サイード「知識人とは何か」
わたしが使う意味でいう知識人とは、その根底において、けっして調停者でもなければコンセンサス作成者でもなく、批判的センスにすべてを賭ける人間である。つまり、安易な公式見解や既成の紋切り型表現をこばむ人間であり、なかんずく権力の側にある者や伝統の側にある者が語ったり、おこなったりしていることを検証もなしに無条件に追認することに対し、どこまでも批判を投げかける人間である。ただたんに受け身のかたちで、だだをこねるのではない。積極的に批判を公的な場で口にするのである。
たえず警戒を怠らず、生半可な真実や、容認された観念に引導を渡してしまわぬ意志を失わぬことを、知識人の使命と考えるということだ。
知識人にはどんな場合にも、ふたつの選択しかない。すなわち、弱者の側、満足に代弁=表象(レプリゼント)されていない側、忘れ去られたり黙殺された側につくか、あるいは、大きな権力をもつ側につくか。
知識人が選択を迫られるふたつの方向とは、勝利者や支配者に都合のよい安定状態を維持する側にまわるか、そもなくば ーこちらのほうがはるかに険しい道だが ー 、このような安定状態を、その恩恵にあずかれなかった不運な者たちには絶滅の危機をもたらす危険なものとみなしたうえで、従属経験そのものを、忘れられた数々の声や忘れらた人間の記憶ともども考慮する側にまわるかということなのだ。
専門化とは異なる一連の価値観や意味、それをわたしは<アマチュア主義>(アマチュアリズム)の名のもとに一括しようと思う。アマチュアリズムとは、文字どおりの意味をいえば、利益とか利害に、もしくは狭量な専門的観点にしばらることなく、憂慮とか愛着によって動機づけられる活動のことである。
現代の知識人は、アマチュアたるべきである。アマチュアというのは、社会のなかで思考し憂慮する人間のことである。そして、そうであるがゆえに、知識人はこう考える。もっとも専門的かつ専門家むけの活動のただなかにおいても、その活動が国家や権力に抵触したり、自国の市民のみならず他国の市民との相互関係のありかたにも抵触したりするとき、知識人はモラルの問題を提起する資格をもつのだ、と。
知識人として自分には、ふたつの選択肢がある。ひとつは、最善をつくして真実を積極的に表象することであり、いまひとつは、消極的に庇護者や権威者に導いてもらうようにすることである、と。