脱病理化
「脱病理化(depathologisation)」は、「性同一性障害」の問題性を述べるときに、(「トランスジェンダーは病気じゃない!」と言った表現に表象されるように)レトリカルに使われることがある。
もちろん、性同一性障害体制自体には問題があった(トランスの人々に対するイメージを「体と心の性別が違ってて、手術をして体の性別を変える人」としてしまったことや、特例法の諸要件が本人の生存のみならず、トランスのコミュニティにおける規範として作用してしまった....など)のは多くの先行研究が述べてきたとおりなので、それは大事なんだけど、別に、この問題点は必ずしも「病気とされたから」生じた訳ではない。その意味で(日本を含めた多くの)トランスジェンダー研究は、「脱病理化」が多層的な問題提起の中で生まれてきたものであることを捉え損ねているように思えるものが多い。
ちょっと挑発的な言い方をすると、研究者含め、「病理化」という言葉の使い方を、「病理化」という言葉が持つネガティブなコノテーションに依存させすぎじゃないかと思う。つまり、トランスと医療(「医療化」と呼ばれるような現象を含む)に関わるネガティブなものを(ちゃんと分節化せず)全部ひっくるめてレトリックとして表現するために使ってるというか。それだと「何が起こってるのか」を説明するのには不適切。社会運動の文脈でいうのはいいのかもだけど。
Hansmannもやっぱりこういうこと言ってるわ:
トランス活動家、トランス研究者、そしてトランスを支援する医療従事者がおおむね同意できる概念があるとすれば、それは「脱病理化」である。私の調査では、参加者たちは「脱病理化」という言葉をトランスのためのヘルスケアが目指すべきと考える法律や診断、臨床的な関係性を指して使っていた。しかしながら「脱病理化」(という用語において)は、対抗の対象となる「病理化する力」について必ずしも明確ではない。Care without pathology(訳註:Hansmannの書籍)は、こうした様々な力を明らかにし、脱病理化の支持者たちが何に対抗しているのかを問う。そのため本書は、トランス研究において支配的な傾向、すなわち「脱病理化」を精神医学の病理化によりトランスの人々に及ぼした独特な影響への反論として位置づけることに抵抗する。(Hansmann, 2023: 27)
そのため、「脱病理化」について論ずる際は、この概念が生じた文脈、それを踏まえた「脱病理化」という語の意味、「脱病理化運動」が目指している方向性について理解した上で使用するべきだと思う。ので、やってみる。
脱病理化運動とは
脱病理化運動とは、あらゆる領域において、トランスの人々の存在・ジェンダーアイデンティティが精神病理(pathology)と見做されないよう求める、主に、北米・欧州圏で生起した運動(例: STP, 2012)のこと。
「脱病理化運動」はコレクティブな運動なので、実態も、目指している方向性も一枚岩ではない(Bruke, 2011)。 フェミニズムや障害運動でも「脱病理化」はやはりあったよう。
「脱病理化」とは、特定の身体、社会的実践、主観性、あるいは状態が病理的あるいは非正規的であるとみなされる条項(term)に異議を唱える健康活動の様式(Hansmann, 2023: 58)
従って以下に示すように、性同一性障害→性別違和・性別不合という形で、つまり「障害じゃないので名称変更しました」という形で脱病理化を捉えるのは脱病理化運動のチェリーピッキング。
これは私見だが、pathologisationという語は、その人のジェンダーアイデンティティやニーズを異常視し、あるいは治療すべき精神異常とみなす動きに対する異議申し立てのために使われるべきだと思う。カテゴリ名の変更を説明するために使ってしまうと、「脱病理化運動」のポテンシャルを損ねてしまうと思う。
「性同一性障害=『病理』=悪」モデルが持ちうる問題点
確かにカテゴリに「障害」が入らないことは1. ネガティブなコノテーションをなくす意味があること、2. 医学上においても精神障害としてのカテゴリから外れたことを強調する意味があるという少なくとも2点において、特筆すべきではある。Konishi,2024でも論じたが、おそらくこのレトリックは、2000年前後に成立した制度が問題含みなものであったことを象徴的に訴えかける時に使われるようになっている。
一方で管見の限り、このような説明にとどまると以下の4点から問題もある。ので、注意すべき(個人的には「性同一性障害=『病理』=悪」という図式は1,2の観点から既にアウトだと思う)
1. 精神障害に対する否定的意味づけ・スティグマを援用してしまう(果たして精神疾患を持ってる人の前で「精神疾患なんかじゃない」などというのだろうか??)。関連して、下でいうところの「Medicalised depathologisation」という立場をとっていた人の実践を無効化してしまう。
平たく言えば、健常主義的。これは山田 2020とか藤高 2022も言ってる。
ただし同時に、病という認識枠組みが経験をネガティブな形に水路付ける側面はあった(有薗, 2004)ため、それを脱するような言説的な力が必要な人がいたことは認識しておく必要がある(さらに同時に、「病」という否定的な枠組みが自身が経験したネガティブな経験を適切に説明していると感じている人がいることも同様に認識する必要がある)
もっというと、上でいう「ネガティブな経験」を社会のみに原因帰属させるのには注意が必要(e.g.Baril, 2015) 2. 日本における「性同一性障害」というカテゴリのコノテーションや効果を英語圏のそれと混同・等閑視してしまう。
果たして日本で「性同一性障害」という語が導入されたから、90年代にトランスの人々の存在やアイデンティティが急速に精神病・頭のおかしい人として蔑まれ、差別されるようになったのだろうか??あるいは、この語が使われなくなったら精神病・頭のおかしい人ではなくなるのだろうか??
これは山田さんの博論の先取りだけど、日本における性同一性障害=心と身体が不一致な病気/状態なので、問題の所在は不一致に置かれていた。決してgender identity がおかしいという認識ではなかった
「正しい」トランスの人々のありようが医学上の基準や制度によって規定されていく現象、いわゆる「GID規範」(transnormativity)の問題は、「病理化」とは概念上分化させて捉えるべき(包含関係であることは否定しない)。
pathologisationという語は、その人のジェンダーアイデンティティを異常視し、あるいは治療すべき精神異常とみなす動きのことを指すが、例えアイデンティティを異常視しなくとも正当なものとみなさない実践は可能だから(こういう人がいることは病気じゃないので尊重しましょう、でも法的・制度的な保証はありません、みたいな宙ぶらりんな状態とか)
もちろん、トランスの人のジェンダーアイデンティティが本人の宣言だけでは(医療者の診断抜きには)正当なものとみなされないから法や医療アクセスに診断が要求されるのだという状態を、緩やかなpathologisationだ、みたいな言い方もできうる(シスの人のホルモン補充や、外性器の再建は保険適用かつ精神科領域2名の診断や適応判断はいらないのに…みたいな。こういう使い方は全然ありえると思う。だけど、日本においてこういう言説はあまり主流じゃないように思える)
ここも山田も藤高も、おそらく気にしていることだと思う。
3. 脱病理化運動のなかに存在した、医療アクセスの確保可能性をより公正なものにするためのモデル転換の可能性を無視してしまう。すなわち、父権主義的な医療への異議申し立てや、身体の自律性を取り戻すためのケアとして(ホルモンや手術といった)医療を再意味づけする動きを無視してしまう。
ここらへんの問題が日本では正直全然整理・議論されてない気がする(cf. Konishi, 2024)んで、私は研究やってるところある。 4.日本における「性別不合」というカテゴリの利用のされ方の政治を見えなくする。例えば、特例法改正時に語の変更だけがなされた結果、性別不合が事実上性同一性障害と互換、すなわち二元的かつ精神科医の診断を要請する規範的なカテゴリ(無理やり名前をつけるとすれば、「性別不合」規範?)として制度化される可能性を批判できなくなる。
e.g.「性別不合」は、少なくとも医学上の診断基準上は二値的でない性を許容しているが、日本における法律上の性別承認は二元のままだと、法律の運用によって「性別不合」カテゴリが持っていたはずの非二値的な性別の包摂のポテンシャルが潰される。
e.g.「性別不合」の設置意図はあくまでも身体治療のための診断コードが医療制度上(例え形式的であっても)必要であることによる。だが「性別不合」の診断を法律上の性別承認に要請するようにしてしまうと、法律上の性別承認と身体治療の問題が混ざってしまう(もちろん実務上は、「戸籍変更のための診断書」と「身体治療のための意見書」は分かれているんだけど、人々の理解・規範として)
医療の文脈でもこういう動きはある(Konishi, 2024)し、実は個人的に性別不合だけを積極的に名乗る当事者もみてるんだけど、ガイドラインや特例法がどうなるか、そしてそれがどう社会に受け入れられるかどうかは今後の動きをみる必要がある。研究としてまとめるには単純に時期尚早だと思う。 脱病理化運動の複数性
日本における「脱病理化」と医療の関係は私が博論でまとめる予定だけど(Konishi, 2024も参照してネ)。今回は英語圏における「脱病理化運動」の議論を、Hansmann(2017, pp. 119-155)によるボトムアップな分類学(declassificatory depathologisation, medicalised depathologisation, revisionist psychiatric depathologisation, depsychopathologisation, consent-based depathologisation and coalitional depathologisation の6つの運動の方向性)を解説しまとめる(この6つは排他ではない)。 ------
1. Declassificatory depathologisation(脱分類型の脱病理化運動)
医学カテゴリによって分類されることによって生じる社会的スティグマをとにかく問題視する立場(stigma-focused)。この立場は、診断カテゴリこそが病理化された人々を生んでしまうと理解し、根絶されるべきであると考える
例: (Park, 2011) 医療アクセスについては、そもそもトランスの人々は現在でも保険適用されていないのだから、失うものなどほとんどないと考える
問題点:カテゴリを完全削除することによって、医療アクセスの問題は等関視してしまうこと(脱医療化)、トランスは病気ではないという主張が、メンタルヘルスの問題などのスティグマを利用してしまっている
2. Medicalised depathologisation(医療化型の脱病理化運動)
医療化を通して周縁化に対抗する立場。つまり、診断カテゴリ自体は、医療アクセスのために必要であるし、たとえ診断カテゴリ名が変わったとしても、医療アクセスや社会保障における構造上の問題は変わらないと考える。また、診断カテゴリはたとえ服従させられる側面があったとしても、同時に医療や様々な社会統制に対する抵抗の手段として機能してきたこと(e.g. 差別禁止の運動)を肯定的に見る。
例: (Strangio, 2012)
障害運動との連関が最も強い立場。ちなみに、アルゼンチンではこの立場は見られなかったらしい。
3. Revisionist psychiatric depathologisation(改訂型の精神脱病理化運動)
スティグマと医療インフラへのアクセスの双方に注意を向けている。解決手段として、診断基準の修正を求めるが、この立場はDSMのカテゴリの「改訂」を求め、消滅は求めない。つまり、精神医療が持つ規範化への権力は問題視する(普通になることを要請する権力性="normalisation"および人間の多様性を、逸脱ゆえ異常とみなす="pathologisation")が、この問題は医療枠組みの修正、すなわち、個人の異常とするようなコノテーションがある"disorder"という言葉をなくし、ケアへのアクセスを維持することのみを目的とした精神医療の診断カテゴリを残すことで十分解決できると考える。
例:APAに準じる立場の人々
4. Depsychopathologisation(脱精神病理化運動)
Revisionist psychiatric depathologisationに立場は近いが、この立場は精神医学のテリトリーにトランスの問題が置かれることを問題視する。例えば、精神疾患のラベルの下で治療がなされること("psychiatrisation")、またUSの医学の認識論的な支配("psychiatric imperialism"; 精神医学帝国主義)を問題視する。
ICDの改訂はこの立場にある人たちの動きにも影響されている。WHOのワーキンググループはこの立場を最終的に認め、Gender Incongruenceをメンタルヘルスの章から削除した。
ただし、交渉の中で、精神疾患全体に対するスティグマを解決する方向には行かなかった。
この立場の人たちは、医療アクセスの問題に対して、精神疾患としての拒否と医療へのアクセス要求という2つの問題を結合し、異なる診断カテゴリの創設に求めた。また「自己決定」と「自律性」をトランスの医療アクセスの中心に据えた。
例: (Drescher et al. 2012; STP, GATE)
5. Consent-based depathologisation(同意ベースの脱病理化運動)
Depsychopathologisationの立場に近いが、この立場は医療へのアクセスを確保するという課題に対して、診断フレームワークをなくし、契約ベースの選択的なケアに求める立場。診断モデルでは患者と医療者の交渉が必要になるため、ケアのモデルに内包する「父権主義」を避け、患者の自律性を与えるために、インフォームドコンセントに基づいた医療提供を求める。
アルゼンチンのトランスの人権保障法においては、医療へのアクセスは"expressed desire(願望の表現)"のみを要件とすると定めている。ただし、現状の制度(USモデル)では、USもアルゼンチンも診断がなければ保険が降りない。そのため、現状はインフォームドコンセントモデルで医療を提供しようとする医療者でも診断を必要とする。そのため、Depsychopathologisationとconsent-based depathologisationはかなり近い立場にある 6. Coalitional depathologisation(連合型の脱病理化運動)
診断によってケアを受けるのに「適切」な主体かどうかの判断が必要な状態を問題視する。「病理化なきケア(care without illness)」を求め、病理化、人種化、性化などを分類せず、「自己決定」と「身体の自律性」を中心とした変革と再分配の政治を推し進める。
そのため、この立場の人たちは自己決定と身体の自律性に関わる他のイシュー、例えば中絶やIVF(体外受精)などの生殖医療へのアクセス、強制不妊からの自由、intersexの乳幼児への強制的な手術の禁止といったものとの連関を強調する
いわゆる承認の政治を求めるLGBT運動とはしばしば差異化がなされる(物理的な資源へのアクセスが必要なため)。
ケアの中での力関係やそれに対抗するトランスのケアの運動を重視するため、国家、市場、医療提供者とトランスの人々との力関係に切り込まないrevisionist depathologisationにはしばしば批判的。
まとめると、「脱病理化」にはかなり多数の論点が含まれていて、どこに焦点が当たるかによって運動のフォーカスが変わる。これらのダイナミクスを理解しないと、トランスと医療の問題はうまく論じられない。
(どんな論点があるか)
診断によるスティグマ
精神疾患としてのカテゴリ分類なのか、医学カテゴリの分類なのか
保険による治療費用の償還
医療ケア提供の構造上の問題
医療者による専門家支配
精神医療への異議申し立て
医療ケアの供給
医療提供の立て付け
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