勉め強いらなくていい
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空前絶後の勉強ブーム
キャリアポルノって言葉が一時期ネットで盛り上がっていたように、自己啓発や社会人になってからの勉強といった動きが一昔前と比較して流行ってるように思う。昔なんて自分の父親や母親が仕事や家事を終えてから勉強してる姿なんてまずなかったと思うけど、今だとありふれた光景なのかもしれない。 勉強、普通の人だったらそんなにいい思い出はないと思う。親や教師から半ば強制的に勉強しろと言われてやっていい気はしなかったと思う。「こんなことやって何の意味があるの」ってちゃんと応えられる大人と巡り合えなかったらそれはそれは悲しい幼少期かもしれない。それで自分が大人になると「あの時ちゃんと勉強しとけば・・・」みたいに後悔して、子供や若い人に勉強しとけと強く警告するんだから悪循環極まりないですね。
「勉強」という言葉がどういったものから成り立ってるか調べてみた。
勉強は「勉め強いる」で、本来は気が進まないことを仕方なくする意味であった。商人が頑張って値引きをする意味の「勉強」は、学問や技芸を学ぶ意味の「勉強」よりも古く、江戸時代から使われている。 明治以降、知識を得るために努力することが美徳とされるようになったことから、「勉強」は「学習」とほぼ同じ意味で使われるようになり、一般的に「学習」を意味するようになった。 基本、人間が勉強するということになると大抵はめんどくさいものだと捉えてるはず。もちろん「勉強する」のが楽しいと思っている人もいるはずだけど、勉強を楽しく思わない勢と比較して圧倒数ではないと思う。それは勉強という言葉自体がそういうものであるから。
じゃあ勉強は無くていいのか
そんな悪循環を招く存在、消すべきじゃないかとは思いかねないけどそうなのだろうか。実際、社会人になってから「勉強したい」と言う気持ちが沸くことはある。勉強するための目的は皆同じではないだろうけど、社会人経験をした後に大学や夜間学校に通う人の存在がそれを示していて、老後の楽しみとして色々と学んでみたりする人だって居る。
もちろん会社に勤めてる人だって進行形で勉強はしてる。常に新しい技術が更新されるIT業界では社内で勉強会があることはザラですし、プログラマーはデブサミやハッカソンなどのイベントに参加し自分たちの技術を高めたりする動きもある。要は研修だったり新しい技術を導入する時に「勉強」という体験はしている訳なので、そういう人のために勉強は必要だし、自分がいつ勉強を必要とする人になるか分からない以上、無くなるべきものではないと思う。 「勉強」をやりやすいものへと変換する
しかし、ということで皆さん考えを改め勉強をすることをポジティブにとらえてゆきましょう、とは簡単にはならない。いきなり勉強しよう!と心を新たに行動しだして持続できる人なんてまず居ないし、そうした流れだと結局上記のキャリアポルノの話に戻るだけになっちゃう。「勉強」にはどうも強制してやらなければならない負のイメージが付いてて、それを払拭しない限りは悪循環のままである。じゃあどうしようかと考えたとき僕が思いついたのは「勉強」を「勉強」だと思わないものにすればいいのでは?ということであった。 分かりやすい例だと「歴女」という存在。史学は義務教育から細分化された専門分野であるが、義務教育レベルだと知りえない知識を調べたり独学で得たりして深い分野に入っていく女性たちが居る。関連だと「信長の野望」などの歴史ゲームをプレイしていたら、その周辺の知識を自然と得ることも同義的に考えられる。前の日記でも書いたけど、正面からではなく斜めから物事を学んでいくことが自身の経験として根強く残ることもある。つまりは自分にとって自然に受け入れられる興味を、どんどん深層化させてゆく感覚を得てゆけば良いのではないだろうか。 もちろん研修や必要な知識を「どうしても」学ばなければならないこともある。そうした場合、真正面から受け止めるのではなく、自分が入りやすい位置を見つけてそこから入り込むようにすればいいと思う。僕は覚えたての知識を使って何かできないかと思い、作ってみた結果こんなクソみたいなものが出来たりする。でもそれが良いかどうかは置いておき、アウトプットして復習することで通常知るだけの以上の経験を得られる。これも斜めからではあるが、「勉強」したことと同じだと思う。
学ぶことを気負わない
業務上必須なことは優先して学習すべきではあるが、プレッシャーを感じながらやっても何も良いことは無い。そうして無意識的に苦手だと思うようになったら自然とつらみがあるものになる。だからこそ楽にやれる方向性を見つけることがいいんだと思う。もちろんそんな考え方にすぐ移行できるとは僕自身も思っちゃいない。それこそ逆効果になりかねないんだし可能な範囲からやることの方が大事だと思う。 勉強を楽しめるのは習慣化することと同じだと思う。習慣化したことをやめようとすると逆に負担になってしまう。それこそ寝食を忘れてやる感覚で。たぶんそうした域にいる人がいわゆる「天才」と言われる人である。 結局は気持ちの問題じゃないかと思われる訳だけど、そういうものだと思う。博識な人は嫌々とその知識を得てきたわけでは無い。だって嫌だったら忘れたいしそれこそ知識は付かない。知識を得ることを、無意識的に、ポジティブに捉えられてる人はその分野で圧倒的に強いというのは歴史が証明している。だからこそ「勉強」を、勉め強いらなくていいんだと思う。 関連記事
wrote:2014/4/24