トランス男性の性の語り-実践ートランスとセクシュアリティ研究へのSTSの導入
原題:Trans men's sexual narrative-practices: Introducing STS to trans and sexuality studies
JR Latham
どんな論文?(アブスト)
「トランスの人々は自己嫌悪にさいなまれているため、性的な実践は制限されるだろう」という臨床医学における前提は、トランスの人々が自らの身体とセクシュアリティを異なる形で経験する仕方を考慮に入れていない。
本稿は、語りの作業を検討することによって物質的実践に注意を払う最近の科学技術社会論(STS)の仕事を拡張し、トランスのセクシュアリティを位置づける新しいパラダイムを主張する。
そしてそのパラダイムに基づきトランス男性の自伝的物語を分析することで、トランス男性が性的主体として自分自身を意味づける(そして男性性を実行(enact)する)さまざまな方法のいくつかを示す。
sex-genderがどのように語り-実践の中で演じられ、結びついているかに注目することで、私たちはトランスの生活の現実と臨床診断の不十分さをより完全に理解することができると主張する.
…なんか難しい言い方が続くけど、もっとほぐしていうと、だいたいこんな感じ
性別違和(あるいは性同一性障害)の診断基準には.自分の身体の性徴に対する嫌悪や、性徴からの解放への欲求といった要素が折り込まれている.
そのせいで、自分の割り当てられた身体を使った性的実践をしている事が、診断を遠ざけてしまったり(例:男になりたいはずなのに、膣を使って性行為をしているなんて、本当に性別違和なのか?と医師が疑う)、自分自身のありようを確証しづらくなる(例:女であることに違和感はあるし男として生きたいけど、でも外性器を使った性行為はしてるし…トランスではないのかなと当事者が考える)効果を持っちゃう。
けど、自分の割り当てられた性徴を使った性的実践を行うことと、男性であること(maleness)は両立しうる。どうやって考えればいいかというと,身体性(ここではmaleness)はただの物質じゃなくて、物質、それに関するナラティブ,それを使った実践と言ったさまざまな条件の組み合わせで「実行される(enactment)」ものだと考えることである。
このアクター同士の繋がりをネットワークという(アクターネットワーク理論)
この枠組みに沿って、男性であることは、実は複数の実行の回路を取っている(multiplicity)ってことをトランス男性の性的実践についての記述から読み解くよ!
注意:分析のセクションには,性的な語りがめっちゃあるから気をつけて!
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イントロ
伝統的,医学的な理解においては,「性別違和」は特に性器に対する自己嫌悪であり,それが性的な快適さの経験を妨げる,という前提がある
しかし,例えばLowrey(2011)のナラティブにおいて,性行為は自身が認識され「変容」できる状況である
Cromwell(1999, トランス男性のエスノグラフィ)においても,性生活や性的な喜びの存在が,違和の不在や身体治療の不適切さの証拠とみなされることが指摘されている
この前提は,トランスセクシュアルとしての診断基準に由来している,診断基準がGIDやGDと移り変わっても,名残が残存している
診断基準は,トランスの人々にとって,(ホルモンや外科的手術といった)医療的なケアを受ける際に,メンタルヘルスの「専門家」のアセスメントを受けることが必須(e.g. SoC-7)なため重要
従ってトランスの人は自身の性的な経験について欠落させていったり、嘘をつくことが求められる圧力を感じることになる
こうした前提により、トランスの人々が身体について経験する異なる仕方を考慮に入れることができなくなる
トランススタディーズにおいてもこの問題、すなわち診断を得ることと身体の快楽を経験することの相克(Stone 1991, p228)は乗り越えられていない
本稿は,STS研究における物質性の考え方(「実在(reality)」の多重性を捉えること)を用いることで、診断枠組みを超えたトランスの複雑性をよりうまく捉えられると主張する
いわゆる「新しい唯物論」「新しい物質主義」の系譜に属す
補足:2000年頃から英語圏の批評理論における、社会構築主義とテクスト中心主義を超えた(「物質的な次元」について語ることのできる)理論的動向。フェミニズム理論に出自がある。のちに詳しく説明される
トランス男性の性に関する「物語-実践の多重性(narrative-practices)」に着目する
STSをトランス/セクシュアリティ研究に導入する
Karen Barad(2007, 2009)の「行為者的実在論(agential realism)」を参照する:物質や主体を独立したものとみなさず、現象の状況依存性(situatedness)に焦点を当てる(存在-認識論、onto-epistemology)
Mol(1999, 2002=2016)の多重性(multiplicity)の視点を拡張したもの
科学の言説性の水準と、物質性の水準は、両者の内部-作用(intra-action)を通じて形成されていく、と考える
補足:多重性は多元主義とは異なる.実在の矛盾するバージョンが共存することは,切り分けられた別個の実在として存在することを意味しない
Suzanne Fraser(2010)によれば、Molは観点主義をダイナミックなプロセスへと拡張した
Molは、実践の中で対象が内部-作用を通じて実行され(enacted)、物質になっていく仕方に注意を払う(「実践の研究」praxography)ことで、その現象が多重性を持っていることが明らかになると指摘している
実行(enactment)とは、物事が行われる仕方を意味する
あるということは関係付けられているということだ(Mol 2002:54=2016:90)
Molの「実践の研究」アプローチにおいて、問いは「複数の実践が、どのように調和されているか」ということになる
本研究は、「セクシュアリティと性の実践の語りの中で、トランス男性は男性性(maleness)をどのように物質化するのか」を明らかにする
既存研究の中での位置付け
Mol(2002)は終盤で、性差が多重性に関わる可能性を簡単に取り上げているが、性差そのものの多重性までには立ち入っていないので、本稿はそれを行う。つまり、sexがenactされる仕方を研究する
Butler(1993)のパフォーマティビティにも近い。バトラーはsexは虚構(fiction)だ、と示唆しているが、本稿は、その虚構が機能する仕方を正確に取り上げる
sex-genderは多重性を持つが、その多重性は接続している(Law 2004的にはassemblage)。本稿は、トランス男性が複数の性的実践、快楽、身体化を組み立てて(assemble)男性性を達成する仕方を浮き彫りにする
C. Jacob Hale(2003)は性の(sexual)ダイナミクスを通し、ジェンダーの流動的な可能性が探求される仕方を明らかにしている
Haleは、sex-genderの実践を組み立てる重要な戦略、「再道具化(retooling)」「再コード化(recoding)」「再マッピング(remapping)」を指摘する:これは「身体(bodies)を変えることなく身体性(embodiments)を変える」実践である
本稿は「再マッピング」をさらに追求し、トランス男性が性的実践や関係性の中で男性性(maleness)を組み立て、enactする戦略が複数存在することを示すのだ!
本稿はトランス男性の自叙伝に注目し、Prosser(1998)のいう「身体の語り」を通して、トランス男性にとって男性性を物質化するのは、実践だけでなく、語りと実践の相互作用であると提案する
Molは語りと実践の相互作用の仕方の戦略を理解する方法をいくつか概説している。本稿はそれの語彙を利用する(訳註: 以下の訳はMol(2002=2016)に依拠)
相互排除 (mutual exclusion, あるものが別のものを排除する)
協調 (alignment, 複数の実行が単一のものとしてまとめ上げられる)
翻訳(translation, あるものを別のものに変える)
加算(addition, 実行が足し合わされて一貫性が生まれる)
分配(distribution, 相反する事象が時間や空間によって分離される)
トランスセクシュアルの語り-実践
ほとんどのトランス男性の自叙伝は,彼らの性生活についての詳細を含んでいない
数少ない例外:Maltino(1977)のEmergence.
このことは,性生活を書くことのリスクや,「性器への好奇心」を避けることに由来するだろうが,こうした動きは,トランスの性的快楽の現実を消し去る
本稿が使用するテクストは以下の通り.ただしほとんどは最後の3つ:
Chaz Bono’s (2012) "Transition"
Jamison Green’s (2004) "Becoming a Visible Man"
Nick Krieger’s (2011) "Nina Here Nor There"
Mark Rees’ (1996) "Dear Sir or Madam"
Raymond Thompson’s (1995) "What Took You So Long?"
"Hung Jury", edited by Trystan T. Cotten (2012)
Loren Cameron’s (2001) "Man Tool"
Tracie O’Keefe and Katrina Fox’s (2008) "Trans People in Love"
Morty Diamond’s (2011) "Trans/Love"
Jody Rose’s (2010) "The FTM Sex Guide"
(なんかここに書いてない書籍も引用されてるように見えるよ...)
ここから,男性性を体現する方法の多重性を分析...このセクション(主にテクストの引用)はCW:露骨ではないけど性的なシーンの表現あり.
相互排除:「自分のセクシュアリティを封印し,孤立させた」
性的交流を完全に断つという方法.男性性と性的交流は同時に実行することはできない.
Mol(2002:35)によれば,両立できないのは現実的な問題である
私の身体は,私にとってとても嫌悪感を抱かせるものであり,自分ではもちろん,他の誰にも見せたくないものだった (Ree 1996:17)
ガールフレンド候補に女性として見られることは,私にとって取る事のできないリスクだった ( McDaniel 2008:146)
彼らにとって,性的行為を「やらないこと」は男性性を実行する事である
私はいつもパンツ一丁で寝ていたし、 関係を持った女性たちもそれを尊重してくれた。年齢を重ねるにつれて、 私は自分の身体から切り離すことを完璧にした(中略)女性から性的な接触を受けることは、 正気を保つために維持する必要があった私の分離を壊してしまったことだろう (Thompson 1995: 75)
協調:「男性の体で男性とセックスしたかった」
ペニスの再建手術と,それを通じた物語-実践によって,男性性が実行される
手術によって,私は自身の身体の全体性を感じることができ,社会的にも性的にも男性として表現できるようになったため必要だった(Tone 2012: 30)
上のThompsonも,ペニスの再建を受けることで同様の実行方法に移行していく
ただし,性器の再建を受けなくとも,「延期(waiting)」を通して同様の物語は呼び出されうる
もし私がいつも夢見ていた通りの大きさと形のペニスを手に入れることができ、それが普通のペニスのように完璧に機能するのであれば 、...性器の手術を受けるかもしれない。でもそれまでは、私のペニスは「自家製」(home grown, 陰核陰茎のこと)だし、気に入っている(Cameron 2001) 延期は,手術の技術的可能性によって条件づけられている(再建されたペニスの技術的完成度が高くないから延期する,という形のナラティブが生まれる)
協調による男性性の実行は,実行の多重性を不可視化してしまうが,実際は単一の現象ではない(Mol 2002: vii-5)
補足:上の男性性の実行戦略は,「男性性」や「男性の身体」を一つの実体として理解してしまう(i.e. 男性=ペニスの存在であり,性的実践はこの本質的な実体に関する意味づけとして理解されがち)が,ここで行われていることは,物質性と物語-実践の内部-作用である,ということ
この戦略が,性的かつ男性性を実行する唯一の手段ではないということに注意する必要がある(次以降)
翻訳:「同じことさ,ディルドをつけていても(strap on),チンコ(dick)でも」
少なくとも翻訳の戦略には2つある:1)非人間的なものを取り込むこと,2)解剖学的構造を意味づけなおすこと
Maltino(1977)は性行為の際,膣は使わず,常に「偽のペニス(false penis)」を使用していたと語る
彼と彼の恋人にとって,内部-作用的にはそれは(「偽」であったとしても)ペニスである
1番目の方法では,特定の現象を男性性の物質性として翻訳することによって,男性性を実行する
ストラップをつけてフェラをするのが好きなんだ.視覚的な面も好きだし,女性が僕のチンコをしゃぶっているのを見るのも好きだ.実際のチンコ/クリでオーラルを受けるのはあまり好きじゃないんだ (Rose 2010:66)
ここで,彼のペニスは,性的実践と語りによって,実在として実行されている
翻訳は物語(大体はネーミングを伴う)と実践(特定のsex-genderとしての性的な相互行為)の双方に依存している
2番目の方法では,特定の身体部位を男性(あるいはトランス男性)の使用域(register)として再定義する
クリトリスが成長して以来、私の性器はパートナーの女性とは明らかに異なっている。何人かは、私の成長した小さな"ネオコック"は確かにペニスであり、彼らはそれをペニスとして扱っている、と言っている(Valerio 2006: 31)
パートナーによる(男性器に関わる)言語実践は,男性性の実行に不可欠なものとなることがある
特に彼が僕のペニスをしゃぶっているときは、ペニス・トークやペニス・ランゲージを多用するようにしている。そういうわけで、僕はたいていアナルにも挿入されるんだけど、そのほうが気持ちいい。そのほうがより男性的で、 よりゲイ的な感じがするんだ。(Rose 2010: 55-7)
こうしたペニスに関わる用語は,既存のものに加え, "dicklet", "neocock", "hybrid", "butch-cock"などと創造されることもある
伝統的な用語法では「ヴァギナ」と呼ばれるような器官を使用したとしても,男性性を体現することが可能になる
私の膣は男性的で、2インチのクリトリスが肥大していて、太く硬くなり、吸われることができる。大きくなったクリトリス/チンコでセックスができるし、そうすると膣が濡れるんだ
彼らは語りと性的実践の両方を通して、自分たちの肉体を''resex''する。
(<ドヤァ って音が聞こえそう)
加算:私が彼を攻めていても彼はDaddyだ
(補足:Daddy:高齢ゲイを指す隠語)
場合によっては,一つのまとまった現象(男性性)を作るために,語り-実践を通じ,複数のsex-gender現象が足し合わされ組み立てられる場合がある
この文脈では,男性性は身体に内在する本質ではなく,達成されるものとしてみなすことができる
具体的な方法としては,承認(validation)がある
彼女と初めてセックスしたとき、私は自分が本当に男性であることを知った。彼女が私と同じようにその存在を信じていることを知って、私の男性性はより明白になった。(Winterset 2011: 134)
ここでは,パートナーは性行為を通して,彼の男性性を認識しており,それを知ることで男性性が実体となる
特定の性行為(および特定の体位)が女性として、あるいは男性性とは相容れないものとして認識される可能性は、物語によって平滑化される
私たちは、私が彼を攻めるときでも、彼がdaddyであることを再確認することで、彼を攻めたいという気持ちと、男性性を失うのではないかという不安との葛藤を乗り越えている。彼はクンニをした後、特定の体位でのセックスが好きだからといって、私が彼を男として劣っているとは思っていないことを証明してほしいと頼む。(Kohlsdorf 2011: 109)
が,もっと多くのことが起こっている.特定の体位でのセックスと男性性は,ある程度分散されてはいるが,彼らの継続的な関係性の元で結びつけられ,性的な男性性として体現されている
私は結婚している(中略)結婚した一夫一婦制の男として、私はどんな性的なインプットも受け止め、それを妻とベッドで表現する(Jacob 2008: 107)
重要なのはパートナーの存在というより,個人が特定の慣習をどのように理解するか(=男性性をどのように意味づけるか)という点である
つまり,トランス男性の性的欲望や実践は,具体的なパートナーがいない男性として実行されることがある
私が肉体的な快楽について考えるときに常に一貫しているのは、女性の中に自身を置き,女性の肌に差異を感じたいという願望である,それは,筋肉質な私の硬さとは対照的な、彼女の滑らかさ、弾力性である.彼女の口、彼女の膣の湿った感触が私を吸い込み、そこで私は膨張し、膨らみ、つながりの魔法をかけることができる。(Green 2004: 150)
ここでGreenは「常に一貫している」ということで,身体の変化にかかわらず性的欲望が安定して存在していることを示している.つまり,sex-genderとセクシュアリティが時間を超えて共存している
分配:最初の頃は決して肛門に挿入できなかった
トランス男性は,翻訳や加算の代わりに,特定のsex-genderの現象を時間的・空間的に分離することで男性性を組み立てることがある
注意:これは多元主義ではなく,分配された対象は男性性として組み上げられる
分配は,物を切り離しはするものの,それは同時に別の場所で,少し先の方で,あるいはいくらか後に,再び結びつけられる(Mol 2002:117=2016:170)
この戦略では,自分の身体の不快感に対して,性的実践を完全に排除するのではなく,自分の不快感と男性性を管理する方法を編み出していくことになる
裸になるとき、私はいつも胸が邪魔で不快だった。でも、私が選んだ女性はとても敏感で、私の胸を無視するためにできることをしてくれた(Rose 2010:13)
ここで男性性は,セックスパートナーが彼の胸を無視することに懸かっている
移行が進み,男性性の構成が変化すると,それに連動して管理の方法が変化することがある
最初の頃は決して肛門に挿入できなかった(訳註:最初はタチらせてくれなかった).彼にとって支配的になること(訳註:タチること)はトランスと自認する前の彼にとって,男性性を実感できる唯一の手段だっため重要だった.
(中略)彼の感情的な執着や性行為に関する問題は、彼がより快適になり、人生の他の領域で男性であることが頻繁に承認されるようになるにつれて、減少していくと私たちは信じていた。これは私たちにとって、まったくその通りだった。(Kohlsdorf 2011: 110)
ここで男性性は,いくつもの調整されたsex-genderの実行から組み立てられていて,その組み合わさり方が時間ごとに分配されている
++++分析パートここまで
結論
本稿は,トランス男性が性的実践において自分たちの男性性を理解する無数の方法のうちほんの一部を示すことで,トランス男性のセクシュアリティを理解するための新しいパラダイムを主張した
sex-gender、物質性、快楽の間の緊張関係、そしてトランス男性が複数の実行を組み立て、統合するために行う作業が、トランスの人々のセクシュアリティの多重性を構成している
Molの「実践の研究」アプローチを使用することで,STSが,トランスの物質性に対するより有用な説明を提供するということを示した
本稿で示した図式は完全ではない.トランス男性が男性性を体現する方法はもっとあり,語り-実践の中でsex-genderを実行する実践的な細部に目を向けることで,その方法が見えてくる
この方法はトランス男性に限定されない
こうした語りは,GID診断の場における臨床的な期待を悩ませる.つまり,現在の制度的な物質的言説は,セクシュアリティとトランスセクシュアリティを相互排除的なものとして作り出している
しかしトランス男性にとって常に相互排除なものではない.このような臨床的期待を含む規範的な診断基準は,トランスの生活実態を正確に把握することができない
ゲートキーパーとしての医療専門家が,性器への嫌悪を前提とする診断カテゴリに大きく依存する限り,トランスの人々が性的実践を含む形で自分の身体を意味づけているという現実は必然的に無視されてしまう
これではトランスの生に対する理解は制限されるし,適切な医療を妨げてしまう.
sex-genderを実践によって実行されるものと理解することは,トランス男性がセックスを含めて男性性を具体化する多種多様な方法を正当に評価できるような、別の可能性に目を向けうる
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諸感・コメント
診断 (もっと言えば性同一性障害の一般的なイメージにも通じる)が提示するトランス男性の身体に関するナラティブ「自分の女としての身体を嫌悪する(から男の身体に変える)」を丁寧に再考する実証研究としても興味深いし,物質性の次元をきちんと考慮に入れかつ安易な本質主義にも相対主義にも陥らない仕方で記述するフレームワークとしてのMol(2002=2016)の理論のポテンシャルを読めたのは興味深い
男性性(maleness)を,とことん構築物と見るのではなく実在とみなすという発想は面白いと思う.以前どっかで誰かが「バトラーは物質の構築性じゃなくてジェンダーの物質性を主張してるんだ」とか言ってた気がするけど,それに通じるというか.
一方で,Molの理論をわかりやすい分類に落とし込んでしまったのは,ちょっと勿体無い...気はする.なんというか,実行の戦略に名前をつけて分類するのは研究の方向性としてありうる気がするのだが,Molの面白いところは実行の戦略の分類というよりは,現象そのものの丁寧な記述を通した新しい存在論の提示にあると思うので(実際STSと言われる分野の実証研究では,エスノメソドロジーやエスノグラフィー研究のようなミクロな観察に基づく研究が多い気がする).バリエーションの列挙より,あるトランス男性が,ある時に実感できる(された)男性性を克明に記述することで,身体性がいかに多重性をありえる仕方でもって存在しているかを理解可能にしていく、という戦略の方がリアリティは出そう.もちろんすでに書かれたものを解釈するため方法論上の限界はあるのかもしれないけど.どうなんだろう.
加えて,Molは別に上の5つの語彙を並置して実在の複数性戦略一覧〜みたいな形で提示してない.加算と翻訳は複数の実在が統合される方法(例:複数の動脈硬化という実在が存在する時,片方がもう片方に因果付けられて統合される,双方の症状の治癒を動脈硬化の治癒の指標とすることで統合される)だし,分配は複数の実在が諸アクターごとに割り振られる(例:ある状態の患者に対してはこういう理解や手術法が行われるが,別の状態の患者には異なる実践が行われることで,複数の実存は同時に現れず分配されている)ことを説明する語である.分析パートが何かバラバラな感じに見えるのは,語彙に込められた思想がうまく表現されていないからでは?それとも私がMolの議論を理解できていないからこそバラバラに感じちゃうだけ?
トランス男性が行う男性性の実行は,トランスではない男性(シス男性)や,はたまた男性を必ずしもアイデンティファイしていない人が実感できうる男性性とどの程度リンクしているのか,あるいはしうるのか、という議論が個人的には気になる.このenactmentの仕方が,トランス男性固有ではない,ということを示れば,男性であることをシス男性だけのものから「開く」ことにつながる(ので少なくないトランス男性にとって希望になる)気がする
他の要素(maleness以外)への応用可能性はどうなんだろう.femalenessも同じようなノリで議論はできそう.Molの議論は,「疾病(disease)」(具体的には「動脈硬化」)を対象にしていて,これはillness/diseaseという社会科学が作り出した区分を壊すためにあえて用いていた.今回もmalenessという,sex/genderの二分法を壊すために用いた,と考えて良いだろう.この方法論は勉強になる.一方でenactされる物質性がある程度同定できないものについては?「性別違和」とかgender euphoriaとか,gender identityを対象とすることは可能なのかな.これらの実在が,物質,語り,実践のネットワークの中で立ち上がっていく仕方を克明に見ることによって,その物質性(=「ままならなさ」)を包含することができるようになる,という理解で良いだろうか.