Gender Plurarism
日本語で訳すと、ジェンダー多元論(主義)?
一言でまとめると、ジェンダーを複数、スペクトル、場、または交差するスペクトルや連続体として概念化していくこと
Ruth Pearceを読んでいて出てきて、地味に知らない概念だったのでメモ。
Surya Monroが、例えばBeyond Male and Female: Poststructuralism and the Spectrum of Gender(2005)とかGender Politics(2005)で提唱。 この人、分野で言うと、社会学とか社会政策みたい
この概念そのものというより、クィア的、アイデンティティの拒否な戦略に限定されない仕方で、ジェンダー多様性を包括的に考えることを可能にする方法の議論が興味深い。
この文献は2005年のものであることもあり、2020年代のトランスを研究してる人が読むと、多分「...で?」って思ってしまうぐらい、どこかで聞いたことがあるような内容ではある(逆に、全く知らないってなってたらそれはそれでちょっと不安...)。しかし、トランス(インクルーシブな)研究者が採用している視座を言語化しまとめているので、この辺の内容を押さえておくことは結構重要だと思う。
文脈として、90-00年代のTS/TGの理論論争の中で、TSの主体性やジェンダー化された身体性を認めつつ(しばしばTG論はこれに失敗してきた)、かつ性別が男女二つしか存在しないと言う前提(gender binarism)に限定されない、ジェンダー化された主体性を捉えるための理論枠組みが必要とされていたことがある。
ポスト構築主義、ないしは社会構築主義のメリットを生かしつつ、個人の移行や身体の経験についてin depthに記述するための方法論が求められたと言うこと
ちなみに、こういう時Henry Rubin(2003)とかRuth Pearce(2018)はミルズの社会学的想像力を引き合いに出してる。私も使う。便利。
言い換えれば、私たちは、インターセックス、アンドロジナス、ジェンダー・フルイド、トランスセクシュアル、クロス・ドレッシング、マルチ・ジェンダー、そして非男性/女性の人々を(1)物理的、身体化された人々として、それが意味する生物学的基礎づけ主義と共に、(2)かなり安定した身体的外観を持っていてもジェンダーを変えることがある社会的な人々として、(3)主流の男性/女性の規範と社会心理学的アイデンティティとは異なる経験を持つことのある心理学的な人々として、(4)基本的人権を持つことを可能にするために、社会構造や制度の変化を必要とするような政治的アクターとして、(5)現在のジェンダー理論を批判し、代わりの多元的な理論を作り出す必要のある学者たちとして支持するようなジェンダーの多元的なモデルを必要としている。(Monro 2005:14)
Plurarismって、2種類の軸の話をしている気がする
ジェンダーの種類の話と、どの位相のジェンダーの話をしてるのかっていう話と。
ここからは、主にGender Politics(34-9)を参照
重要な要素を要約すると以下の4点:
インターセクショナリティ(交差性)
ジェンダーとセクシュアリティを、国籍、年齢、能力、「人種」とエスニシティ、階級/社会経済的変数などによる複雑な文脈をもち、相互作用の中にあるものとして理解すること
ジェンダーとセクシュアリティを様々に異なる生物学的、心理学的、社会学的要素の構成物とみなすこと
これは医、コメディカル分野でよく提唱されるbio-psycho-socialモデルと相性が良さそう
ジェンダーとセクシュアリティを、本質主義的プロセスと構築されたプロセスの組み合わせの結果とみなすこと
言うならば「氏も育ちも」
これは理論枠組みというより、実証的にも示せる前提だと思う
政治的な背景と意味に着目すること
e.g.「性別をなくす」こと、「複数の性別を持つ」という戦略は、多くのトランスやDSDsの人々が拒否するものである
その上で、どんなふうにgender(and sexual) pluralismを概念化できるか?を探索
A.「男性」「女性」というカテゴリを拡張していくというやり方
このカテゴリは、ジェンダー多様性はある程度まで包含できるレベルの可塑性は持っている(e.g. campなゲイ男性、ブッチ女性、性別移行を行い切ったトランスの人々)
しかし、いくつかの限界がある
e.g. female masculinities(tomboy, butch dyke, マスキュリンな異性愛女性)の二元化されないトランスアイデンティティを消去する
マスキュリニティを徹底的に男性の身体から切り離すと、特徴付けることが難しくなる
マスキュリニティと合理性や攻撃性といった概念をくっつけることで、その反動としてマスキュリンじゃない人が合理性がない人とみなされてしまったり、マスキュリンじゃない人に攻撃性がないものとみなされることがある(当然、論理的には正しくない)
二項対立から完全に外れた人々は包含できない
とはいえ、現実的な戦略ではあるっちゃある
B. ジェンダーを「超える」というやり方
cf. Lorber(1994)の"degendering"
端的には、「性別をなくす」ことや「逸脱」とされる人々を性別二元論の外側にいる人たちとしてリマップすること
e.g. トランスセクシュアルを二元論の外側として捉えること...
ジェンダー多様性を概念化する上で有用ではある。より平等で包括的な社会を実現するためには、ある程度のdegenderingは明らかに有効
同様に、セクシュアリティの脱カテゴリー化も有効
しかし、いくつかの困難はある
いったんfluidなジェンダーが名付けられると、それは脱カテゴリーではなくなってしまう(カテゴリーになってしまう
アイデンティティのカテゴリーは、現実的な文化的・政治的組織の基礎として実際に必要
ジェンダー化されたアイデンティティを持つ選択肢を否定することになる(人々の自己決定権に反する)
C. そこで...Gender Plurarism!
ジェンダーを複数、スペクトル、場、または交差するスペクトルや連続体として概念化していくこと
e.g. 異なるジェンダー分類を新たに自己意識的に肯定することを求めること:zeとかhirといった代名詞を使用すること
補完する用語が広く普及することも考えられるだろう。ないしは、用語の拡張(e.g.「トランスジェンダー」という語の拡張)が起こる可能性もある
スペクトラムモデルが支持されるような文献はすでに存在する
スペクトラムアイデンティティの政治には困難も伴う
e.g. DSDsの人々の中には、インターセックスをアイデンティティとして身につけたくない人もいる
しかしながら、ジェンダー/セクシュアリティのスペクトラム(あるいは宇宙)の可能性を阻むことは、インターセックス、アンドロジナス、複数のセックス/ジェンダーを社会的に実現可能なアイデンティティから排除することになる(ゆえに必要)
生活上の自分は、結構Aの戦略をやりがちだな...