社会学における喜びの欠乏を減らす: トランスジェンダーの喜びに関する研究
原題:Reducing the Joy Deficit in Sociology: A Study of Transgender Joy
by Stef M Shuster, Laurel Westbrook
どんな論文?
トランスを事例にして、社会学において、マイノリティ集団に関する研究には「喜び(Joy)」に関する経験的研究が明らかに不足し、それが「マイノリティ集団=不幸で惨め」という枠組みを形成している、という問題を提起している
トランスに限らず、マイノリティの(社会学)研究をやっている人には(先行研究部分だけでも)一読してもらって、ぜひ意見を聞いてみたい論文。
論文に当たったきっかけ(自分語り失礼。さっさと中身が見たかったら下の要約から読んでくだちい)
昨年12月、お茶の水女子大学にて「トランス女性にとって『重要なこと』はなんだろうか?」というテーマのゲスト講義をしたのだが、そこでもらった質問の中で、「トランス女性であることで幸せだと感じることは何か」という趣旨の質問をもらった。
この質問は「いい質問」だと感じたのだが、自分には明らかにこの問いに対して十分に言語化する手段が足りていない、という感覚があったため少し調べてみたところ、たまたま(トランス医療について著作のある)Stef Shusterが論文を出していた なおその時は、今の社会でトランスとして生きることは、やはり差別や抑圧、苦痛の経験が付き纏うため、幸せについて考える、言語化することが難しいかもしれないと言いつつ、あえていうならば、トランスであるということで「別の視点」に立つことを学んだこと、トランスであることで出会えた人々がいる、いうことについても言及した
「確かにその発想(Joyの側面の検討)はなかった」と思ったのでブックマーク
ちょうど時を同じくして、日本で、トランスについてのネガティブな側面に囚われない経験的研究という話があり、研究協力できそうだと感じたのももう一つのきっかけ +++++++++++++++++++
要約
トランスにとっての「喜び」(joy)とは何か、というテーマについての探索的インタビュー調査(40人)。
インタビューから析出された4つのテーマ
1. インタビュイーは喜びに関する質問に簡単に答えている
2. トランスに対するイメージとは対照的に、インタビューイーは疎外された集団の一員であることへの喜びを表明する
3. 疎外されたアイデンティティを受け入れることにより、自己肯定感(self-confidence)、身体への肯定感(body positivity)、平和の感覚(sense of peace)を高め、生活の質を向上させる
4. 周縁化されたグループであることが、他の人々とのつながりを促進する
インタビューを通し、「喜び」に関する社会学的研究の不足とその重要性(周縁化された人々の生活体験の理解の促進、不平等の軽減や社会問題の解決策を提供)についての問題提起を行う
イントロ
社会学は周縁化されたグループについて、否定的経験や不平等について焦点を当ててきた(=社会学者は大抵killjoy)が、それは周縁化されたグループのポジティブな経験を排除している
否定的経験は、社会生活の全てではない。
しかし一度構成された知の枠組み(episteme、エピステーメー)は、認識論的な排除(epistemic foreclosure。バトラー的に予めの排除と訳す方が適切か)を生み出してしまう
i.e. 周縁化された集団は、否定的経験や不平等を経験する人々としてのみ認識されるようになり、ポジティブな経験は見えなくなってしまう
それにより起きているのが、社会学における「喜びの欠如(joy deficit)」である
「喜び」は人間のwell-beingに不可欠である。ゆえにjoy deficitは問題である
トランス研究においても、この傾向は同様である。
多くの社会学的研究は、トランスの人々が直面する拒絶、差別、暴力、制度へのアクセス拒否、いじめ、スティグマ、ジェンダー規範などを扱っている
一連の研究は、シスノーマティビティや、場合によってはトランスノーマティビティの存在を指摘している
しかし、このような研究動向は、トランスの経験を惨めなものとして方向付けてしまう
この発想自体、シスの人、ひいてはトランスの人自身がトランスの経験を理解する仕方を強固にしている
従って、我々は、周縁化に対する異なる問いの立て方を立てる:否定的な経験ではなく、喜びに満ちた側面に焦点をあてる
もちろん、近年批判として挙げられる「幸せ」の商品化の問題、ないしはそれと「理想的な」市民との結びつきには注意を払わなければならない。
i.e. 我々は抑圧を無視する訳でも、あるいは不平等から目をそらすことを主張する訳ではない
我々は、インタビューデータを通し、一般的に周縁化されたグループに関する社会学に存在する「喜びの欠如」に対処することが不可欠であることを示す
インタビューにおいて、トランスの人々は、trans-joy(トランスジェンダーであることの喜び)を表現している
「トランスであることにより生活の質が向上し、他の人々と有意味で生き生きとした繋がりを持てるようになった」
社会学における喜び革命の触媒(catalyst for a joy revolution)となることを期待する
認識論的な排除の原因と結果(先行研究の検討)
トランスに関する刊行物や論文は増えているが、トランスの「喜び」や幸福、快楽に関する文献はほぼ無い。
レビュー論文では紙幅を割かれることすらない
エピステーメー、承認された物語、慣習的な問い
知に関する社会学的研究は、いったん特定の思考法(エピステーメー)が確立されると、それが正当性と規範的価値を獲得することで、変更を難しく、またしばしば不平等を永続させることを実証してきた
正当性を付与されたエピステーメーは、学者が研究結果を報告する際に特定の物語を語ることを奨励する
この意味で、中立的・科学的な事実はナラティブであり、エピステーメーにより形成されるものである
特定の問いのみが評価される場合、知識を生み出す可能性が妨げられ、結果として現状を永続させ、不平等を再生産する認識論的な排除が生じる
幸福や喜びに焦点を当てることへの懸念
社会学者は、「幸福の専制(tyranny of happiness)」のような支配的なイデオロギーを再生産することへの懸念から、喜びを研究することを敬遠することがある
e.g. 幸福は「善良な市民という今日の理想像の化身」になっている(Cabanas and Illouz 2019)
e.g. 抑圧を正当化したり、ジェンダーセクシュアリティに関するヘゲモニーを正当化するために使われる(Ahmed 2010)
また、社会学者は社会問題から注意を逸らす効果を恐れるかもしれない
e.g. 幸福感などのポジティブな感情は、表面的で儚い感情体験であり、社会生活を形作るより重要で根本的なプロセスから目をそらす(Cieslik 2015)
しかしここには、喜びを感じることと、幸せを買うことの概念的な混乱がある(喜びを感じることによって、不正義に対する異議申し立てを持続させる素地を作る)
多くの社会運動論者は、怒りや不満、屈辱が集団行動を触媒するために必要であると理論化してきた(e.g. Gamson, Fireman, and Rytina 1982)
しかし、最近の研究では、喜び、笑い、楽しさが持続的な運動の動員にとって不可欠であること(Wettergren 2009)、気分良く過ごすことが社会的不正義に対して怒りを感じるための前兆であるかもしれない(Kushlev et al 2019)などが指摘されている
喜びを扱わないことによる帰結
知識と物語の交差点にいる研究者たちは、何が未知なのか、なぜ私たちは何を知らないのかを問うことによりエピステーメーをほどくことの利点を実証してきた(例えば、Almeling 2020)
しかし社会学では疎外された集団について、社会的不平等に関するある種の物語のみが語られる傾向にある。そうすることで、疎外された集団の経験を完全に理解する可能性を閉ざしてしまっている。
社会学者は喜びや快楽、幸福に焦点を当てないだけでなく、痛みや苦しみに関する物語を不釣り合いなほど語っている
こうした不幸への焦点化されたナラティブは、アカデミアを超えて、当事者を含めて人々が、その集団の一員であることの日常的な理解や経験を形成していく
その結果、トランスの人々はストレスと恐怖に満ちた住みにくい生活を送ることになりかねない
こうした否定的な結果を踏まえ、ナラティブの社会学者は、どのようにすればより解放的な物語を語ることができるかを検討してきた
「覇権主義に対抗できる物語とは、経験や主観の特殊性を否定することなく橋渡しするものであり、想像も表現もされないものを目撃するもの」(Ewick and Silbey 1995: 220)
また、喜びに関する物語は、スティグマや暴力を減らすのに役立つかもしれない(Westbrook 2021)
研究方法
US中西部都市部で、「トランスの人々(trans people)」に対する40人ほどのインタビュー。
有意雪だるま式抽出(purposive snowball sampling。目的にあったサンプルを意図的に選択し深く研究)
一人当たり1-3時間、平均2時間。
形式的な質問と解答形式ではなく、会話トーンで行うことにより、生きられた経験や対話型を行うことを可能に
質問は、アイデンティティの形成、他者やコミュニティ等との関係、日常における不平等の経験、ジェンダーで分離された空間をどのように切り抜けたかといった幅広いものを行った
抑圧の否定的経験のみを強調しないように、「トランスであることに喜びを感じることはどんなことか」という質問を行った
この質問は元々Stefが偶発的に行ったが、それによりインタビューが肯定的なコメントで終わった
こうした質問は、主流のナラティブの下においては切り捨てられてしまう
trans joyは、ビーガンピザを食べながら、トランススタディーズの社会学の中にあるギャップについて議論したある夜に思いついたものである(←正直に書いてあってウケるwwww)
インタビューデータは帰納的アプローチを用いて分析された
i.e. データとコーディング、既存文献を行き来して、パターンを探した
2人はそれぞれコーディングしたところ、ほとんどが重複していた
浮上した4つの主要なテーマは以下の通り:
1)喜びについて尋ねることの価値
2)疎外された集団の一員であることの喜び
3)生活の質の向上
4)他者とのつながりの増加
インタビュー結果
以下では、4つのテーマに沿って説明する
1.「おお、これはすごい。それはいい質問だ」:喜びについて尋ねることの価値
40人中7人のみが、質問に答えることに苦労した
とはいえ苦労した人の回答は、トランスであることの困難を述べた後、すぐに、トランスであることがどのように喜びをもたらすのかについて語った、というものだった
Tomas:親や兄弟から勘当されたが、友達からのサポートを得たこと、女のふりをしなくても良くなり、喜びがあった
答えるのに苦労する人のパターンとして、性別や人種、年齢による傾向性は見出されなかった
一連のインタビューの最後の方の質問であったのにも関わらず、8割が苦労することなしに、詳細に質問に答えられた
2.「トランスジェンダーであることは呪いじゃない。天からの贈り物だ」:疎外された集団の一員であることの喜び
半数ほどのインタビュー協力者は、「周縁化は惨めな経験である」という通説とは裏腹に周縁化された集団の一員であることには強い喜びがあると述べた
Liam:「何年も、実存の自己定義をかけて戦っているようなものだ。今は、私はとても自分が何者であるか、しっかりしている(feel solid)と感じる」
Seth: 「自分のアイデンティティについて、戦うというかは安堵を求めることが喜びの一つだった。めちゃくちゃ安心した」
関連して、「選択肢があれば、決してトランスになったりしない」という通説に挑戦するような語りも存在した
Aaron: カミングアウトや性別の問題に直面することは代え難い経験。シスだったらもっと楽だったとは考えていない。
疎外された集団の一員でなければできないような経験や視点を持つことに対し、強い喜びを持つことがある
5人の人々は、「自分が普通とは違う(different from the norm)」ことに喜びを感じると述べた
Matt「(ジェンダーに関する)アメリカ文化の外側にいることができるのは、選択によるものではなく、運命(circumstance)によるものだ」「トランスジェンダーであることは呪いではなく、贈り物だ」
Felix「ジェンダーに対する経験、疑問、権利剥奪を通じ、自分自身や周りの世界についてより深く知ることができた」
常識に挑戦すること、そしてそれを変えることに喜びを見出すことができる
社会科学者は周縁化されることのネガティブな側面に焦点を当てるが、ポジティブな側面に注目することは不可欠である
3.「幸せそうだね!前は不幸せそうだったのに」:周縁化されたアイデンティティを受け入れることがどのように生活の質を向上させるか
インタビュー協力者は、トランスジェンダーとして自分を受け入れることで、自信を高め、身体を肯定することができ、全体的に平和な感覚をもたらすことで、生活の質を向上させていた
↔︎社会学的想像力を支配する物語は、トランスであることは恥辱をもたらし、アイデンティティを受け入れることができたとしても、荒廃と恐怖の人生を過ごす、というものである
インタビュー協力者のほぼ半数は、トランスジェンダーであるとアイデンティファイする前よりも今の生活の方が良い、と明確に表明した
「生活が悪くなった」と答えた人はいなかった
Laura「私のすべてを体現することで、よりパワフルな人間になれる」
Isaac「同僚にカミングアウトしたら、『すごく楽しそう!前はすごく惨めだったのに』と言われた」
多くの研究は、自尊心の低さと、トランスの人たちの自傷行為や自殺などの健康リスクの高まりを指摘するが、こうした懸念は、自傷的な対処戦略を使ったことがない、あるいは使わなくなった人々の重要な部分を覆い隠してしまっている
インタビュー協力者たちは、疎外されたアイデンティティを受け入れることで、自分を成長するための基盤を作ることができたと述べた
「固定されている」「地に足がついている」という感覚として表明される
こうしたデータは、トランスの人々が、根強い不平等や抑圧にもかかわらず(あるいはそれゆえに)自信を築くことができる可能性を示す
多くのインタビュー協力者が、自分のアイデンティティに気づくことで、内的な平和の感覚を見出し、それが生活の質を大きく向上させたと語る
Nico「真の価値を認められる(when people come into their own)という言葉のように、力強く、正しく、平和で大胆に感じられる仕方で自分と向き合うことができる」(p10、どういう意味?)
深い自己認識を持つことが、エンパワメントの感覚と結びつく
インタビュー協力者は、カミングアウト後、身体への肯定感が高まったことを説明する
こうしたナラティブは自分の身体をグロテスク、醜悪、信頼できないものといった「怪物的」というナラティブに挑戦する
Ava:「いつも頭の中で考えていたような女の子になれたと思うと、本当に誇らしい気持ちになる」
他人の身体についても、よりポジティブに受け入れられるようになったと振り返る人もいた(Alex)
こうした身体化された喜びは、「自分の身体に嫌悪感を抱いた場合にのみ医療介入を認める」という医療のナラティブに挑戦する
身体および社会的移行によって自分の身体に喜びを見出すことができたということが、周縁化された人たちに自己定義に基づいて自分の身体に住みつく力を与えることの重要性を強調する
また、トランスとしてカミングアウトする前から自分を嫌っていたわけではないいう声の存在は注目する必要がある
「真のトランス」ならば「間違った身体」を持つ自分を憎んでいるはずであるという医療のナラティブにも挑戦している
Vic: 「間違った身体に閉じ込められたという感覚や、身体が憎いという感覚はない。自分の身体は他のものとマッチさせる必要を感じただけ」
4.「トランスというグループの一員であること(being in the trans community)を愛している」:他者とのつながり
インタビュー協力者は、トランスジェンダーであることを初めてカミングアウトしたとき、孤立感を感じたと述べる
一方、70%(28人)の人たちが、トランスであることの喜びの一つとして他者との繋がりを明確に述べる
トランスであることで支持的なコミュニティに入ることができ、家族や友人との感情的な繋がりが深まり、親密なパートナーを見つけることができるようになった(River, Paige)
学者はしばしば、排除に焦点を当て、スティグマのある集団の一員であることが、自分のアイデンティティを共有する人々のコミュニティへの加入を得ることなどを通じて、いかにつながりを促進するかについて注意を払わない
4-5人ほどのインタビュー協力者は、トランスのコミュニティが家族のように機能していたことを説明した
中には、原家族から拒否されたケアを担ってくれたというケースもあり(Ben)
加えて、多くのインタビュー協力者は、トランスとしての差別やスティグマに関する経験を通じて他者を理解することに開かれるようになり、結果、コミュニティの外でも深い感情的な繋がりを得ることに役立っていると述べた
Morgan「人の役に立とうとすること。それが、カミングアウトしたことで得た多くのことだ」
多くのインタビュー協力者は、こうした深い繋がりの感覚によって、恋愛関係もうまくいっていることを述べた
Megan: 「トランスとして、愛とかその辺のことを見つけることが、私の人生の喜び」「昔は本当に、トランス女性はパートナーを持つことは絶対にできないと考えていた」
多くの文献は、恋愛関係の形成と維持にトランスの人々が直面する困難を強調しているが、こうした視点はより広い経験の理解を不可能にする
結論
喜びは社会生活の基礎であるにも関わらず、社会学においては(問題、不平等、苦痛といった他の要素に)取って代わられ、周縁化の経験の中ではほとんど言及されない
こうした社会学の中の認識論的な排除は自己永続的であり、それが社会学の喜びの欠如(joy deficit)を帰結している
喜びや幸福は、社会問題に対して取るに足りないと思われているが、それこそが問題である
喜びを扱わなければ、喜びをどうやって育むのかという知を形成できない
喜びはスティグマや低い自己肯定感といった問題と撲滅するために重要
周縁化された人々は惨めに生きているという信念を強化するという意味でも有害
本研究では、インタビューで「トランスであることの何が喜びか」と質問した
多くの協力者は喜びについて簡単に語ることができた
常識とは裏腹に、抑圧があったとしてもトランスであることを望むと述べた
自己肯定感、身体への肯定感、平和の感覚を通じトランスであることを受け入れることによって、生活がより良くなったことを述べる
多くの人々が、トランスであることによってコミュニティや恋愛関係といった深い情緒的な繋がりを得ることができた
周縁化された集団の人々の生活はこのように多面的であるにも関わらず、不幸や抑圧に関する側面が強調され人生を生きやすくする側面が見えなくなるようなサイクルは、自己成就的な予言となる危険性がある
研究参加者にも(インタビューや質問票の問いかけなどを通じ)影響を与えてしまう
学問が生み出した知識は、ニュースや教育システムを通じて一般の人々に伝わっていく
絶望を強調したことで生まれうる憐れみの感情は、しばしば集団のメンバーを「守りたい」という欲求を呼び起すが、抑圧された人々を持ち上げたり、祝福する気には決してさせない
c.f. 憐れみの物語を作ることは、寄付金を集めることには役立つが、スティグマを永続させ、障害者を無力化する
逆に、喜びについて尋ねることで、周縁化された人々であることの見過ごされた側面が明らかになるかもしれない
c.f. 黒人の喜びは抵抗の一形態であり、黒人の喜びを中心に据えることは反人種主義教育学に不可欠
今後の研究の道筋
本研究では、現在の生活における喜びに焦点が当てられ、過去は比較対象になっている
トランスであることの喜びと、他のマイノリティないしはマジョリティとの差異、特に「前と後」の物語を持たない集団との差異への着目は有効だろう
これらの質問を通じ、人々がなぜこのようなカテゴリーや社会階層のシステムを維持しようとするのかについて洞察を与える
本研究は、「喜び革命(Joy Revolution)」を提唱する
c.f. フェミニスト革命(Steacy and Thorne)、セクシュアル革命(Stein & Plummer)
肯定的な結果に関する学問が評価されるようなパラダイムシフトに取り組まなければならない
喜びを社会学的に研究することは、疎外された人々がどのように生き、社会生活を経験するかについて、よりニュアンスのあるアプローチを進める機会を提供する
喜びに注目することは、不平等を軽減し、社会問題の解決策を提供するのに役立つ
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感想・疑問点
論文がいう通り、確かにJoyは、重要なはずなのにしっかりとアカデミアでは検討の対象に挙げられていない(もっぱら、個人や当事者の出している書籍やzineとかブログとかで、ほんのりと見る程度)、という点は注目に値する。このテーマは別に差別を覆い隠す訳では必ずしもなく、むしろスティグマやマイノリティ=惨めといった枠組みへのブレイクスルーになるという指摘も全くその通りだと思う
研究上の関心に加えて、自分自身が読んでいて不思議とエンパワーされる感じがした。こういう感覚を得られる論文は大事にしたい。
特にこの分野(ジェンダーセクシュアリティ)にいる人は、おそらく喜びや幸せを強調することに抵抗感を覚えるかもしれない(幸せの基準は?とか、そもそも幸せである必要ってある?とか)。ただし、現状明らかに不平等、不幸、惨めなナラティブがヘゲモニックな現代社会においては、こうした提起は確実に価値のあるものだと私は考える。
それに、この論文で書いてある「幸せ」はトランス本人自体の語り。それは祝福されるべきだし。
一方で、論文に対していくつかの疑問点はある。ただしこれはこの論文が全て担うべきだとは思っていない
移行の多層性が考慮されてない
移行といっても、社会的移行、身体的移行、法的移行と複数のレイヤーがあり、これらはそれぞれが当人、周囲、社会に与える影響がある。この多層性を平べったく説明しているので、喜びを得る「プロセスを明らかにする」
特に本論文では、トランス女性のナラティブで、かなりembodimentが強調されているように見受けられる。これは身体的移行が、ある意味で重要な要素だということを示すだろう
関連して、トランスだとアイデンティファイすること、外にカミングアウトすること、移行をすることがほぼ同意義で書かれているようにも思える。でも多分この3つは同時には起こらないし、全てが起こるとは限らない
トランスジェンダーと自分をアイデンティファイしない人だっているわけで。でも移行をしていくうちに自分に対してポジティブな感覚が生まれたりすることはあるでしょう。
時間性が気になる。まさに苦悩に格闘している最中の人が、こうしたナラティブを見出せるか?移行途中でしんどいって言ってる人が、みんながみんなトランスでよかったーって必ずしもなるとは思えない
結論部分で著者も書いてたけど、全体的にある程度「乗り越えた人」が懐古して、ポジティブだと言っている気がする
そのポジティブさを可能にする社会的状況・個人の状況はやはり気になる。
うまく言語化しきれないけど、インタビュー対象者はアメリカに住んでいること、都市部だからこそ、インタビューを受ける素地があるからこそ(コミュニティに繋がれるとか、他の要素でマジョリティとか、若いとか)っていう要素は多分にあると思う。
これを読んでいると、「真のトランス」ナラティブへの迎合が可能な経験を持つ人、「埋没」指向の人ほど、Joyを捉えることが難しいように思える。けど多分必ずしもそうではないのでは?
「普通であること」の喜びはないのか?