そのものを取り除かなければならない」
一方で、フィールドワークにおいて参加者は実証主義、本質主義的な信念を持っていた
e.g.「トランスセクシュアル男性は今も昔も存在していた」「FTMTSとレズビアンは本質的に違う」
系譜学では、「身体が人間についての真実を語る」という主張も説明できない
これを解決するのが現象学である
方法論としての現象学
現象学的手法は、TSにエージェンシーを、またTSの語りに正統性を与える
現象学は、身体を究極の視点として考えることで、身体、生きられた経験としての私(I)、そして世界の認識論的な意義を把握する
サルトルの、身体の存在論の3つのレベル
サルトルの実存的社会学において、私たちが経験するものとしての身体は、私たちにとって世界が存在する方法である。
「身体」が根本的に断片化されていて、断片化された身体の存在論は3つのレベルがある。これらは根本的に異なっており、永久に両立できない。
存在論の第一のレベルは「対自身体(body-for-itself)」。
視点としての身体、それに宿る私のために生きられる身体
この水準の身体は、物体としての知識として知られることはない
この水準の身体は必然性と偶然性の元で構築される
第二のレベルは、「対他身体(body-for-others)」。
物質としての身体、触れることのできる身体
第三のレベルは、疎外された身体
自分の身体に関して、他者の視点に立つことを強制されたときに立ち現れる身体
メルロ=ポンティは、この一連の知覚が、「精神病」と呼ばれるような現象においてどのような意味を持つのかを現象学的に説明している
メルロ=ポンティ:身体イメージと病態失認
「知覚の現象学」において、幻肢痛と病態失認について記述されている箇所が存在
幻肢痛…失った身体部位が、元に存在して痛みを感じているように知覚すること
病態失認…身体部位を失ったはずなのに、それが知覚できないこと
この2現象を理解するため、メルロ=ポンティは「身体イメージ」という概念を導入する
身体イメージとは、物質としての身体のあるがままの地図ではなく、身体の精神的な表現である
「対他身体」に必ずしも対応していない
トランスセクシュアルと現象学
現象学は、自身の身体が経験を形成するというTSの認識を受け入れることができる
ではどの位相の身体に対しての理解を可能にするのだろうか?
FTMTSは、肉体とは相反する身体意識=身体イメージを持っている。
これはサルトルの枠組みでは「疎外された身体」に相当する
「身体イメージ」概念を導入することにより、FTMTSの主観的リアリティを病理ではない形で記述できる
現象学と系譜学を融合させることで、FTMのアイデンティティの出現について、より複雑な図式を形成できる
言説分析により、現象学的な説明を歴史化できる
現象学は、体現されたエージェンシーを系譜の説明に入れ込むことができる
この複合的な方法は、C.ミルズの「歴史と伝記の交差点で書け」という社会学的な命令を満たすものである
社会学的な想像力は、歴史と伝記、そして社会の中での両者の関係を把握することを可能にする(Mills 1959, 5-6)
ミルズは、多くの人間が持つ方法論的個人主義(自分自身は構築された存在ではないと感じていること)を指摘している
歴史(系譜学)はこの個人主義を克服しうる
ただし、ミルズはまた、歴史的に位置付けられた主体のエージェンシーも強調している
彼が生きているという事実によって、彼はこの社会の形成とその歴史の流れにわずかながらも貢献しているが、それは彼が社会とその歴史的な押し引きによって作られているからである(Mills 1959, 5–6)
現象学的知見を、第1章と第2章の系譜学と重ね合わせることで、FTMの人々が歴史的に特定のカテゴリーと条件の中でどのように意味を構築しているかが明らかになる
1章:治療の論理
「トランスセクシュアル」というカテゴリーは、文化により近年形成されたものであり、不変な現象ではない。
身体がジェンダー化された主体を表現していないと感じる人はいたかもしれないが、それは「トランスセクシュアル」ではない
本章では、フーコー流の系譜学を用いて、医療技術とジェンダー、セックス、セクシュアリティに関する思想体系のフーコー的系譜を説明する
「女性身体の倒錯」の系譜学
本章では、FTMTSというカテゴリーが、女性の同性愛とは別の、しかし強く影響した社会文化的な主体的立場として登場したことに焦点を当てる。
実験内分泌学の前史
若さや不死の方法の探索が、内分泌学の誕生をうながした。
また内分泌学の主要な発見は、「生命力をもたらす」性ホルモンの発見である
トマス=クーンによれば、19世紀から20世紀にかけて発展した内分泌学のパラダイムは、3つの本質的な考え方をもたらした
1. 性腺と性ホルモンの正常な働きが、解剖学的特徴と第二次性徴に影響を与える
2. すべての人間は両性具有的基盤を持っている
3. 両性具有的逸脱は自然であり、治療可能な状態である
臓器療法:内分泌物の利用価値
臓器療法とは、性腺や腺組織を利用(移植)して、加齢によって失われたものを回復させる治療法である
Voronoffらは、疲弊の法則(生きた器官は衰えていくという法則)を克服する手段として臓器療法を確立した。
この際、臓器療法の支持者であったSteinach、Voronoff、Brown-Séquardの3人は、その「治療」の正当化のため、民族主義や東洋、エジプトへの恐怖心を利用した
ホルモンの合成、「正常な両性具有」の位置付け
臓器療法からホルモン療法への移行が始まったのは1905年。
それに伴って、1920年代から1930年代にかけての内分泌学の主要プロジェクトの一つは、性ホルモンの単離だった。
天然エストロゲン(女性ホルモン)の分離は、テストステロン(男性ホルモン)よりも急速に進んだ。動物の尿を使ったテストでは、テストステロンの方が高価で時間がかかり、複雑であった。
このような非対称性のために、テストステロンの性質や機能に関する調査や、治療法としての利用が遅れた。
このことは、FTMの治療法とFTMのアイデンティティがMTFのアイデンティティと比べて歴史的に出現が遅いことの説明にもなっている
内分泌学は、1931年に正常な女性に「男性」ホルモンが存在することを、1934年に正常な男性に「女性」ホルモンが存在することを発見した。 この結果は、性に関する二元論的なモデルに疑問を投げかけた。
従来の二元論的モデルは、男性と女性の身体は相同だが完全に異なる2種類の人間であると理解されていた。
しかし1930年代になると、内分泌学は二元論的なモデルを両性論的なモデルへと変わっていった。
両性論モデル…すべての身体は男性的なものと女性的なものの組み合わせであるという理解
性内分泌学者は、性と身体に関する定量的な理論を導入するようになった。
両性論モデルは、トランスセクシュアルが性を変える技術を主張するための認識論的空間を提供した
二元論モデルの基では、クロスホルモン(男性に女性ホルモン、女性に男性ホルモン)治療を行うことは(本来身体に存在し得ないものをいれることになるため)禁忌とされていた
しかし両性論モデルでは、それが禁忌にはならなくなった
倒錯のための医療:内分泌物質の新しい利用法
1930年代から1950年代にかけて、性倒錯者はホルモン欠乏が原因とされ、ホルモン剤による治療が行われた
内分泌学者の問題は「どちらのホルモンを入れるか?」であった
当時の答えは、「先天的であれば(身体上の性と)逆のホルモン、後天的であれば(身体上の性と)同じホルモン」を入れるというものであった
ただし身体上の性が男性の人に対してのみ。女性の人に対しては禁忌とされていた
ここでの性倒錯者=(のちに言われる)同性愛者もトランスセクシュアルもごちゃ混ぜであった
ほとんどの性倒錯者(同性愛者)は自らの意思に反して治療されていた
しかしトランスセクシュアルにとっては重要であった
この治療は2つの歴史的軌跡に分岐していく。
やがて、同性愛者に関して、ホルモン療法は効果がないと分かった。
男性ホルモンは性欲の強さには影響を与えるが、方向性には影響を与えないことが明らかになった。
1947年、医師たちは、男性の倒錯者は同性愛の倒錯を「治す」ことはできないが、性的に無力化することはできると判断し、女性ホルモンを投与するようになった
この時期の文献では、女性の倒錯者は無視されている。
女性は男性の反対にすぎないと理解されていたから
医学的に治療不可能とされたから
女性ホルモン投与は同性愛の女性には効果のない治療法であり、男性ホルモン投与は男性化作用があるため禁忌であるとされた
治療可能になるために:2つのタイプの逆転現象
内分泌学が治療できないため、女性の性倒錯は心理学者の問題として扱われていた
そんな中、マイケル・ディロン博士(実は自らもFTM)が1946年に出版した『自己:倫理と内分泌学』は、女性倒錯者のホルモン治療を主張する試みであった。
ディロンは、女性倒錯者を「インターセックスのような治療」を必要とする同性愛者として確立しようとした
ディロンの正当化の試みは次の通り
同性愛者を先天的な障害と、後天的で意図的な障害に二分
この二つを心理学者は分けていないと批判
そして先天的な障害をもつ人には、身体的条件がその性質を決定している(=インターセックスに近い)のだから体を治療すべきだと主張した
ディロンの論理は、2つの原則を仮定している
1. 明らかに識別可能な生理学的または解剖学的な病理がない限り、身体を治療してはならない。
2. 適切な治療の種類は身体ではなく心が示すべきである。
この原則は、現代においても論争になっている。
FTMトランスセクシャルの心理的治療
ディロンが提唱した治療の論理は文献に引用されるものの、性倒錯の治療は、精神分析や嫌悪療法を好む心理学者に委ねられた
1950年代から1960年代の心理学者は、このような患者は体の問題ではなく心の問題であるという理解をした
身体的な介入へのアクセスへの治療が困難になるにつれ、患者は同性愛者との違いやインターセクシャルとの類似性を主張するようになった
しかしほとんどすべての報告書では、患者が主張する生理的障害やインターセックスについて、医者は軽蔑的な口調で言及している。
心理学者たちは、自分たちの患者を、悪く言えば騙されている、良く言えば戦略的であると考えていた
治療の外科的論理:再建的な治療と美容的な治療
まず、多くのFTMは、手術を経済的に手が届かず、機能的にも美観的にも不十分なものだと考えている。それよりホルモンの方がより重要と考えている。
手術方法の歴史
胸部再建術と子宮摘出術は、どちらも女性の体の「乱れ」を医学的に治療することがルーツとなり開発された
一方で陰茎形成術は、最初は男性の体のために開発された
再建手術か美容整形か?
鼻形成術や豊胸手術などの美容整形は、美を判断する際の道徳的な問題から、当初から疑問視されていた。
美容整形は、単に世間での自分の容姿に対する心理的な不満が動機となって行われる自発的な手術と考えられていた。
しかし、再建手術はこのような道徳的問題を抱えていない。再建手術の多くは、病気や戦争、労働災害などが原因でできた欠損で、道徳的に問題がないと考えられていた。
患者にとって不完全な身体に不服があるために行われるもので、この病理モデルは、医療介入を正当化するために、問題を身体においていた
インタビューデータでは、自分が受けたい、あるいは受けたことのある手術についてFTMは一様に「再建」の言葉を使って説明する
これは、単なる美容整形とは異なるという意味
結論
FTMという立場の出現には、医療技術や、それを行うための論理が関わっている
ただし、
FTMの中には、治療を受けるためにディロンのような治療の論理を用いる者もいるが、第3章と第4章のデータからは、FTMがその道具的な目的のためだけでなく、自分自身の主観的な感覚もまた説明できるから利用しているのだということも示される
TSの診断の発達により、FTMの主観的な立場が構成されるようになったことは、アイデンティティの出現が診断の出現に還元されることを意味しない
またTSは医学的な条件のみにより出現したわけではない。歴史はTSアイデンティティの生産と維持に貢献した文化の言説も検証しなければならない(→第2章)。
第2章 境界の戦争:レズビアンとTSのアイデンティティ
TSに関する初期の医学データでは、TSは圧倒的に男性の病気であるとされていた。
MTFの方が、FTMより多かった
しかし1970年頃までには、MTF:FTM比は均等になり始めていた
これはFTMの数が急上昇したことによる
本章では、FTMがなぜ多くなったのかについて説明する
この変化は、70年代のレズビアンコミュニティにおける、意図せざる結果として生じた。
「女性にアイデンティファイする女性(Woman-Identified-Women)」になること
70年頃、第二波フェミニズムの影響を受けレズビアンフェミニズムの波がおき、それにより誰が「真の」レズビアンなのかという境界線が策定されるようになった
20世紀の北米フェミニズムの第2波は、1960年代後半、すでに多方面からの攻撃にさらされていた文化の中で展開された
1970年代以前には、フェミニズムとレズビアンは混同されていた。しかし、フェミニズムとレズビアンコミュニティには共通した政治的、道徳的なアジェンダはなかった
フェミニズムはレズビアンを「ラベンダー色の脅威」として敵視。多くの論争があったが、その中で「レズビアンフェミニズム」が誕生
レズビアンフェミニズムの目標は、女性運動や社会全体に受け入れられることであった
レズビアン・フェミニストは「他の女性を愛する女性」であり、「ゲイ」とは異なる存在として位置付けられた。
「ゲイ」とは、男性の同性愛者や、「オールドゲイの生活」を続けている女性のことを指していた
この位置付けは、労働者階級の「ブッチ(男性的な服装、振る舞い等をする女性)文化」や男性を自認する「パワー・ダイク」を誤った認識をしていると批判し、レズビアンを中流階級のものとして位置付ける流れとなった
レズビアンである自らは「女性にアイデンティファイする女性(Woman-identified woman)」であると主張した
この言葉は、性自認(女性である)と政治的な位置(女性のために家父長制と闘う)
この時、レズビアンコミュニティに存在していた、ジェンダー・アイデンティティが男性である人や、家父長制的な女性像に沿っているように見える人々が排除された
「恐竜」たち
このような新しいレズビアン主義の動きは、「オールド・ゲイ」に壊滅的な影響を与えた
「オールド・ゲイ」の中にはブッチ-フェム文化があった
ブッチやフェムは自己嫌悪に陥り、誤った自己意識をしているとされた
前者は男性特有の服装や行動を、後者は家父長制的に定義された美しさやスタイルを追求していること、そして自分の弱さを主張しているとされた
この影響は、もっぱら労働者階級のバー文化に波及した
代わりに「ポリティカル・レズビアン」という現象が生じた
政治的な選択としてのアイデンティファイ、女性同士の性的接触は二の次。主に中産階級-上流階級がその担い手
「オールド・ゲイ」は絶滅の危機に瀕した、前時代の恐竜のようであるという言説が誕生した
しかし実際には、「男性性」の排除を元にして作られた現象であった
男性アイデンティティを持つ(身体上の性別が女性の)人々は、自分自身を意味づけるための新しい方法を見つけなければならなくなった
梯子(The Ladder)を登り、潮(The Tide)に乗る
現代のレズビアン界で最も長く発行されている『The Ladder』は、1970年、
この号をもって、14年目を迎えた『THE LADDER』は、もはやマイノリティの出版物ではありません。すべての女性、つまり誰よりも長く抑圧を知っている人間の大多数と正面から向き合っているのである。
として、編集方針を変更した
また1974年、ロサンゼルスのレズビアン出版社は、タイトルから「lesbian」という言葉を外し、『The Lesbian Tide』から『The Tide』と改名することを決めた。
この変化、読者の反応はどのようなものだったのか?
『The Ladder』において
Springwine...レズビアンとフェミニストの間の違いをなくして統一戦線を築くことを目的とした
Laporte...すべての女性にレズビアンの姉妹関係を受け入れるべきだとして、レズビアンに反対する人たちとの連帯を批判(差異の意識)
ブッチであるLaporteにとって、マスキュリニティはフェミニズムとレズビアンの重要な差異だった
Laporteのような立場はほとんど擁護されなかった
結果的にはレズビアン内部のマスキュリニティは否定されるようになった
『The Tide』において
レズビアンとフェミニズムの統合の落とし穴をより警戒していたが、『Ladder』と同様、最終的には「みんなのための何か」を持つ雑誌であることを宣言した
FTMTSアイデンティティの確立
1970年、FTMのKarl Ericsenの記事「トランスセクシュアルの経験」が「The Ladder」紙に掲載された
ここで、FTMは「身体をのぞいてあらゆる側面が男性である」と主張された
エリクセンの定義は、最終的には、自分が男性であるという個人の確信に基づいている点で注目に値する
ただし、この説明は「オールド・ゲイ」にも当てはまる特徴でもあるため決定的ではない
1970年代にFTMの数が増えたのは、この「倒錯の増殖」(Foucault 1980, 36-49)の結果のひとつである
1970年代には、FTMはレズビアンとはかなり明確に区別されるようになっていた
構築中のアイデンティティとの対峙
Ericsenに寄せられた手紙を初め、資料からは、多くの人々がこの新しく構築されたアイデンティティに対峙するようになったことがわかる
安易だという人から、生き延びるために性別を変える必要があるという人まで
結論
FTMのアイデンティティ確立においては、レズビアン・フェミニズムが重要な関わりを持っていた
FTMのインタビューイーの半数はレズビアンとしての軌跡を持っていた
これは当時の、文化的・個人的なレベルでのカテゴリーの混乱を示している
すべてのFTMがレズビアンとしてのキャリアを持っているわけではないという反対意見もあるだろう
しかしこれは私の説明を裏付けるだけである
性科学者や医者は、1980年代までFTMはすべて異性愛者であると考えていた
医学的なFTMTSは、まず反転した性別表現と女性的な性的欲求に基づいていた。
ゲイFTMの存在に対する医学的・心理的な抵抗は、レズビアン・フェミニズムとともに、ヘテロセクシャルなFTMのアイデンティティを強固なものにするための主要な推進力となった
今日において、臨床や実験の分野でFTMに関する報告がなされる場合、FTMとレズビアンが比較されることがほとんどである
これらは本章で述べた歴史の遺産である
i.e. 「not レズビアン」としてFTMTSアイデンティティが確立されたことに由来する
第3章 身体に裏切られること
Ed: ブッチやダイクは女性の身体パーツで十分快適で、FTMはそれができないということです。彼ら(FTMたち)は死ぬか、思い切ったことをするか、助けを求めるでしょう。(93)
人類学者はこれまで、FTMとブッチのアイデンティティを連続体として理解してきた
しかし多くのFTMはブッチとの線引きを行う(上の引用の通り)
その基準として、身体イメージと物質的身体の感じられ方の緊張をあげる
この主張は、歴史を踏まえれば当然である
レズビアンとの差異を主張することで、FTMは医療行為を受けることを成功させていった
しかしここで重要なのは、(その真偽や構築性ではなく)そのような差異の経験とその差異の主張である
その差異を身体に根ざすことにより、FTM達は移行を正当なものとすることができた
身体と自己
この調査に参加したほとんどの男性にとって、思春期は人生の最初の重要な「前」と「後」の時期だった
思春期以前は、身体が自分のアイデンティティに協力していたので、まだ自他に「男の子」であると信じ込ませることができた
しかしながら、身体が他の少年たちと大きく異なるようになると、本来の男性としての自分を認めてもらうことが難しくなった
参加者の多くは、思春期以前に自分が男の子であることを認識していた、あるいは、名前のない違和感だけが残っている人もいる
tomboyという語が、その違和や逸脱を認識するための言葉として機能していた人もいる
ただし、tomboyは一方で、男ではないというニュアンスもあるため、不満であったという人もいる
tomboyは二次性で、自分たちを一次性のTSと分類するnon-tomboy FTMもいる
思春期以前の参加者は、以下の3つの方法で自分を認識していた
典型的な男の子の活動を好む(他の男の子の体に近い体を持つ)男の子
女性の体を持つ他の人との明確な、しかし明確には定義できない違いを感じるおてんば娘
自分が女の子とは違うことを知っているにもかかわらず、女の子に関連する活動を好むために、他人からの疑念をあまり感じない男の子
思春期以降、彼らの身体は(無性別の無性愛者から)女性の身体へと変化し、その困難は飛躍的に増大した
主に→初潮、乳房の発達、髪の毛の成長という3つのことが、彼らに身体的な不快感と社会的な疎外感を与えた
初潮
出産の役割を果たすことができるかどうかは、大人の女性であることを示す物質的かつヘゲモニー的な基準である
しかし参加者にとって、この経験(月経)は歯を食いしばって迎えるようなものであった
Ed:初めての月経の話では、女友達の反応と自分の反応の違いを強調
月経が始まることで強い羞恥心と恥ずかしさを感じ、孤立(周りにバレないように親しい人を作らない)した人もいる
彼らが自己意識を維持するために展開する重要な戦略の1つは、婉曲的で不明確な言葉を使って、自分が嫌悪する身体の部位を特定することである
例:女性の体の一部を指すのに、ほとんどの場合、所有代名詞ではなく、冠詞を使う
乳房
移行寸前のFTMの中には、自分の外見の中で最も変えたい部分として、胸を優先する人がいる
胸は、男性としてフルタイムで生きることを妨げ、鏡を見たときに最も違和感を感じる
足の部分が切り取られたコントロールトップのナイロンからエースバンテージ、さらにはガムテープや特製のジャージまで、あらゆるものを使って胸を縛る
発育しなかった人や発育が遅れた人の中には、胸が欲しいという気持ちと、周りの大きな女の子が羨ましいという気持ちが同居している人もいる
この欲求に対する彼らの典型的な説明は、「普通」になりたいというものだった
胸があれば、自分が女性であることを確認でき、男であることへの「異常」な思いを魔法のように取り除くことができる
月経と同様に、FTMは乳房の発達に対する自分の反応が、同世代と思われる若い女性の経験と比べて異常であると感じ、孤立を助長した
不快な体の部分があることが、想像するのが難しい慢性的な精神状態をもたらした
自分の体に対する一定の意識と、体外離脱した感覚の間にいるような感じられ方である
これらの経験は、身体イメージと物質的な身体との不一致という感覚の存在を示す
FTMは、自分の乳房を認識することを拒否することで、体外離脱した自己となる
胸を再建した後、多くの男性が、手術前の自分の体の見た目や感覚を思い出せないと報告する
もはや病態失認ではなく、「1つの局にチャンネルを合わせている」ような感覚がある
一方,何人かのFTMは、胸部再建後、体外意識が(胸部より)ジェンダー化されていない他の身体部位にシフトしたり、逆に他の手術(陰茎形成など)への欲求、不満が起こることもある
このような欲求や不満は、肉体が身体イメージと同期していないことを示す
髪の成長
ジェンダー化された特徴として、髪の毛は重要な指標である
ただし胸や月経とは異なり、髪は切れる
実際FTM当事者は思春期に短くすることが多い
裏切り
参加者は、髪型や振る舞いといったジェンダーを身につけるだけでは、物事がうまくいくという感覚を持っていなかった
思春期の自分の体について、誰もが「裏切られた」と感じていた
身体による自己への「裏切り」は、彼らの人生を前と後、外と内に分ける恐怖である
この概念を受け入れることは、FTMの主観性を特権化し、それにより脱病理化することにつながるだろう。
彼らは精神的な問題を抱え、女性の身体を否定している女性ではなく、自分の身体が自分に対する悪質な反乱を起こしている男性なのだ(109)
トランジションを正統化すること:身体の中に位置付けることと女の子との違い
思春期の経験が周囲の女の子と違うのかを尋ねると、何人かは「わからない」と答える
極端な例であるという人もいるし、質的に違うという人もいる
『Blood Stories: Menarche and the Politics of the Female Body in Contemporary U.S. Society』の中で、少女たちが生理に対して両義的であることは示唆されている。期待と興奮に加えて、大きな恥ずかしさと恐怖を感じている。
しかし参加者からは、期待や興奮は報告されず、一様に否定的であった
当然この主張は回顧的なものであるため、これらの違いを検証することは難しい
しかし差異の主張は、アイデンティティの提示に際し意味のある主張であることを示唆することができる
ジュリアンというインタビューイーの語りは、インターセックスの身体の重要性が示唆される
男性でありながら思春期にペニスから月経が始まった当事者の疎外感の話を読んだ時の強い共感の経験
1940年から1970年までの性倒錯者に対する治療の論理では、インターセックスであることの生理的な理由が必要だった
重要なのは、彼らトランスジェンダーがこのような主張をせざるを得ないということである
彼らはこのような主張をする実存的な必要性を感じており、これらの主張は彼らの経験した現実を反映していると感じている。
第4章 トランスセクシュアルの軌跡(transsexual trajectory)
FTMとしてのアイデンティティ形成は青年期に起こることが多い。それはいかにして起こり、FTMはいつ身体を変えるという選択をするのか(transsexual trajectory)。
trajectory(Barbara Ponse 1978)という概念は、ゴフマンのキャリア概念を拡張させたもの
軌跡とは、5つの停留所からなるアイデンティティへの非連続的なルートである
1.主観的な差異を経験→2.適切なカテゴリを見つけ、差異を意味づける→3.自分の経験を記述するものとしてカテゴリを受け入れる→4.コミュニティを求める→5.関係性に関わる
4つ目まではFTMの経験の説明になっている。5つ目は移行の選択をするとする方が良いが。
「重要な他者」との比較は、FTMが自分の経験を説明し、その経験をTSというカテゴリーに関連づけるために重要になっている
ここでの重要な他者は必ずしもロマンティックな関係性に限らない。アイデンティティ形成を助けてくれる重要な相手を意味する
e.g. 遊び友達や母親、女性パートナー(「とは違う!」)、知り合いのMTFやFTM(「と同じ!」)との比較。
サポートグループ、情報交換会、会合なども役立つ要素でもある
男性パートナーを持つFTMは、相手(の男性)のことを
(1)性的パートナー(=ゲイとしての関係性)
(2)男性性のモデル(=自分がなりたいと思うような男性像)
(3)ゲイライフへの乗り物(=ゲイコミュニティに誘う存在)として捉える。
一方、経済的、政治的、あるいは医学的な理由から移行しないことを選択するFTMもいる
また、完全な自己受容や完全な男性としての生活の代わりに、人間関係を維持することを選ぶ人もいる
この現象の理解では、移行の選択と自己受容の問題を分けて考えるとよい...(この2つは時間が教えてくれるだろう)
治療の専門家がアイデンティティ形成の障害になることもある
治療の長い間、自分のアイデンティティを避けることや否定することに費やされた経験
ミスジェンダリング(女性として扱われる)、女性になればもっと楽と言われる、間違った情報を与えられる、「あなたはこのようなことをしてはいけない」「宿命を受け入れろ」と言われる...といった
FTMは、他人の懐疑的な見方を内面化していくことがある
妊娠の経験は最たるものである(妊娠→女性のものという前提により、自分が移行に値しないのではないかと考える)
子供を産みたいという願望は、自分が女性であることを意味しないという判断がこの問題を回避した
「母性本能」の欠如は、彼が自分の性自認を確認するもうひとつの材料であった
FTMの中には、他のTSを認識できない人もいる
特にMTFとFTMは、必ずしも経験が一致しない。またMTFの女性的な雰囲気に対してFTMが抵抗をかんじることもあり、同一化対象として難しい側面もある
FTMは自分が他の男性に似ているか比較するが、それに起因する悩みも発生する
自分は(ヘゲモニックな)男性像に見合っているかどうか?みたいな悩みから、ヘゲモニックな男性像そのものになりたいのかという疑問も発生する
これはアイデンティティの曖昧さかもしれないし、男性像のバリエーションなのかもしれない
TSの軌跡の最終地点は、移行の選択である
TSの軌跡は、必ずしも明確な終わりを持つ直線的なプロセスではない。
ステップを飛ばしたり、移行しないことはしばしばコミュニティの中では懐疑的に見られることである
非同一化の作業:FTMのアイデンティティを確立すること
非同一化の対象としてFTMの重要な相手は、女性の身体を持つあらゆる人たちである
FTMはレズビアンとの違いを繰り返し強調する
1. レズビアンキャリアのないFTMたち
彼らは移行する前に、他人が自分をレズビアンだと誤認する可能性に直面していた
その差異化の作業が語りの重要な部分を占めていた
レズビアンキャリアを持たないFTMは、ストレートとゲイの2つのタイプに分けられる
ストレートにとっては、女性に性的魅力を感じている事実はレズビアンと区別するために重要
全てのレズビアンは女性だが、自分は女性ではないのでレズビアンではないと説明される
この定義は70年代以降のレズビアンの傾向を反映している
実際は男性と自認するレズビアン(ダイク)もいるが、それを知ると驚く
また、「純粋な」ストレート女性との恋愛しかしたことがないという差異化の実践もある
この語りの間で、自分が移行するまで性的接触をしないという当事者が多い
ゲイFTMは、男性に対して性的欲求を持っているので、自分をレズビアンと見られる、あるいは差別化する必要はない
性的対象が女性の身体に適切と考えられるため移行前は困らない
しかし異性愛者としての対象を選択しているように見えるにもかかわらず、同性愛者としてアイデンティファイしていることを説明しなければならない
→ゲイへの親近感を強調
レズビアンとして扱われることへの緊張感はストレートFTMの方が上
ゲイFTMはセクマイコミュニティにいるため、それがよくあることだと分かっている
2. レズビアンキャリアを持つFTMたち
レズビアンキャリアは、しばしば間違っていたと説明される
しかしレズビアンが過去にアイデンティティであった
それを男らしくあるための手段であったと説明されることがある
しかしその中で女性であることを要求される場面、特に性交渉の時に違和感が顕著に出るという形で説明される
とはいえレズビアンキャリアを持つFTMの中には、レズビアンの定義を広げて自分を囲い込む人も、ゲイとして男性同士の関係を始める人もいる
移行へ
移行の選択は、トランスセクシャルの軌跡の中で、FTMであることの意味をめぐる争いが明らかになる場所である
多くのFTMは、ホルモンや胸部の再建を行う。ただし子宮摘出や精巣移植、ペニス形成などはあまり重視されない
身体的に移行したFTMは、感情の受容をすることが移行のプロセスの重要な部分であると説明する
ただし彼らは、感情の受容ができたらFTMは身体移行するものだという前提を持っていることがある
これが、身体を移行していない人たちに対する懐疑的な態度になることがある
ペニス形成の技術が十分でないことが、決断をする上での制約として立ち現れることがある
「ペニスがなくても男性になることはできると思います。しかし、誰がそんなことを望むでしょうか?」
あるいは外科手術後の体の特徴をネガティブに捉える人もいる
背が低い、体が小さい、胸の傷跡、お尻の骨格が違う
身体的移行をしていない人は、将来的に何らかの修正を予定している人とそうでない人に分かれる
さらに移行しない人の中にも、現在の身体的状態に満足している人と、違和感や不満があっても環境が原因でできない人がいる
支配的なパラダイムに対する新しい挑戦は、男性の間の差異を受け入れ、認めることである
e.g. 体が小さい男性もいる、お尻が大きい男性もいる
ただし、このような対処法は便利ではあるが、時として、制限された身体で生きることの苦痛を曖昧にしたり、否定したりすることがある側面もある
彼らにとって「受容」とは、自分が望む身体の改造を妨げる美辞麗句の罠である
歴史的および伝記的なアイデンティティ形成の相関関係
FTMのアイデンティティの社会文化的生産と、アイデンティティの語りは、相互関係にあるプロセスである
FTMは、自分がレズビアンとは異なり、インターセクシャルに近い存在であることを繰り返し述べる
これは医学的な治療の論理とレズビアン・フェミニストの文脈を利用している
彼らの個人的な語りの中にある用語は、当時の社会文化的な言説の元で作られている
しかし社会文化的な経験のカテゴリーは、個人がそのカテゴリーの中に自分を置こうとすることで変化することがある
FTMというカテゴリは、個人がその意味づけを行う際、その意味づけ方は既存のカテゴリを挑戦することもある
アイデンティティのカテゴリーは、常に過剰なものを生み出し、それに対して内部的な一貫性の感覚を維持する
オーソドックスな移行をめぐる争いは、アイデンティティの永遠の弁証法を反映している(142)
第5章 常に既に男性である
FTMの人たちは、女性の体を持っていても、自分たちはずっと男性だと思っている
対照的に、多くの非TSの人たちにはこれが不合理な選択のようにも見える
女性が男性特権を得るために男性になると考える人もいる
しかし、FTMは男性特権を求めているわけではない
彼らの目標は、単に(男性として)認識されるようになることである
彼らは "変身(transformation)"ではなく "移行(transition)"という言葉を使っている
彼らは、自分の身体とジェンダー・アイデンティティの間のリンクを修復している
男であるとはどういうことなのか、男であるためには何をしなければならないのか?
FTMの多くは、男性性(maleness, セックスのある身体)と男らしさ(masculinity, ジェンダー役割)を区別する
彼らは、すべての男性は男性の体を持っていると主張する、男性がある特定の方法で行動するという信念は否定する
このことは、この歴史的瞬間において、男性のアイデンティティが、行動や社会的役割ではなく、体現(embodiment)されることが重要になってきていることを示す
多くのFTMはテストステロン(男性ホルモン)が身体的な男性性の源であると信じており、また、テストステロンが男らしい社会的行動の源であると信じている。
これらの考え方は、男性性と男らしさ、アイデンティティと体現についての文化的なステレオタイプに適合しているように思われる
TSをジェンダーの再定義、破壊として評価する人もいるが、TS自体は、必ずしも支配的な男らしさを破壊したり肯定したりするものではない
本質的に男性だが、必ずしも男らしい必要はない
参加者は、他の属性に関係なく全ての男性が共通して持っているものとは何かについて、何らかの考えを持っている
参加者にとって男性の身体は、性別による役割よりも重要だった
FTMは、男性性と男性らしさを同一視することに違和感を覚えている
参加者22人の男性のうち20人がこの2つを区別していた
この区別を明確にするためにFTMが使う戦略のひとつが、ブッチレズビアンに言及することである
ブッチは男性的ではあるが、男性ではないと考えている
上の年齢の人は男性性と男らしさが結びついていることもあった
今回のフィールドワークの舞台となった都市部や沿岸部では、ジェンダー役割分担が少ない地域
ジェンダー役割の開放によって、ジェンダー役割の違和は身体の違和にとって代わっている
男性を体現することのパラドックス
FTMは女性の体を持っているにもかかわらず、自分が男性であると信じていることを説明しなければならない
彼らは自分のcore selfと「表現上の誤り」という概念をもちいて性別移行を正当化する
core self(核心的な自己意識)という概念は、彼らが男性としてのアイデンティティを主張する主な方法である
表現上の誤りとは、自分の身体は自分の内面を表現できていないという信念である
これはバトラーの言う表現主義(experessionism)である
私たちの身体のどこかにアイデンティティが存在し、身体を通して表現されるという信念
研究者はこれはフィクションであるとしばしば言うものの、この文化に生きる人にとってはなくてはならないものである
FTMはそのことを知っているのだ
彼らは、自分の内面を認めてもらいたいがために、すべての男性は男性の体を持っているというヘゲモニー的な信念を呼び起こし、自分の体を変えるのである
テストステロンの社会学
FTMにとってテストステロンは重要な意味を持つ
外科手術はいずれも跡が残る。特にペニス形成は技術も未熟なのであまり行われない
胸部の再建や子宮摘出は女性的な不快なものを取り除くだけだが、テストステロンは積極的に男性的な体(声、体毛、顔毛、筋肉脂肪分布などの第二次性徴)を作る
FTMは、社会的に男性として扱われることに二次性徴が重要であると考える
テストステロンと自己
FTMは、テストステロンが自分のcore selfに影響を与えず、身体と行動だけが変化すると説明する
内面が変わるのではないかと言う不安がある人はテストステロンを躊躇することがあるが、そうはならないと知ると安心する
男性性の源泉としてのテストステロン
FTMたちは、テストステロンには「外見」を変える力があると信じ、実際外見は変化する
多くのFTMの人たちは、徐々にではあるが顕著な変化を感じ、それを待ち望む
男らしさの源泉としてのテストステロン
少数のFTMは、男らしさや行動も変化させると信じている
この発想は物質的決定論的ではあるが、本書ではリアリティを理解するためにそのまま記述する
行動の変化として、エネルギーレベル、感情、攻撃性、性欲の変化が挙げられていた
社会学者はこのような報告を真摯に受け止め、テストステロンが男性の行動に与える影響について考えてみるべきである。
このような発言に注意を払うことで、男性の欲望や暴力に対する批判的な視点を持つことが可能になる。
この闘いを物質決定論として見逃してしまうと、コントロールできないという経験を悪化させる、一方でこの経験をフィクションとして矮小化しても、問題は解決しない
破壊的か、ヘゲモニックか?
しばしばTSの経験は、ジェンダー秩序を破壊する革命家として称賛されるか、あるいはヘゲモニックな男性性を追認する存在として批判されてきた
しかし現実は、そのどちらでもない
FTMはさまざまな信念や行動を行うが、それは文化規範に一致するものも挑戦するものもある
我々はセックス、ジェンダー、セクシュアリティの相互主観的な認識論の可能性を特定する必要があるだろう
脅かされる男性、脅かす男性
FTMは、男性であることを脅かされている人たちであるため、しばしばステレオタイプの男らしい行動をとることがある
脅威の2つの源
醜い身体と否定された中核的自己
身体が文化的理想から外れていると、男性として疑われてしまうことがあるため、防御的な反応を取ることがある
男性としてのアイデンティティが脅かされると、男らしい行動を取ることがある
FTMの身体移行は、女性差別や身体切除だと主張する人もいるが、むしろ移行によりステレオタイプでない男性性を考えられるようになる
おわりに
学者や活動家、セラピストなどは、なぜTSが危険を伴う複雑な外科手術やホルモン治療を受けなければならないのか、という疑問を持つことがある
答えは、主観を超えた承認のためである
個人の尊厳と自己決定権を強調するとともに、自分の人格と個人の完全性を他者が尊重して扱うことを意味している
また、男らしさが脅かされることがなくなるため、かえってステレオタイプな男性像をとらなくなる(社会のジェンダー規範を変えるのに重要である)
社会が彼らの身体移行を肯定すれば、FTMは自分の男性性に安心感を覚え、自分のアイデンティティを他者に伝えるためにステレオタイプな男性的行動に頼ることが少なくなるだろう
結論
本書はFTMのライフヒストリーであるとともに、アイデンティティについての一般的な考察である
彼らは、真正性と認知を得るため、並外れた工夫を行っている
あらゆるアイデンティティには2つの側面がある。アイデンティティは一面では特定の文化や時代の産物だが、どんなに構築されたものであっても、それを主張する人にとっては現実味を帯びたものなのである
トランスセクシュアルの生
ある少年の人生
彼らの幼少期のほとんどは、何の問題もなく、のびのびと過ごしていた。しかし思春期には、恐怖、恥ずかしさが付き纏い、ライフサイクルが奪われてしまった
思春期に対する経験は思春期の女性のそれとは質的に異なる経験であった
ライフサイクルの回復は、ホルモンと手術によって回復した
性別移行医療により、他の男性と見分けがつかなくなる
彼らの人生には、移行後もある程度、肉体的、精神的な傷跡が残る
それでもほとんどの人は、人生のありふれた喜びや失望を感じられるようになったと述べる
進行中のアイデンティティ
FTMは生まれた時からTSのアイデンティティを持っていたわけではない
アイデンティティ形成のプロセスは、TSの軌跡と呼ばれる
しかしながら、ほとんどの人が、自分はもともと男だったという
TSの軌跡は、「TS」というカテゴリーを見つけ、他のTSや他の男性と同一化し、女性特にレズビアンから差異を見出すことにより行われる
この軌跡はゲイ・レズビアンの「カミングアウト」とは異なる。移行すればするほど(「普通の」男性として)不可視化される
移行という多段階のプロセスは、数年にわたって行われる
半数ほどのトランスはTSというアイデンティティを確立する前にレズビアンとしてのキャリアを持っていた。これらは過ちとして説明されることで、自らは男性であると説明された
セックスとセクシュアリティの違いを学ぶことは、彼らのトランスセクシュアルの軌跡において重要なステップだった
レズビアンとしてのキャリアを持たない男性にとっては、レズビアンとの差異化はそこまで重要ではない
TSの軌跡の歴史的決定要因
レズビアンとの非同一化の条件は、歴史的に決定される
現在ではこれらのカテゴリー(FTMとレズビアン)は十分に分離されている
しかしFTMがアイデンティティを確立するには、セクシュアリティとセックスを明確に区別する必要があった
ホルモン剤や手術による治療を受けるためには、FTMは自分をレズビアンと区別し、自分をインターセクシャルになぞらえなければならなかった
レズビアンとFTMは、医療専門家と政治的アクターによって媒介された歴史的な関係にある
しかし、FTMの経験は、社会的な力によって構成されているからといって、現実味がないわけではない
歴史的に個人の経験が位置付けられるということは、その副次的な有効性や意味が損なわれることを意味しない
身体の文化的意義:表現力と認識力
FTMの経験を通して、我々ははセックス化された身体とジェンダー化されたアイデンティティとの現代的な関係を見ることができる
近代西欧文化では、身体はその人の魂を表現すると考えられている
移行前のFTMは、その身体を根拠に女性として扱われる
この信念は、FTMTSの自己理解の中にも見出すことができる
彼らの身体は核となる自己の表現に失敗している
表現の失敗は、トランスセクシャルが間主観的な認識を得ることを困難にしてしまう
身体の性別移行は、彼らの人間としての完全性とそれに付随する権利を確保するための合理的な手段なのである
もちろん身体の性別移行をしない人もいるが、それは他人から認められないことのリスクにもなる
もし、身体がアイデンティティの表現とみなされないのであれば、性別移行を余儀なくされるFTMは少なくなるかもしれない
しかし少なくとも近代西欧の枠組みでは、身体は自己の表現として中心的な役割を維持しており、認識は身体の表現機能に依存し続けている
まとめの言葉
西欧文化の中では、人々は自分自身を、深み、意識、あるいは魂を持つ対象として経験している
こうであるべきという原則が、人権、民主主義、健康などの社会の価値観を基礎付ける
もしそれが感じられなかったり、破損していると感じたりすると、それを取り戻す方法を我々は模索する
この欲求と深みのある経験は、個人や社会に悪影響を及ぼすことなく、放棄することはできない
自己意識とは、社会的に構築されたものであることを認識したからといって、否定したり、放棄したり、反論したりできるような意志のあるものではないのだ
FTMたちは、人並み以上にアイデンティティや身体性について考えてきた
彼らは自分の中に埋もれている知を見つけ出し、それに従うという現代の最も文化的ニーズにしたがっているのだ