オートガイネフィリア: 科学的レビュー、フェミニスト的分析、そして代替としての「身体化することの幻想」モデル
原題:Autogynephilia: A scientific review, feminist analysis, and alternative 'embodiment fantasies' model
Julia Serano
どんな論文?
イギリス社会学誌The Sociological Reviewの2020年特集号"TERF Wars: Feminism and the fight for transgender futures"に掲載されたセラーノの論文。日本でも俗に当事者コミュニティで使われていた(今もネット上だとあるイメージ)「オートガイネフィリア」「AG」という概念について、以下のことを説明している: 1. 出どころの説明
「典型的でない」トランス女性の「病態」を説明するためにBlanchardが1989年に2つの論文で提唱
2. AG理論の科学的是非とより妥当性のあるモデルの提唱
AG理論は実際の人々の性行動を包括的に、十分に説明できない。むしろ、人には普遍的に「身体化することの空想」と言う欲望があるが、特に現在の文化では「女性的な身体化することの空想」が有徴となり「問題」とみなされやすいと考える方が妥当。
3. そしてAG理論が持つコノテーションと、政治的利用のされ方についての批判的考察
AG理論は性に関するステレオタイプを多用するがゆえに、「本当っぽく」聞こえてしまう。しかし、そうしたステレオタイプは科学的事実に反しているし,女性差別的な信念に根ざしている.
この論文の全文翻訳とか需要あるかな?流石にニッチすぎるよな....w
なお、Seranoはアメリカの生物化学者。トランスについてのスポークスパーソンでもある 今年(2023年)、Whipping Girlの邦訳が出るはず出た。Subconscious sexやTransmisogynyといった概念を提唱した、重要な著作。 日本においては、(針間克己, 1998, 「性同一性障害の概念及び現況」『ケース研究』(254): 31-45)が初出で輸入したと思われる(ご自身がウェブ記事で1998年って言っているが、多分この論文だろう) なお、このウェブ記事の説明もまた、一部問題になると思われる(セラーノの批判の対象となると思われる)。
具体的には、AG=パラフィリアと言う枠組みをそのまま無批判に導入している点
まあもっとも、DSM-5-TRに、未だにAutogynephiliaが特定用語として入っていることを好意的に考えると、理論上の妥当性よりも(文化的背景を踏まえた)臨床上の有用性を理由に診断として実体化することが有用であると考えられている可能性はある。
念のため述べておくと、「AG理論が行動科学上、説明モデルとして不適切である」と言う説明は、AGと言う語を自らを説明するために使う人々に対して、それは間違いだと指摘することではない。
実際Seranoは、AGと言う語が登場した背景や、いくつかの「身体化することの空想」のなかで、とりわけ「女性的に身体化することの空想」がとりわけ表出され問題になる文化的構造にまで考察を伸ばしている。
つまり、AGと言う語がある人の経験を説明する際に有用であると考えることは、むしろその欲望を内包する文化社会的なコンテクストを含めて考察する余地を生む。この点で「AG」と言うカテゴリの「力能」を考察することは社会学的に無意味な問いではない。
以下論文の要約:昔の読書会で作ったdocs版はこちら。こっちの方はSeranoの主張の論拠となる文献を一部注で落としている。 ちゃんと論拠となる出典まで読みたかったら本文を参照してください。
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本稿について
オートガイネフィリア理論(以下、AG理論) = 「トランスジェンダー女性の性自認や移行は、性的指向の副産物に過ぎない」とする理論。本論文は、AG理論を否定する科学的根拠と、より説明力のある「身体化することの空想」(embodiment fantasies)モデルを説明する。またAG理論は本質主義的かつ男性中心的であり、フェミニズムの基本的な考え方と矛盾していることを示す
内容要約
導入(pp. 763-4)
ここ10年ほど、Ray BlanchardのAG理論はTERF言説の中で好んで用いられるようになっている。この理論は性科学や心理学で否定されており、フェミニズムの蓄積にも反しているが、TERFの中ではまるで主流の言説のように用いられている。
そこで本稿は、AG理論を否定する科学的根拠と、性科学や心理学が示す証拠を説明する代替理論を示し、AG理論が本質主義的、男性中心的、反フェミニズム的であることを説明する。
AG:歴史的文脈と科学的根拠(pp. 764-8)
トランスの人々が、性表現、性的指向、性的な空想、人生の軌跡において多岐にわたることは、今日のトランスヘルスの専門家にとって合意がとれつつある事項である。
しかし、20世紀においては、ジェンダー本質主義や還元主義的な見方(i.e. 男性と女性はジェンダーやセクシュアリティ的な観点で別物)が主流であった。性別二元論に当てはまらないような性のあり様は病理とされ、分類されていった。
この時代、出生時男性として割り当てられたトランススペクトラム(AMAB transgender-spectrum)の人々は以下の2つのグループに分けられた:
トランスセクシュアル(TS):社会的かつ物理的に移行を行う。「女性化した脳を持つ男性」という理解がなされ、トランス女性は女性としての自認、生涯にわたる女性的な性表現、男性への指向を持つとみなされた(「古典的TS」)。
トランスベスタイト(TV):時折女性型の服を着る、女性型の服を着ることや女性型の性徴を持つことに性的興奮 (本稿ではFEFs, i.e. female/feminine embodiment fantasies,「女性的に身体化することの空想」と呼ぶ)を覚えることのある「普通の」男性
しかし70-80年代に「古典的TS」に当てはまらないトランス女性が増加したことにより、TS/TV二分法は疑問に付された。本稿ではこのような人たちを(研究者や医療従事者が強要するイメージに挑戦すると言う意味で)「非古典的」トランス女性と呼ぶ。
89年、Blanchardがトランスを分類する説明の仕方として、AG理論を提唱する。AG理論において、トランス女性は「性的異常」の種類に基づき、a) ヘテロ男性を引き付けるために移行する「同性愛的TS」と、b) 自己を女性として愛するAGとラベリングされた。AGは以下の特徴を持つ:
AGは「間違った方向を向いた異性愛的欲望」の結果により生じる倒錯として位置付け
AGは、「非古典的」トランス女性が経験する性別違和感や移行願望の原因とされる
AG理論の特異性は、トランス女性には2つのタイプがあり、その原因は根本的に異なると主張している点にある。AG理論は2000年代頃までは注目されていなかったが、Anne LawrenceとBaileyの"The Man Who Would Be Queen"により注目を浴びるようになる。
ただし本理論は、Blanchard自身の調査結果からもすでに多くの反証が導き出せる。またその後の研究によっても、Blanchardの理論は否定された。Blanchardの理論に対する多くの批判は、Blanchardの分類が経験的に導き出されたものではなく、初めから性的指向に基づいて分類していたことに由来する。
シスジェンダーも(トランス女性と)同様にAG的経験をしうると言うデータもある。したがって同様の経験をトランス女性がした時のみAGと分類されることは非論理的でスティグマ付与的である。
また、シスジェンダーも(トランス女性と)同様に異性装/性別移行に対する性的な空想を抱きうると言うデータもある。
ここまでの議論により、2つのことが明らかである:
体現の空想(embodiment fantasies)は非常に一般的である
FEFsがトランスセクシュアリティの原因であると言う考えは疑わしく、証拠がない。性別違和とFEFsは独立した理由で起こると考える方が自然。
以上の説明から、AG理論は間違いである。が、研究者の中には暗黙のうちにこの理論を援用するものもいる。理由としては、上で述べた研究を知らない、信念やバイアスなどが挙げられる。あるいはAGをFEFsと同義語で用いるものもいる(が、これはFEFsを不適切に位置付けうるため避けるべきである)。
体現の空想とトランスジェンダー、クィア、女性の主観性 (pp. 768-72)
現象学、社会学、ジェンダー研究なども、AG理論の疑わしさを指摘している。より具体的には、AG理論は「身体化(embodiment、我々の思考や知覚は身体から、また身体によって形作られるという考え方)」の考え方を完全に無視している。
あらゆる性的な空想や活動には身体が関わっており、私たち自身の身体が他の人々の身体とさまざまな形で相互作用することで立ち上がる。私たちの注意は、他人の身体に向くことも、自身の身体に向くこともあり、性的な空想や経験をする際には、こうした側面が同時に作用することが多い。性的な空想の中でまったく別の人になることを想像することは珍しくない。
Bettcher(2014)の研究は、性的な空想は複雑で多様であるにもかかわらず、AG理論がそれを単なる人や物への「魅力」に還元していることを示す。
筆者は過去に"Autophallophilia"と言う語を作ったことがある。語を作った意図は、男性も身体化のための空想を経験していることを説明することであった。しかしAutophallophiliaのような空想が"Autophallophilia" "MEFs"の観点から見られない。その理由としては、彼らがシスジェンダーであり、(割り当てられた)性の属性を当然視できるからである。対照的に、多くのトランスジェンダーは(割り当てられた)性を自明視できないため、自身の体現に焦点を当てることがある。
シス男性が(割り当てられた)性の属性を当然視できるもう一つの理由は、彼らが男性であるからである。多くのジェンダー理論家は、男性の身体や視点は中立的なものとして見られ、文化の中ではデフォルトの立場であるのに対し、女性の身体や視点は有徴なものとされ「他者」化される傾向があることを指摘している。
第3の理由としては、性的指向も考えられる。ある個人が女性らしさに魅力を感じていた場合、同じ属性であるFEFsに対しより高頻度に、強く引かれることが考えられる(逆も裏も成り立つだろう)。このような説明は、研究者が見出した性的指向と体現の空想との相関関係と一致するが、直接的な因果関係ではない。なお、性的指向は、Blanchardが説明するような相関(移行前の「非古典的」トランス女性の多くは頻繁で強烈なFEFsを経験する)を部分的に説明することもあるかもしれない。しかしそれは主要な要因ではなく、FEFsは主に「異性装の段階」を通過したことに起因する。
「異性装の段階」にあるトランスにとって、女性アイデンティティや表現の探究に際してFEFsを経験させるということは理解できるものである。
e.g. Gender policing(日本語ではジェンダー警察? 外見や行動を通して、出生時に割り当てられた自分の性別を適切に演じていないと認識される個人に対して、規範的なジェンダー表現を押し付け、強制すること)が、女性的な傾向を抑圧し、プライベートな場においてのみ白昼夢や空想、異性装などをして楽しむように強制する
特に幼少期後半に自覚したトランスにとって危険なものとなる
e.g. インターネット時代以前(Blanchardの研究が行われた)においては、トランスに関する公的な認知やリソースは皆無だったため、自らの力でなんとかしなくてはならなかった
女性の経験や視点の他者化、エキゾチック化、Male gazeによる女性性の客体化が行われやすい社会的状況の上で少女/女性に対する性的魅力を経験することがある
体現の空想にはさまざまな形があるが、自分と全く異なる「他者」に同一化する場合、ステレオタイプに依存することがあるだろう。また、同一化が想定されていないような「他者」に同一化する場合には、そのことが禁止されたタブーのように感じられるかもしれない。とりわけFEFsやMEFsは「他者」の体現の空想として行われやすいことを考えると、これらがタブー視されるのは故なきことではない。
男性の経験と視点が英米文化において中心であることから、シス女性が空想の中で自分を男性として想像することは十分に考えられる。一方女性の経験や視点は「他者化」されているため、シス男性はFEFsを特にエキゾチックなものと感じるだろう。そして我々の社会では、女性性が男性性よりも低く評価されているため、シス男性は、FEFsに恥ずかしさや「道徳的な不整合」を感じ、自分の行動に苦悩することになるかもしれない。
トランス女性のFEFsの経験の中には、シスジェンダー男性のそれと多少重なるものはあるだろう(「他者」の体現の空想、エキゾチック化、ステレオタイプ、恥の感情)。しかし、シス男性の場合、このダイナミクスは変わらない。一方、トランス女性や異性装の場合は、現実の生活の中でジェンダーを経験するようになるため、このダイナミクスは徐々に変化する。実際、多くのトランス女性が最終的にFEFsの急激な低下を経験する。しかしAG理論はこれを適切に説明できていない。
まとめ:AG理論の支持者は、「2つのサブタイプ」が不変であると信じているようだが、これは性的マイノリティのアイデンティティや行動は地域の規範や社会的圧力によって形成されること、世代によって自己理解、人生の軌跡、性の歴史が異なることを示す多くの研究結果を無視している。今日の性科学者は、同じ体現の空想を経験する人々を同じ「パラフィリア」を持つ「タイプ」とみなす枠組みを採用していない。体現の空想に関する研究を行う際には、トランスジェンダー特有の精神病理学とてではなく、この現象の全容を認識するべきである。
オートガイネフィリアは男性中心主義、ジェンダー本質主義を助長し、トランス女性を性化する(pp. 773-5)
ここまでの説明によってAG理論の擁護者を納得させることができるかは疑問である。と言うのも、AG理論を採用する人々は、イデオロギー的あるいは社会学的な理由からそうすることが多いからだ。
ジェンダー本質主義者は、自らの「ルール」の例外に直面すると、個人を「女性化した男性」または「男性化した女性」として推定する。AG理論は、男性にしか惹かれないわけでもなく、子供の頃から特に女性らしいわけでもないトランス女性をジェンダー本質主義内で説明するために考案された。
現代の人々がAG理論に説得力を感じているのは、トランス女性に対するこれまでのステレオタイプを裏付けるものだからかもしれない。Blanchardの「発見」は実際には、研究以前からシスジェンダーの想像力の中に存在していた一般的なステレオタイプにすぎないからだ。トランスをテーマにしたメディア描写には、「騙す(deceiver)」/「哀れな(pathetic)」 トランスセクシュアルという2つのステレオタイプが繰り返し登場する。それぞれのグループは、「男性」が「女性」になりたいと思う理由についてのシスジェンダーの素朴な仮定が反映されている
こうしたステレオタイプは女性差別的な信念に根ざしている。まず、ステレオタイプはトランス男性の存在を繰り返し見落としている。これは男性中心主義的な社会で、男性になりたいという思いは理解されうるが、女性になりたいという思いは、女性は性的な存在としてしか価値を持っていないから(トランス女性は性的な理由でトランスするに違いない)であろう。
トランスジェンダーの存在を疑ったり、イデオロギー的に反対する人たちにもAG理論を受容する人がいる。AG理論は、トランス女性の性自認を無効にし、また性的に扱うからだ。実際多くの証拠が、性化された女性は、人間以下の存在とみなされ、真剣に受け止められず、共感をもって扱われない結果、スティグマや社会的孤立に直面することを示している。
フェミニストは歴史的に男性中心主義、異質性、ジェンダー本質主義に反対してきた。女性はslut-shamingされ、性的マイノリティが性的異常者や略奪者であると不当に非難されてきた長い歴史を考えると、(自称)フェミニストがトランスジェンダーの人々を排除しようとする際にBlanchardのAG理論を引用して、同じ戦術に訴えるのは偽善的である。