トランスの脱病理化と日本の「性同一性障害」:医療従事者の言説から
要約
2007年に欧米の精神医学におけるトランスの人々の病理化に異議を唱える脱病理化運動が起こって以来、ICD-11の性別不合やDSM-5の性別違和といった診断基準やケア基準の改訂を含む、性の多様性を人間の発達に期待される部分として認める重要な進展が起こってきた。 本稿は、日本の医療モデルはグローバルな問題を反映しているが、文化的・言語的ニュアンスによって形成された独自の側面も持っていることを論じる。 本稿では、批判的言説分析を用いて、「性同一性障害」という用語に焦点を当てながら、脱病理化の言説が日本の医療界でどのように受け止められているのかを検討し、「性同一性障害」の精神疾患、障害/疾患、診断カテゴリーという3つの使われ方を提示する。 これらの使用法は、法律や社会の改革、医療へのアクセス、国際的な分類との整合性に影響されている。一方で医療専門職の権威は検証されないままである。「性同一性障害」は、一方でトランス医療における診断モデルの構造的な課題を反映しているが、他方で異なるコノテーションのため、英語の「Gender Identity Disorder」とは差異がある。 脱病理化と医療化に対する日本のアプローチを検証することで、本稿はトランス医療と日本における脱病理化言説の影響についての理解を深める。
筆者コメント
トランスと「脱病理化」についての実証研究。日本語圏で「脱病理化」について研究している人ほとんどいない(織田さんという方はいらっしゃるようだけれど、そこまで公開されてはいなかった)ので、そこが貢献かなと思う。 本稿を英語で執筆したのは、もちろん海外ポストの可能性を残すためという動機もあるんだけど、一番大きいのは日本のトランスの人々について研究する国外研究者たち(しばしば日本語すら話せない)が、英語圏の議論や文脈、言語をナイーブに使うことへの強い違和感から。
残念なことに、この辺の微妙な問題について(i.e. 国ごとの文脈の「ずれ」について)、日本のトランスの文脈に関してはほとんど英語において共有されていない。
逆に、アメリカの議論がナイーブに普遍化されて日本で論じられているんじゃないのか....?
だから、論旨に関連しないsex/gender の二項対立を日本語圏の文脈で使うことに対する批判とか入れてたりする(笑)
逆に、日本語圏の文脈を理解している読者を対象とする場合は少し説明の仕方を変えたほうが良いっちゃ良いなとも思った(博論を日本語で書くときはそこは気をつけて説明する)。具体的には、「日本語のコノテーションの特異性」ナラティブが若干強めに出てしまっているところは、日本語ではむしろ強調しすぎないように書いた方がいいかなと。同じぐらい重要なことは、「トランスの医療化」に内在する様々な両義的効果、ひいては構造上の問題点は国を跨いで見られる、ということでもあるので。
筆者はそこまで英語強くないけどなんとか書けたので、多分国際誌であっても英語圏をはじめとする先行文献の読み込みとmethodologyの説明がちゃんとできればなんとかなるんじゃねと思い始めている
言語のニュアンスに関する研究(談話分析)になるため、重要単語は可能な限り「翻訳しない」という選択をとった。「日本語」に関連するトピックを「英語」で発表する方法論を探ったつもりなので、原文を読んでくださる時はその辺を読んでいただけると嬉しい
もうちょっというなら、日本語の用語と英語の用語の文脈とコノテーションを自明に同一視させないために、gender identity disorderとかgender incongruenceとかtransgenderじゃなくて、非日本語圏の人には得体の知れない用語っぽく見えるseidouitsusei-shōgaiとかseibetsu-fugōって書き方をわざとしている。ヘボン式みたいにoじゃなくてōで書いているのも、異質感をテクストに埋め込むための小細工だったりする
反省点
「医療化」という概念ツールに着目した理由があまりはっきり言えていない。個人的には、「医療化」という語の使われ方自体に医療構造のモデリングが反映されていることに注意して、ナイーブにそれらをアプライすることには意義を呈しつつも、他方で日本のトランス医療を理解する上で、「医療化」という語の「精神」である父権性システム批判が依然として有用足りうること、もっと言えば「医療化」の曖昧さ自体がトランス医療が置かれている位置の曖昧さの反映っぽいから、トランス医療を事例に研究することで医療化概念の曖昧さを解きほぐす趣旨があるってことまで言いたかったけど上手くできてる気がしない
最後、性同一性障害とgender identity disorderのコノテーションの差異を障害とdisorderのコノテーションの差分で説明しちゃったのだけれど、これはよくて不十分、悪くて間違い(まあ一応partiallyとは書いているんだけど)だな…性同一性障害→心と体の不一致が障害っていうイメージvs gender identity disorder→性自認(gender identity)の異常(disorder)っていうイメージっていう、全体としての語のコノテーションの差異に求めるのが正しい。山田さんの博論はここに言及するはずだから、博論の時は引用して修正しようと思う。
===以下要約レジュメ(日本語圏の人でも読めるように日本語)
イントロ
2007年ごろからヨーロッパを中心に「脱病理化運動」が生じ、その結果トランスの人々の医学的カテゴリやケア基準に変化が生じた。この変化は日本でも受容されているのだが、日本において「脱病理化」言説がいかなる形で受容されているのかは明らかではない。
本稿の議論の流れは以下の通り。まず本稿が着目する日本語について説明したのち、文献レビューを通して、1「医療化概念を適切に概念を分解する必要性」2「トランス医療の両義性」3「日本のトランスに関する歴史的立ち位置」に焦点を当てる。その後に本研究の(方法論と)結果について、「性同一性障害」という語の使用法に着目して論ずる。最後に、日本の医療-政治制度の政治性に対する批判的な評価を行う。
本稿の日本語表現について
日本語の単語は、対応する英語の単語と同じニュアンスを伝えるとは限らない。従って本稿では重要な単語は英語に翻訳せず、ローマ字表記で記述する
社会に割り当てられた性別と異なる性で生きる人を総称する時、本稿は「トランスの人々(trans people)」や「トランスの個人(trans individuals)」を使用する。「トランスジェンダーの人々」とか「ジェンダー多様な人々(gender diverse people)」という言い方は、sex/genderという英語の二項対立をナイーブに前提としてしまったり、日本語の「トランスジェンダー(注:英語の"transgender"ではない)」の使われ方を調べたいという筆者の意図にはそぐわない
本稿は「障害」という言葉に着目する。この語はimpairmentとdisabilityという語の翻訳としても使えるが、DSM-IIIにおいてはdisorderの翻訳としても使用された。「性同一性障害」はDSM-IIIに入っているため、「障害」という言葉が入っている。本稿が着目する「性同一性障害」の多義性は、「障害」という語の多義性にも由来する。(訳註:このレジュメでは、元論文ではローマ字になっているところを日本語表記、英語での説明になっているところは英単語で表記している)
文献レビュー
「医療化」理論とその範囲
医療社会学においては、1970年代から父権的な医療システムを通した統制への異議申し立ての文脈で、「医療化」という概念が着目された。この文脈において、「医療化」とはしばしば「過剰な医療化」や「不適切な医療化」と同義で用いられていた
一方、「医療化」は必ずしも否定的な帰結のみを意味するわけではなく、肯定的な帰結(症状の一貫性を理解する、診断カテゴリの元でアイデンティティ形成、病人役割の取得、制度的な資源へのアクセス)もある。従って、医療化はしばしば両義的なものとなる。
現代において、医療構造自体が変化していることに起因して、「医療化」の推進要因が変化しているという指摘がある。関連して、「医療化」という概念自体の内実の曖昧さと、分析ツールの精緻化の必要性が指摘されている。本稿は「脱病理化」言説の元での微妙な変化と政治性を分析することで、「脱医療化」のような単純なモデルを退ける。
性の多様性の医療化と病理化
19Cから、トランスの人々は西洋医療において「逸脱した」「異常な」性的な行動をする人として治療の対象とされていった。伝統的な研究は医療化と病理化への否定的な側面に着目し、否定的にそれらを扱っていた
一方、ハリー・ベンジャミンらに代表されるような「トランスセクシュアルモデル」は精神治療に焦点が当たっているものではなかった。このモデルは、「価値ある患者」に対しては、transsexualやgender identity disorderの診断のもとで医学的治療(注:精神治療ではない)が正当化された。
トランスセクシュアルモデルは、一方で一部のトランスの人々にとっては医学的治療(注:精神治療ではない)を可能にし、差別や性別承認を可能にした。他方で、医療ニーズの有無も関係なくトランスの人々を逸脱視する眼差し、トランスセクシュアルモデルへの準拠が正当性の基準になったこと、専門家でない人にとってトランスであることを精神異常であるとみなすことに繋がったこと、医療提供者がゲートキーパーになったことなどが帰結となったと指摘されてもいる
他方で、問題の所在を個人の身体ではなく、差別、敵意、暴力などとするトランスジェンダーモデルが当事者の中で構築されてきた。本モデルは政治的な運動を活発にした一方で、医学的な治療ニーズを削ってしまうリスクがあることも問題視されていた。
この両義性が脱病理化運動の中心的な問題だった。脱病理化運動の支持者たちは、医療アクセスの維持と病理的なカテゴリの削除を求めた。ICDやDSMのカテゴリの変化はこの運動を反映している。ただし、これらの改訂は診断モデルを維持し、「価値ある患者」の選択を行う余地を残してもいることが指摘されてはいる
なお、オーストラリア、カナダ、USなどでは、インフォームドコンセントのみによる治療(精神科によるアセスメント不要)が可能になっているという指摘もある。SoCは版の改訂につれて自己決定の裁量を拡大している
まとめると、脱病理化の議論には、診断モデルと医療アクセスとの緊張関係が含まれる。本稿は、日本における脱病理化の言説と政治的要因に影響された医学的カテゴリの多義性を探求する
日本における「性同一性障害」の普及とトランス医療
日本では、特にトランスの女性への性器の手術やホルモン治療は1950年代には行われていたとされている。しかし男娼を告発するために行われた医師に対する刑事訴訟裁判(ブルーボーイ事件)において、医師が当時のアメリカの診断基準に準拠していなかった状態で性別適合手術を行ったことが優生保護法違反であるとされたことが、医療者の性別適合手術の違法性の認識を形成し、オープンには実施されなくなっていった
性同一性障害は、身体治療の正当化のために埼玉医科大学倫理答申を契機に日本社会で導入されていった。倫理答申では精神と身体上の性別の一致を性同一性、不一致を性同一性障害として、不一致により生じる苦痛を和らげるために治療を導入した。
性同一性障害は日本においてメディアを通じて普及した。これは一方でトランスの人々の苦痛やニーズを言語化するための社会的なアイデンティティとして役立ったが、一方で身体治療と結びつき、身体治療を望まない人を周縁化した。また、既存のトランスのコミュニティの人々にとっては、トランスの経験を医療の解釈に押し込めるものでもあった。
性同一性障害の社会への急速な普及は、特例法に代表される、一部の人たちの社会包摂へと結実した。一方でこの包摂は診断や手術といった、医学的基準に依存しており、既存研究はこの状況を「GID規範」や「TS原理主義」として問題視してきた。
2010年代ごろから「トランスジェンダー」という言葉は米国のLGBT運動とともに急速に広まった。とはいえ日本の医療や法制度は性同一性障害概念に依存しており、また治療を受けるためには精神的な評価を受けなければならない。ホルモン治療は保険適用でもなく、また混合診療の禁止により性器手術も保険適用が妨げられる。
こうした状況を通し、日本を「性同一性障害」後進国と呼ぶ人もいるが、一方で性同一性障害には独自の文脈が存在するという指摘もある。本論文は、脱病理化の言説が日本でどのように受け止められてきたかを明らかにすることで、多義的な意味を持つ「性同一性障害」に内在する日本における曖昧な評価を理解することに貢献する。本稿は、日本の医学言説が、西洋医学の診断モデルの両義性だけでなく、「性同一性障害」が持つ独特のコノテーションを示唆していることを示す。
研究方法
使用データ:国立国会図書館で閲覧可能な出版物のうち、検索ワードにヒットした(「トランスセクシュアル」「トランスジェンダー」「性転換症」「性別違和症候群」「性同一性障害」「性別違和」「性別不合」)、医療従事者が執筆した日本語の医学記事。
脱病理化言説が出現し出したのはDSM-5の草案が出された2010年ごろなので、検索年度は2010-2022年とした。
ヒットした資料のうち、1)DSM-5、ICD-11、SOC-7など、脱病理化や医学的基準の改訂に言及し、かつ2)医師、外科医、CP、PSW、性科学者などの専門家によって書かれた論文49本を対象とした。
分析方法:Fairclough(2001)のCDA(批判的談話分析)。言説を「社会構造によって決定される社会的実践としての言語」と読み、脱病理化がデータの中でどのように構築されているかを明らかにすることを方針とした。
コーディングおよび分析は、Fairclough(2001)が示した3つの段階、すなわち1. テキスト分析のレベルでの「記述」、2.テキストと相互作用の関係に焦点を当てる「解釈」、3. 相互作用を文脈と結びつけた「説明」に従って行った。
元データは日本語であるため、筆者が原語の意味合いを可能な限り残しつつ翻訳をし、英語校正サービスを利用して確認した。
結果
本セクションでは、医療従事者がトランスの人々に対して用いるカテゴリ、特に「性同一性障害」の用法のバリエーションに焦点を当てる。カテゴリの使用法として、「精神障害」としての性同一性障害、「障害/疾患」としての性同一性障害、診断カテゴリとしての性同一性障害の3つが析出された。
これら3つのパターンは、記事全体を通して一貫して使用されているわけではなく、多くの場合、著者たちは複数のパターンを組み合わせて使用している。
本節は、3つのバリエーションについてそれぞれ「記述」したのち、その複数のバリエーションが共存する仕方を「解釈」する
精神疾患としての性同一性障害
第一の使用法では、「性同一性障害」は、トランスのアイデンティティを精神医学的なdisorderとして分類したものと理解されている。この文脈では、医療関係者は「脱病理化」の流れに一致して、「性同一性障害」は不適切で問題のあるものとみなす。
「性同一性障害」は他のカテゴリと対比させながら、「性別の多様性はもはや病的なものではない」と主張するためにレトリカルに使われる。この対比は、性別の多様性は人間の普遍的な側面であり、決して否定的に扱われるべきではないことを強調するために使われる。
対比の例:新しい基準である「性別違和」や「性別不合」と古い「性同一性障害」との対比、医学的な言説に由来しない「トランスジェンダー」と精神医学由来の「性同一性障害」
新しいカテゴリへの移行は、精神病理から性別の多様性の尊重への「世界的」な移行を象徴したものとしてあつかわれる。この二項対立は、日本の医療制度や法制度に関する問題・改革の必要性を強調するために動員される。
また、この二項対立は社会的認識の拡大の必要性という文脈でも使われることがある。具体的には「社会の中で多様な性を受け入れるための啓発プログラムを積極的に実施すること」「学校やピアサポートグループと連携して、子どもが直面する特定の問題に取り組むチームを結成すること」といった、医療従事者自身が専門家としてアクセスできる社会領域について改善するための提唱者となることが含意されている。
障害/疾患としての性同一性障害
この使用法において、性同一性障害は障害であり疾患である。注意しなければならないのは、ここでの「障害」や「疾患」は精神の「疾患」とは峻別され、身体上の性別と心理社会的な性別の不一致に起因する苦痛の状態を記述するために用いられている。
このような理解によれば、性同一性障害とトランスジェンダー、性別違和は対立的な理解ではなく、包括的な理解になる(性同一性障害⊂トランスジェンダー、性別違和)。身体的治療の必要性はその分かれ目として理解される。
一部の医療者は、性同一性障害という概念が医療への理解を深め、法的な性別認定を獲得し、広範な社会的包摂を得るために、広く認知された用語として機能することにメリットを感じている。この認識からすれば性同一性障害はスティグマではない。
トランスジェンダーの「脱病理化」と性同一性障害の「医療化」は真逆の方向性としても捉えられる。特に、保険適用含む医療アクセスの確保のためには「障害」であることは必要とみなされることがある。この文脈において、脱病理化の傾向は医療アクセスの確保を逆行させかねない危機としてみなされることもある。
また、「病気」である性同一性障害が示唆する福祉的救済の方向性を指すとみなし、脱病理化が示唆する人権モデルが「日本では浸透しにく」い可能性を主張するものもいる。
ただし、「障害」は便宜的なもので、医学や法律が適切に適用されれば、性同一性障害は障害ではなくなるという理解もまた存在する。
(身体治療のための)診断カテゴリとしての性同一性障害
この使用法において、性同一性障害は、医療ケアを求めて医療機関を受診するための診断カテゴリと理解される。ここでは、性同一性障害と性別違和、性別不合は全く等価かつ交換可能なものとしてテクスト上で記述される。
この使用法において、性同一性障害はあくまで身体治療の文脈に限定される。この特徴は、子供の診療についての説明の時にはっきりと現れる。例えば、子供には診断は不要である、あるいは診断は「かれらのアイデンティティを固定化してしまうため避けるべき」とするような言説である。
性同一性障害と性別不合が機能的に等価であるという理解は、ガイドラインの枠組みは変えなくても良いという帰結を導く。実際、ガイドラインの策定に携わる医師たちは、大枠を変える必要はないと説明する。
既存のガイドラインは精神科医によるアセスメントと診断を必要しているが、これは一見「精神障害」でない性別不合という概念とは矛盾するように見える。医師たちは、性別不合が存在することの確認や、他の精神疾患の除外、自己決定のための精神的安定性の確認により、これを正当化する。加えて、かれらは精神科医の「関与」という表現を用いて、実践を維持しつつ「障害/疾患」としてのコノテーションを喪失させている。
性同一性障害の3つの使用法の関係性
上で示した3つの使用法は必ずしも矛盾する形ではなく、テクスト内部でしばしば共存する。
「精神障害としての性同一性障害」と「診断カテゴリとしての性同一性障害」は、脱病理化運動と、それに伴うICDの改訂という動きとパラレルである。ICDは身体的治療へのアクセスを確保するためにカテゴリーを維持する一方で、スティグマを減らすために精神疾患カテゴリからは除外したが、この変更の側面を強調するタイミングでは「精神障害としての性同一性障害」という使い方が動員され、カテゴリーが維持されていることを強調するタイミングでは「診断カテゴリとしての性同一性障害」という使い方が動員されている。
「精神障害としての性同一性障害」と「障害/疾患としての性同一性障害」は、世界/日本という異なる文脈を反映するものとして並置されている。つまり、性同一性障害という用語は、世界的には精神的な「疾患」として問題視され、それゆえ世界的に脱病理化運動が起こったが、日本では医療へのアクセスや社会的包摂のために活用されているという理解である。
「疾患/障害としての性同一性障害」と「診断カテゴリとしての性同一性障害」は、ICD-11の性別不合を性同一性障害の「改称」や「疾患名の変更」として結び付けられている。こうした表現によって、診断カテゴリとしての共通性を示唆するとともに、性同一性障害が持つ身体治療の必要性のコノテーションが引き継がれている。
ディスカッション
性同一性障害の使われ方には、日本におけるトランスジェンダーの社会的状況、およびこれらの状況に対処する3つの政治的必要性が反映されている。
「精神障害としての性同一性障害」は、日本精神神経学会のガイドラインの改訂、特例法の改正、社会的認知の向上などの必要性を含む、既存の医学的・法的枠組みを批判し改革を提唱するために用いられている。
一方で日本ではホルモン保険適用は達成されていない。そこで医療アクセスを求めるアドボカシーのツールとして、「障害」や「疾患」としての「性同一性障害」が用いられる。
診断カテゴリとしての「性同一性障害」という理解の出現は、ICDの変化と、上の2つの社会的文脈の統合の必要性の結果として説明できる。すなわち、日本の医学的な分類システムがICDに準拠すること、かつ医療アクセスの正当化のためのコノテーションを維持することを調停した結果として、「性同一性障害」が再解釈されたのである。
この3重の意味の政治性は、医療化の多層的な側面に着目することによって理解ができる。性同一性障害から性別不合への変更は、医療従事者にとって、トランスの人々を「障害」として扱うべきではないという形で知識の枠組みを刷新するものである一方で、身体的な医療行為の正当性と、それに伴う医学的権威の位置付けは維持されるものでもある。
これは「病理化なき医療化」(Sholl 2017)と整合
この多層性が示唆するのは、「性同一性障害」からより病的異常でない「性別不合」への移行を脱病理化のすべてとみなすことは、「価値ある患者」を選別する権力を疑うという重大な問題を見落とす危険性である。脱病理化運動においてはこの権力が重要な問題となっていたが、日本の医療従事者の言説には、このような問題提起はほとんど無視されている。
このような状況は日本特有のものではなく、むしろヨーロッパやアメリカの国々でも指摘されているような診断モデルと脱病理化運動との緊張関係を反映している。
にも関わらず本研究は、トランスジェンダーの医療化に対する日本独自のアプローチも見出した。それは、「性同一性障害」が医療行為に強く関連づけられたニュアンスを持っていることである。「性同一性障害」は精神疾患ではなく、むしろ身体的な治療と診断とを強く結びつけている。この点において(精神病理性の程度の差異において)、gender identity disorderによる医療化と、「性同一性障害」による医療化は注目に値する差異なのである。
このパラドックスはdisorderと「障害/疾患」のコノテーションに部分的に由来すると説明できる
結論
本稿は、文化的・言語的なニュアンスの違いによって、西洋の視点とは異なる二面性、つまり、脱病理化と医療化に対する、似ているようで独特な日本のアプローチを浮き彫りにしている。これらの側面を検討することで、本稿は西洋医学の概念が日本でどのように適応され、再解釈されているかについての洞察を提供した。このような側面に着目することは、トランス医療と脱病理化言説の効果についての理解を深めるより広範な議論に貢献するだろう。
本研究は、日本のトランスの人々が医療関係者の言説の変化をどのように受け止めているのか、あるいは日本の臨床医がどのような実践を行なっているのかを探索できてはいない(研究の限界点)。これらの観点からトランスの当事者と医療者の言説をさらに掘り下げることで、日本におけるトランス医療への、脱病理化言説の影響とその特徴について、より詳細な理解が得られるだろう。