情報の役割
(DIKW階層とか情報理論では無い話)
いわゆる「事実の指摘は人格攻撃とは違うから真摯に受け止めよう」について思うこと
code reviewとかacademicな文脈とか、組織やコミュニティにおける「建設的な会話」みたいな文脈でいわれがちなこと
ある発言があるとき、それを三つの役割でみることができる
a. 感情の発露
共感して欲しい、相手の行動を自分に都合良く変えたい、...
b. 事実・論理のやりとり
~は正しい、~は誤っている、~から~が導ける/導けない、...
c. 発言が存在していることが与える影響
その発言が届いたら、結果的に何が起きるか?それは誰の利害とalignしているか?
「事実の建設的な指摘」が語られる文脈は、a -> (a+)bに移行しよう、というとき
ベストプラクティスの例
「このコードはクソ」じゃなくて「このコードは~という状況でバグが発生する」と書きましょう
仮に文章の口が悪くてもそれは口が悪いだけで事実指摘をしようとしていると受け取りましょう
もちろん実際ひどい物を見たときの怒りが消えるわけでは無い。他人に対してはそれをフィルターすることで「理性的に」話を進めましょう、という論調
ここでcを見過ごすと残念なことが起きる。そのパターンを考えてみる。
a->a+bに「進んだ」と自覚していてかつcを認識できてない人は:
a+cの人の力、cの効果を過小評価してしまうことがある
なぜなら自分のsubset, もしくは「どうでもいい政治」に見えるから
(世界の) 理性・事実を最大化することが正義・善であると思うことがある
e.g. とにかく何でもデータ公開すべき
e.g. 見つけた脆弱性は即時開示してもいい
なぜなら「バグがあるコード」が「悪」であって、それの指摘は正しいことつまり「善」だから
cは観測とゲーム理論に立脚してて、それが事実であるかは頓着しない
同じ発言が異なるオーディエンスでは全く異なる行動を引き起こしうることを当然と扱う
なぜなら各actorは持ってる情報も価値観も行動様式も違うから
たとえばある集団で「正しいこと」を常にいいまくる人がいるとする
で、それで感謝しつつ行動を強いられる人もいるだろうし、攻撃だと受け取る人もいる
ただ、結果として何故か特定のサブグループは常に忙しくなったり、特定の感情になったりしたとする
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ここでc的な観点だと、その発言者は(自覚の有無はともかく)集団に対して操作する目的で「正しい」という正当化を使っている、と解釈する
「正論では人は変わらない」について
1:1ではそれはaにも寄り添おうという話
集団ではcをうまくやるということ
a+bで全てを解決しようとするのは、「全員が論理的であるべき (そうなれないやつは無能)」という価値観をもった集団を志向するのと等価
それが実際受け入れ可能な均質なコミュニティでは成立している
それが「エンジニア界隈」とかacademia
もちろん「界隈」が一枚岩なわけがない
cは0-sumとplus-sumが混合した状況での利害の配分でもあるし、一方でそれぞれが異なる価値観に基づいて行動することを淡々と受け入れるという懐の広さがある
これが「政治的」であるということだとxyxは思ってる。でもそんなに「悪くは」ないんじゃないか?
少なくとも昔忌避してたよりは
私は全員が理論的な世界に住みたくない!