トランス医療の診断モデルにおける病気-ケアと承認-依存: 進化する日本の医療の枠組みにおける両義的な認識的帰結
#論文紹介
原題:Illness-care and validation-dependency in the diagnostic model for trans healthcare: Ambivalent epistemic consequences in Japan’s evolving medical framework
著者:ykoniawawa
論文リンク:https://doi.org/10.1111/1467-9566.70059 ←オープンアクセスだよ!
どんな論文?
「性同一性障害/性別違和/性別不合」の「診断」を、日本のトランス医療を利用する当事者がどのように意味づけているのかについて分析した論文。
診断には「治療(や法的承認のための)単なる道具(Expedient)」「アイデンティティや医療ニーズの探索プロセス(Exploration)」「アイデンティティとニーズの承認(Endorsement)」の三つの機能があること、それぞれの機能に際して様々な両義的な感情があることを示した。
さらに、3つの機能にまつわる「両義的な感情」を「病気-ケアの難問」と「承認-依存の両価性」という2層に分けて分析し、後者が自身のアイデンティティや医療ニーズの形成を助けうると同時に、自身でそれらを決定することを難しくする認識的なジレンマを生んでいると指摘した。
病気-ケアの難問:病気とされなければ医療ケアを受けられないという制度上の構造のジレンマ
承認-依存の両価性:医師に医療ニーズの承認権限が委ねられているという構造が、承認の方途と、医療者の判断への依存の両方を提供しているというジレンマ
(日本語の抄訳は筆者コメントの下にあるよ!)
筆者コメント
本稿は明確に診断モデルに対する批判をしているが、「ジェンダー規範を押し付けるから」という(必ずしも実情にそぐわない)批判形式とは異なる形式を提供しているのが特徴。
1. トランスの人の持つ医療ニーズはデフォルトで信用できない、疑わしいという(ステレオタイプに基づいた信頼性の毀損=証言的不正義)前提に基づいて制度が組まれているため、診断は証言的不正義がもたらす害を帰結する(医療ニーズとアイデンティティの心理的安全性のある探究の阻害や、ガイドライン外の医療アクセスやそれを利用したエージェンシーの否定など)。
2. 他方で、(構造上説明権限を付与された)医療者のもとでアイデンティティや医療ニーズを承認されることで、「自分は名乗っていいんだ」「医療を受けていいんだ」という、本人を支える数少ない認知的資源としても機能する。この機能は医療ケアへのアクセスとは関連しつつも固有の意味を持つ。
3. 1と2は、どちらも診断が説明権限を医療者に集中させているということに起因する。これが「承認-依存の両価性」である。
ちなみに私が主に関心がありかつ明確に批判しているのはヘルスケア領域における(医療ケア提供の前提となる)診断モデルの問題。法的性別承認の話は分離独立して考えてネと思っている(とはいえそれもイギリス型のように医療者による証明を求める必然性はなく、公正証書+考慮期間(ドイツ型に近い)とか、社会的実績の利用(フランス型)など、不当に当事者に対する信頼性を毀損しない形で実態性を確保する方途は全然あるけど...)
批判的に分析するにあたり、「診断の社会学」(=診断を社会的現象として捉える議論)+「認識的不正義」(=ある人・属性に関する知識や経験の信頼性が、不当に貶められていること)という組み合わせを提案した。最初はもっと記述的に書いていたのだが、査読者1に「もっと批判的になれよ!!」って言われまくった結果自分でもドン引きするぐらいめちゃくちゃ批判的な構成になった。
イギリス系の社会学誌なので、こうなるもんなのかなと思った(小並感)
査読に4週間で対応したので、私の認識的不正義の知識はだいぶ付け刃(やめて〜、石投げないで〜)
とりあえず論文にはなったのでいいんだけど、博論で認識的不正義(社会学というより倫理学...)を使うことをどう正当化しようか悩んでいる。シス特権性に対する批判的介入を可能にする枠組み、とかいえばいいかな?
前回の論文は英語で出したけど評判としては日本研究として読まれている感じなので、今回はもうちょっと医療社会学に寄せたり、英語圏のトランス研究へのコントリビューションを意識する形で執筆してみた。上手くいってるかはわかんないけど。
本論文は、インタビューを続けていくうちに、単なる道具的利用という枠組みを超えた形で診断を(場合によっては肯定的に)意味づける人々の経験を包括的に説明する方向性を探っていくことで形成された。そのため、論文の結果や考察で明確に書いているように、診断プロセスを通して自分自身の理解可能性を探ったり、自分のアイデンティティや医療ニーズを確証するために役立てた人たちの経験は、診断が(相互承認の不足による自身の感覚の不信を補う)認識的資源を提供しているという側面があるため無視してはならない、ということは念の為強調しておく。
日本だと、山田(2020)のいう「GIDをめぐるアンビバレンス」と議論が近い。診断の社会学で知られるBlaxter(1978)を元に差分を説明するなら、診断にはカテゴリ(=医学的な分類)と、プロセス(=分類を人々に付与する過程)という側面があり、山田が「診断カテゴリ」の(道具的利用を超えた)肯定的な読解可能性に注目したのに対して、本論文では「診断プロセス」が持つ認知的両義性の可能性に実証的に注目したこと、ということができるだろう。
ちなみに、本稿の私の主張では、性同一性障害だろうと性別不合だろうと実はそんなに変わらない、ということも結構重要だったりする。
今回は、修論段階で集めた18人のデータのみを使ったため、実証パートが少し物足りないし(まあ元々紙幅がないのでしょうがないんだけど)、まだ分析にデータが追いつき切れていない感じ(いくつかのデータは当てはめの妥当性について反省中...)になっている。もっとも、その後の追加調査でより妥当な実証データも集まってきたので、博論では追加で収集したデータを合わせ50人程度の医療利用者の話を元にちゃんと実証パートを拡充する予定。
おそらく想定できるコメントとして、「いや、診断を受けた後の「正規医療」は、それ以外の「闇の医療」と比べて「安全」だもの」という反応がありうると思う。ただこれに関しては、当事者の話を集合的に聞くと(もちろん、この説明図式に間違いなくフィットするケースはあるのだが)、他方で実態として必ずしも正しいと言い切ることはできなさそうでもある。この図式(正規医療=安全/それ以外の医療=闇,危険)を相対化する試みは現状吉野(2020)ぐらいしかないので、博論の第3部で別途詳細に考察する予定。
以下要約レジュメ(日本語圏の人でも読めるように日本語。例によって、一番左の箇条書きだけ読めば流れは追えるようになっている)
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イントロ
診断の社会モデルにおいて、診断は社会的支配の重要なメカニズムであると指摘されてきたが、トランス医療においても例外ではない。診断は医療や法的認知の門番の役割を果たすとともに、医療ケアや法的承認へのアクセスをも可能にしてきた。
先行研究において、診断についての両義性は「病気-ケアの難問」の枠組みをベースに理解されてきたということができる。つまり、病気として医療者に判断されなければケアを受けられないシステムがあることからトランスのケアを求める人たちは診断モデルに対して両義的な立場を取らざるを得ないということ、そして(規範的かつ性別二元論的な)医療制度と「戦略的に関わる」ことでこの難問を乗り越えると説明されてきた。
他方で本研究は治療への「便宜的な手段」という理解を超えて、診断が自己探究や承認の場ともなり得ること、しかしそれゆえに同時に外部的な承認への依存という構造的不均衡が生じ、当事者の経験に複雑な両義性をもたらしていることを明らかにする。
筆者は、診断の制度的枠組みが、「トランスの人々のアイデンティティや医療ニーズに関する自己説明が本質的に疑わしいものである」という、認識的不正義(=属性に基づく本人の語りの信頼性の毀損)を前提とし、それを強化するものであると主張する。
日本における医療化と診断モデル
日本では1990年代末に「性同一性障害」という診断カテゴリが導入されることによって医学的治療が正当化された一方で、医療者側の審査基準によって、診断が医療・法的承認へのゲートキーパーとなってきたことが問題視されてきた
初期のガイドラインにおいてはバイナリーかつ異性愛規範を前提としたジェンダー規範による序列化、職業ニューハーフに対する排除などが問題視された。
「性同一性障害」の普及やその基準の法律への書き込みは、医療上の基準がそのままトランスの人々の序列に繋がる現象(GID規範)を誘発した
もっとも、後続のガイドラインでは「性の多様性」が謳われるようになり、脱病理化の議論を受けて「性別不合」が導入されるなど、多様なケアパスや非二元的なアイデンティティの認知といった変化もある。しかしながら、診断の規制的論理が依然として中心に据えられている。
現在診断は単なる精神医学的判断だけでなく、心理社会的安定性や社会的支援の有無といった要素まで含む「総合的な適格性評価」として機能し、これが医療アクセスを規定している。また、心理社会的安定やRLE(リアルライフエクスペリエンス)を中心とした準備性等、ソフト化しつつも一貫して適格性のフィルターとして機能している。
もっとも、診断と治療適応の判断は違うというツッコミはありえる。しかし、医療利用者の語りベースでは「診断のプロセス」は診断と治療適性の境界線が曖昧な、統一された手続きとして経験されることが多いし、実際は線引きが行われているわけではない。当事者の経験ベースの記述を前提とする本稿では「診断プロセス」という語を精神医学的診断だけでなく、より広範な精神的・社会的評価が絡み合った一連の手続きのことを指す。
なお、移行の準備性を含む基準に関する議論は、別の論文・博論でちゃんと扱う予定。
なお、医療領域以外では、学校領域等を中心に、診断が要請されない場面も増加している。他方で職場においては組織の裁量に依存する。また法的承認では依然として必要である。
(仮に診断があったとしても)医療ケアに対しての制度的障壁はある。2018年には、性器手術および乳房切除は保険適用になったが、ホルモン療法は依然として除外されていること、また日本における保険診療と自費診療の混合禁止規定は、乳房切除術を除きトランス医療を事実上自費診療としており、従ってガイドライン医療の経済的メリットは不完全。
また、DIYホルモン、海外での手術、あるいは即日診断などのガイドラインに基づく経路以外のケアアクセスも存在する。これが医療経験を複雑なものにしている。
訳註:この複数のケアアクセスの経路(それらに関する「安全性」のレトリックの議論も含めて)については、別の論文・博論でちゃんと扱う予定。「公然の秘密」になっている割にはちゃんと研究されていないので。
トランスのヘルスケアにおける「両義性」と「交渉」
トランスの診断モデルは、正当化の手段と規制の仕組みという両義的な役割を持つことが指摘されてきた。一方で排除やスティグマ、転向療法をはじめとする「病理化(この語の意味は多義的であることに注意)」を生むが、他方で一定の医療アクセスや社会的承認ももたらしてきたからである。
従って、病理化とケアアクセスは緊張関係にある(「病気-ケアの難問」)。DSM-5やICD-11における診断カテゴリの改革は、この緊張関係を解決するのではなく再構成している。包括的な診断基準や非二元的なアイデンティティの承認が進んでも、医療職による「価値ある患者」と「そうでない患者」の選別は行われ得ること、そしてそれが「規範的な説明」への適合圧力となることが指摘されている。
こうした問題意識に合わせ、経験的研究は、期待される物語(例:「生まれながらの間違った身体」「反対への性別に適合する強い意思」)に合わせて、戦略的に診断過程をナビゲートする主体としてトランス医療を求める人々を記述してきた。
しかしながら本論文は、「期待される物語」への適合というフレーミングを超えた、診断権限の非対称性に起因するさらなる根本的な問題を扱う。すなわち、診断モデルは「医療者によって妥当性を認可されなければいけない」という、より根本的な要求を持っている以上、例え医療者が多様なアイデンティティや治療パスを認める包括的な枠組みを採用していても、感情的・認識的な両義性が生じることを示す。
医療と診断における説明の権威と認識的不正義
診断に関する社会学的分析は、診断は社会的に構築された分類システムとしてのみならず、医療専門職の認識的権限を制度化し、アクセスと自己解釈に影響を及ぼしていることを示してきた。
診断の社会学における洞察に認識的不正義を導入することで、批判的な視座をより鮮明にすることができる。診断とは説明の権利が治療に関する自己決定を制限する認識的疎外の場として理解することができる。
認識的不正義は、ある社会的アイデンティティを持つ人々が、偏見や周縁化のために、知識主体としての能力において害される状況のこと。医療において、臨床家が患者の自己理解を割り引く時に認識的不正義が生じることが指摘されている
トランス医療における(診断を含む)包括アセスメントは、トランスの人々による医療ニーズの判断は、(「普通の人」が理解できない医療ニーズを持つが故に)信用できないという前提に立脚している。これはFrickerが「証言的不正義」と呼ぶものの一例である。
「証言的不正義」:属性に関する偏見のせいで、ある話し手に対する信用性が損われることで生じる不正義
訳註:日本において、「ブルーボーイ判決への合法性確保のためにあるのだ」というツッコミはあるかもしれないが、同判決で提示された基準は、「異常なトランスの人々」の「異常な欲求」に合わせた手術をしたことによる法的な非難や世間での論争を避けるために用意された1960年代のジョンズホプキンズ大学の治療基準を引用することで成立している(c.f. Velocci 2021; 山田 2025)。よって同型の前提が組み込まれていると言える。
本稿が扱う「承認-依存の両義性」は、診断物語への適合要求と、医療専門職による当事者の知識の信頼性の否認を内包した構造的により引き起こされた結果である。これから示すトランス医療を求める人々が経験する安堵や不安という両義的な感情の反応は、この構造上のダイナミクスの帰結として理解すべきである。
方法
本研究は、日本のトランスヘルスケア利用者への半構造化インタビューを通じ、診断経験を質的に分析したものである。参加者は「トランス医療を利用したことがある、または利用している日本在住の18歳以上の人」であり、年齢・性自認・診断の有無を問わず幅広く募集された。 調査は、個人ネットワーク・SNS・プライドハウス等を通じて行い、医療機関経由での募集は、研究者と医療従事者の権力関係や役割の混同を回避するため避けられた。
インタビューは2022/4-7に対面またはオンラインで実施された18人分のデータを使用し、事前説明と同意取得の上、匿名化・逐語記録・参加者確認を徹底した。
半構造化インタビューでは、性別のありよう、医療行為を利用するに至る経緯、医療の利用、受診経験、医療・法制度等に関する意味付けを参加者主導で詳細に聞き取った。
データ分析は解釈主義的アプローチによるテーマ分析であり、繰り返しのコーディングと文献対照を経て主要テーマが抽出された。
調査は、医療アクセスできた人に限定されている、非日本語話者は含まれない等の限界もあるが、非英語圏における経験への新たな知見を提示する。
結果
本節では、診断プロセスに関する研究参加者の語りから帰納的に構築された3つのテーマを提示する
これらのテーマにおいて、参加者は診断を単に官僚的な障壁や戦略的道具としてではなく(「病気-ケア」の緊張)、安心感・フラストレーション・不確実性・適応の源として、感情的・認識的な側面に位置付けている(「承認-依存」)。
この分析は、診断のもつ説明の権威を、「制度的なゲートキーパー」だけでなく、(証言的不公正の状況下での)意味づけとアイデンティティ交渉の場として理解することに貢献する。
必要なサービスにアクセスするための道具:便宜としての診断
診断は臨床的判断に加え、医療や法的承認といった社会的に規制された資源へのアクセス権限を付与する手段として機能する。多くの参加者は、診断プロセスを医療(または法的)サービスを利用する手段として位置付ける。
例:Qさん、医師は書類作成のための「司法書士」
制度的条件を回避するために1回の訪問で診断が済む「即日診断」は、しばしば長引く診察を受けなくて済む現実的な手段となる。
例:ホルモン注射を希望したGさん:診断は注射のために取った。あくまで説明のための「カードの一つ」
この文脈で、参加者の証言は、診断プロセスがルーチン化されていることを強調する。医療提供者に患者は予期された経過に合致していると判断される場合、診断は事務的な形式として展開される(「スムーズ」「プロトコル通り」「形式的」「ベルトコンベア」といった表現)。形式主義は、長いタイムラインがかかるものの、最終的に必要な書類を手に入れるために肯定的に受け取られる。
例:子宮卵巣摘出を希望したHさん、すでにホルモンや乳房切除をしていたことから、精神科医は「すぐに終わるよ」と述べた(1年程かかった)
診療が心理社会的なサポートよりも書類作成に重きを置く場合、診断が「単なる手段」であるという認識は、ケアの不在を意味することもある
例:ホルモン療法を希望したCさん、精神的苦痛やパニック発作に対してまともな医療役割を果たしてもらえなかった
診断手順はルーチン化されてはいるものの、根底にある期待、すなわち移行の準備性と明確さに関する期待は診断の場に圧力を生む。ルーチン化された診断プロセスは「移行したい」という明確な願望が前提となっており、「模索し、揺れ動く」人々が存在する余地を奪うことにつながる。この明白さは、場合によっては二元的な性別への同化の圧力としても感じられることがある。
例:ホルモン処方を希望したEさん:ゴールはかなり明確であることが期待され、『ちょっと探ったり、揺らいだりできてよかったね』などと言われるような場ではない
医療者の期待に応えられなかった参加者は、しばしば診察の遅れや繰り返しの再診に直面した。この文脈で基準は曖昧で、ケア希望者にとって異議を唱えたり準備したりすることは難しかった。
二元的でない性別はすでに(一部の)医療者にとって認知されている。とはいえ、臨床的な期待を管理するために、一部の参加者は非典型的な性別に合うような戦略を採用することがある。
例:ノンバイナリーで改名希望/乳房切除のためにそれぞれ診断プロセスに望んだRさん、ノンバイナリーであることは医師も理解していたものの、意図的に「男の子っぽい」幼少期の特徴を強調
決意のある医療の利用者になるための旅:探求としての診断プロセス
診断プロセスは、単にアイデンティティを分類するのではなく、アイデンティティとケアの必要性を理解可能にする解釈的な相互作用を構成しうる
例:Iさん、第一の目的は医学的な移行と法的な性別認定であったが、診断までのプロセスは同時に自身の意思を明確にするために役立った
診断プロセスの中で期待される医療関係者のフィードバックには、当事者同士のフィードバックとは違う固有の価値が見出されている
例:乳房切除を希望したXジェンダーのAさん:「長年多くの症例を見てきた人たちから、自分が医療の中でどのように位置づけられているのか、どの治療法がいいのか、意見を聞きたかった」
プロセスは必ずしも肯定的に描かれるわけではなく、参加者は痛みや苦痛を伴うこともある。しかしながらなおも、そのプロセスは必要なものだとも感じられるが故に、両義的な感情を抱く者もいる
例:ホルモン療法を希望した(すでにDIYホルモンを利用していた)Dさん:苦痛かつ面倒だったが、診断の重さは「間違いを避けるために障壁を設けることで維持される」のだから、必要だったのかもしれない
ガイドラインに厳密には沿わないクリニックは、迅速な医療アクセスを提供するが、内省的なプロセスを回避しているとみなされがちである。
例:ホルモン療法や手術などを希望したKさん:『嘘をついても通るかもしれない』から嫌われる。自分を見つめる時間がほとんど取れない。ただ、取ることが悪いとは思わない。
Kさんの語りは、制度の非効率性がケアを求める人々の選択肢を制約する一方で、「適切な」プロセスを通ることに対する社会的期待がトランス医療の利用者の正当性の感覚を形成し続けていることを明らかにしている
「適切な」プロセスを通るべきであるという規範は、ガイドライン外の医療アクセスを利用した人が、自らの医療ニーズを「フライング」や「ちゃんとした手順」ではないという理解のもとで、抑制することになる
例:個人輸入でホルモンをしていたPさん:後に、クリニックを受診することをはじめとした『ちゃんとした手順』を受けるべきだと考えた
例:同じく個人輸入でホルモンをしていたFさん:初診時にすでにホルモンを服用していることを告げると、医師が管理下で処方することを提案したのにも関わらず断った
両者とも医師の監督なしでホルモン剤の使用をしていたことから、これらの行動は、診断は臨床的な安全性というよりも「正当な」プロセスに関する制度的な期待(=専門家によって承認されるプロセスを得ること)に合致しているかどうかにかかっていたことを示唆する
補足:とはいえPさんは、体調が悪くなったことをきっかけにと言ってはいたので、医師による薬剤の管理を求めていたことも示唆されると注で書くべきだった
医療専門家によるアイデンティティの承認:お墨付きとしての診断
診断はしばしば「お墨付き」、つまり参加者のアイデンティティや医療ニーズを肯定する象徴的な認識の一形態として説明された
例:「男性ではない」と自認するFさん:性同一性障害と診断されることで、「変な人じゃない」という内的な安心感を与えてくれた
一部の参加者にとって、診断は、社会的にあいまいな文脈や潜在的に敵対的な文脈における象徴的な安全装置として(積極的な使用を通じてではない)、保護されているという内的な感覚を与えていた
例:Qさん:診断は「お守り」
診断が家族の受容を得るのに役立つと期待する参加者もいたが、その対人的な力はしばしば限定的であった
例:Lさん:カミングアウト時に診断を受けたことを両親に説明すると、むしろ動揺され受容に機能しなかった
診断が説得材料として使われることを防ぐため、診断を保留した専門家もいた。このケースは診断が単に臨床的な呼称や「病気」の証明としてではなく、規範的な社会適応の要請に従ったかどうかを示す、政治的なお墨付きとして機能していることを示唆する。
例:ホルモン治療を求めていたPさん:医療を介さずに周囲へのカミングアウトや理解を取り付けるまで、医療や診断書の発行が保留された
診断は安心感を与える一方で、医療専門家をアイデンティティと必要性の最終的な決定者として位置づけるため、精査されたり拒絶されることを予期し、医療者に恐れや防衛心を持つことにつながる
例:Pさん:「クリニックに行くのが少し怖かった。もし "あなたは違う "と言われたら、どうしたらいいのかわからなかった」
例:Bさん:「何か鎧を着ているような気分で(初診に)行った」
自身のアイデンティティや医療ニーズの承認を求める気持ちと、医療者に判定されるという構造はしばしばバッティングしてしまう。このケースで語られる心の分裂は、診断の構造に埋め込まれた認識論的非対称性を示している。
例:Bさん:肯定してほしいという気持ちと、『客観性』を求める気持ちの間で、考え方が分裂してしまった
診断のプロセスが不透明で、無力化させる(disempowerment)側面があると感じているにもかかわらず、それが同時に承認の機能を果たすため、診断に対する考え方は両義的なものになる。「認められたい」という欲求と「信頼を得る必要がある」という圧力の分裂が、承認-依存の両義性の核心である。診断は単なるアクセスのための道具的なものではない。
考察と結論
本稿は、トランス医療を求める人々の、診断にまつわる実践と価値観について考察し、診断の多面的な主観的機能に付随する両義性を浮き彫りにした。診断は手段、自己探求、承認という多重の機能を持つ。これらの機能は2つの認識的な両義性に関するダイナミズムを明らかにする。
1つ目の両義性は、ケアを受けるために診断を受ける必要があるという「病気-ケアの難問」の構造に、そして2つ目は外部からの承認を義務付けられることが、ケアを求める人の自己への信頼と認識的主体性を損なうという「承認-依存の両義性」の構造に対応する。「病気-ケアの難問」の構造に関する両義性、特に医療機関への戦略的な関わりは、先行研究で示されたものを支持している
「医療機関への戦略的な関わり」:本当の目的であるケアアクセスのために、(移行の準備性や明確性などの制度的な期待に答えられるように)自分の表出を調整し医療者と対峙する、という経験をケアを受ける人々がすることがある、ということ
同時に本研究は、医療者による診断と判断のプロセスが、認識的な承認の場としても機能しうるという両義性を明らかにした。すなわち、少なくとも一部の人にとって、診断は自分自身の経験やニーズを認識可能なものにする、認識的な資源としても機能しうるのである。
例:診断プロセスは医療従事者の相互作用であり、医療者のフィードバックを通して自分のアイデンティティやニーズを確認することができる。あるいは診断書は正当性や移行の準備性などが承認されたことを象徴的に感じさせる。
しかし、この認識的資源は、「トランスの人々のアイデンティティや医療ニーズは専門家によって確信されないと信頼できない」という、診断モデルにおける証言的不正義と不可分である。
「診断モデルにおける証言的不正義」:診断モデルが存在し維持されていくことによって、trans care seekersたちは自身が持つアイデンティティや医療ニーズの形成を妨げられるばかりか、実際に自身のアイデンティティやケアニーズを自分自身では確信できなくなってしまうこと
診断を通じた専門職の承認が不可欠とされる制度的構造は、トランス医療の利用者に「自分のアイデンティティや医療ニーズは十分に客観的か」と自問させ、内的な信頼性を揺るがせる。これは単なる拒否されることへの不安だけでなく、即日で診断書を出す制度や、診断を介さないホルモンや手術といった制度外の選択肢を実際に利用しながらも、「本当にこれで良いのか」と不安を抱く当事者などに顕著である。このような感情的な抵抗は、自身のアイデンティティや医療ニーズの正当性を信用できなくなるよう条件づけられた結果である。
Frickerは証言的不正義の深刻な害の一つとして、アイデンティティの形成に必要な信頼を寄せ合う対話プロセスから阻害されてしまうこと、そして自己成就力によって、実際にそのステレオタイプに合う人間へと因果的に仕立て上げられてしまう、といった例をあげている(Fricker 2007: 43-59)。
従来の研究はしばしばトランス当事者を「(敵対的な)医療制度を戦略的に交渉する主体」として描いてきたが、このモデルは自律性と管理能力を前提としてトランス医療を求める人を認識的主体として描くことで、診断の場で生じうる感情的・認識的両義性を軽視してしまう。
この問題が顕在化するのは、日本のトランス医療の構造上の変化と維持の文脈が背景にある。一方で、ガイドラインは「性の多様性」を謳い、臨床現場はアイデンティティやニーズを模索する人も受け入れるようになりつつある。他方で、ケアの中心は診断や適正評価にある。さらに、ガイドライン診療が経済的な利益をもたらすとは限らない。このような状況では、診断の機能を純粋に道具的なものとみなすことは不十分である。
スクリーニングプロセスは、アイデンティティや医療ニーズを認め、真の安心感を提供する手段として肯定的に受け止められることがある。特に社会的に自己認知を弱体化させるような状況において、診断のもつ承認の機能は回復的な証言的正義の一形態として機能することさえある以上、これらを有意義に利用する人々の主体性を否定すべきではない。
しかし、診断プロセスがアイデンティティの表明やケアを受けるための前提条件となるとき、根底にある説明権限の非対称性と制度的認知の論理が、両義的感情や認識的緊張を生み出す。この条件は(有意味に利用する人々がいるにも関わらず)構造的な認識的不正義を構成する。
従って本研究は、認識的害を最小化すべきであるという呼びかけに習い、医療ニーズは専門家によって承認されない限り信頼できないという構造的な前提に疑問を投げかけるべきであると提唱する。探求と認知を支援するケアは価値があるが、医療(や法的資源)を利用するための前提条件として課せられてはならない。承認が評価を条件とする場合、例え評価プロセスが探索的なケアとして機能する場合でさえ、それが対処しようとする構造上の非対称性を永続させる危険性があるからである。