読書メモ: 言語哲学が始まる
「言語哲学」をわかりやすく教えてくれる本
言葉には新たな意味の算出可能性がある: 言葉は無限の意味を作り出せその意味を理解できる。ex. 猫は富士山に登った
有限の語彙と文法があるから意味はわかる。加えて、無限に組み合わせることができるから新たな意味を作り出せる。
「猫」の意味は何か
山田太郎と個別を指し示す語は固有名と呼び対象を指示する語として説明できる
一方で猫という猫の無限集合を表す一般的なものはどう説明するか。そこに歩いている猫を「猫」と呼ぶとするとそれはその歩いている猫を指示している。では別で寝ている猫も「猫」であるとすると歩いている猫と寝ている猫のコンビを指し示す語となる。
では私の家にいる猫はそこに含まれていないので猫とはいえないのではないか?
このように一般的な集合を指し示す語の意味を私たちは理解できないはずではないか?
これを個別性と一般性の問題と言う
1. 猫の意味はその指示対象とする
2. 猫の意味は一般性を持っている
3. 実際には具体的な個別の猫にしか出会えない
語の意味の組み合わせで意味が成り立つ。この考え方を要素主義という。しかし前述した猫の例から意味をうまく説明できない。
そこでフレーゲは意味の構成単位は文だという考えを打ち出した。この思想を文脈原理と呼び、文の中で単語の意味も決まる。
ex.ミケは猫である
これは事実を表しているが同時に猫という一般的なものもイメージできている。つまり文を理解することで猫という一般概念を理解しているということになる。
ここで注意が必要だが文は真実を表していない時もある。
「伊藤博文は猫である。」は事実ではない。
では文と世界の関係は真偽と言える
固有名
ラッセル
全ては指示語であるみたいな話
述語は命題を指示対象としている。要素主義
指示語というか確定記述みたいな話が出てきた
確定記述は指示対象を説明している言葉
xは猫であるは
xはミケである
じゃあ固有名はなくなるのかというと「それ」「あれ」が固有名になるのだと
でもそれだと違和感がある
ウィトゲンシュタイン
世界は事実の総体
ウィトゲンシュタインは文が先にありその後に思考がある。文は文節に区切られ全て可能性としてあり得る使い方をされると考える
つまり、富士山に小惑星がぶつかったは「富士山」「小惑星」「ぶつかる」の可能性空間の組み合わせであり、偽ではあるが優意味である
富士山は泣くのような言葉は「富士山」の可能性の空間に「泣く」がないから無意味な言葉である
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「世界は事実の総体」という表現は正しいですが、これだけでは不十分です。ウィトゲンシュタインは、世界を事実の論理的空間として捉えています。
「文が先にありその後に思考がある」という説明は誤りです。ウィトゲンシュタインは、言語と思考の関係を探求していますが、文が思考に先立つとは考えていません。むしろ、言語と思考は密接に関連していると考えています。
「文は文節に区切られ全て可能性としてあり得る使い方をされる」という説明も不正確です。ウィトゲンシュタインは、言語のルールとその使用に関心を持っていました。言語ゲームの概念を導入し、言葉の意味はその使用法によって決まると考えました。
「富士山に小惑星がぶつかった」という文が「有意味である」とする説明は正しくありません。ウィトゲンシュタインの考えでは、この文は意味を持ちますが、事実に対応していないため、偽であるとされます。
「富士山は泣く」という文が「無意味である」とする説明は正しいですが、その理由が「可能性の空間に『泣く』がないから」というのは不適切です。この文が無意味であるのは、言語のルールに反しているからです
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1.世界は事実の総体である。
2.事実は、物事の状態の成立である。
3.事実の論理的な形式は、思考や言語の論理的な形式と対応している。
4.言語の役割は、世界の論理的構造を描写することである。
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事実ではないものも言語として表現できるけど?
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文法的に正しい文であっても、事実を描写していない文は意味がない(無意味である)。
意味のある文の文法的構造は、描写される事実の論理的構造を反映している。
言語の限界は、世界の限界でもある。なぜなら、言語で表現できることは、世界の論理的構造に対応しているからである。