勉強の哲学 ~来るべきバカのために
哲学をやらなくてはということで昨年「人生が変わる哲学」という本を読んだ。
同じ著者(千葉雅也)繋がりで「勉強の哲学」という本が目に入り、仮にも大学まで進学したということで馴染みのある「勉強」と興味のある「哲学」の組み合わせの当書に興味が惹かれ読むに至った。
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サブタイトルの「来たるべきバカのために」とは
バカには二つの意味がある。
何も知らないバカ
の場のノリをわかっていてノリに合わせている人
後者のバカのことを「来るべきバカ」と表現し、ここを勉強を通して来るべきバカになろうという本である
勉強とは
自己破壊
今までの「のり」を壊して新しい「のり」にうつること
ex. 英語を学べば英語圏のノリに移る
今までの「のり」から自由になる。つまり「のりが悪い人」になる
では「のり」は 悪いことなんだろうか?
のりとは他者に合わせることである。人間はのりに支配される。不自由。
必ずしもそう言えるわけではない。
不自由であっても、居心地が良いんであれば、それはそのノリにいても良い。
自分の可能性が制限されていて、不自由な場所から解放されたいのであればのりは悪になる。
*他者: 自分以外のもの(ex. 日本,恋愛関係, 他人, インターネット)
ノリを変えたいなら
アイロニーとユーモアを身につけ、別のノリに引っ越す
アイロニー: 「皮肉」≒「つっこみ」 ≒ 批判、常識をを疑う、深掘り
ex
「このケーキおいしいね?」に対して「クリームがなめらかだね」というノリなら
「おいしいって答え以外許されてるの?」
ユーモア: 「しゃれ」≒「ボケ」≒ ずれ、広がり
ex.
ドラゴンボールの話をしていて懐かしいねというノリなら
キャラの話 > 負けキャラ > ヤムチャ > 天下一舞踏会
「なんの会議だったけ?」みたいな時
テキストの中の二項対立を意識する
無限と有限を意識する
アイロニーとユーモアは無限
有限に閉ざさないと行動できない
アイロニーは仮固定しユーモアを有限にする
アイロニーの有限≒批判を止める。真実を決定してしまうことになる
批判できなくなり、誤った決定を盲目的に信じることになり危険。
ユーモアは
読書ノートをつける
箇条書き
思いついたものを書く
移動先どうするのか
あらかじめ考えておくのではなく、勉強の先にある
他者との中で生きているので自然とそこに属すことになる?