20200919『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』(筑摩書房、1997)
まだ読んでいる途中。ひとまず、「都市の肖像」の部分まで読み終わったので写す。前にちらっと読んだときは、何が面白いのかよくわからなかったが、今回はかなり写しながら読んでいる。思うに、文章や思考を真剣にまとめようとした経験が無いと、あまり読んでも面白みが無いのではないか。こんな言い方・解釈があるのか、という驚きと、たしかにそうだなという共感が多い、読んでいて楽しい文章。
↓「一方通行路」
p.19 意見と社会
「意見が、社会生活という巨大な装置に対してもつ関係は、油と機械との関係に等しい。タービンの前に立って、それに機械油を浴びせかけたりする人などいない。少量の油を、隠れた鋲や継ぎ目に差すのであって、肝心なのは、それらの位置を知っていることなのだ。」
p.29 文の読み方について。風景との比喩。
「街道を歩いてゆくか、飛行機でそのうえを飛ぶかによって、街道の発揮する力は異なる。同様に、テクストを読むか、それを書き写すかによって、テクストの発揮する力は異なる。空を飛ぶ者に見えるのは、道が風景のなかを進んでゆくさまだけであり、彼の目には、道はまわりの地勢と同じ法則に従って繰り広げられてゆく。道を歩いてゆく者だけが、道の支配力を知る。そして、飛行者にとってはたんに伸べ広がった平野にすぎない、まさにあの地形に、道が号令をかけて、遠景や、見晴らし台や、林間の空き地や、すばらしい眺望を、道の曲がりくねりごとに呼び出すさまは、ちょうど指揮官が兵士たちを前線から召喚するのに似ているが、そうしたさまを経験するのも、歩いてゆく者だけである。同じように、書き写されたテクストだけが、それに取り組む者の魂に号令をかけるのであり、それに対し、単なる読者は、自分の内面の新しい眺めを決して知ることがない。そうした眺めをテクストは、つまり密になってはまた疎らになる内面の原始林を通るあの道は、切り開くはずなのだ。なぜなら読者は、夢想の自由な空をさまよう、自分の自我の動きにおとなしく従うのだが、書き写す者は、そうした運動に対し号令をかけさせるのだから。」
p.59 結末と仕事場の関係
「作品の結末は、いつもの仕事部屋で執筆してはいけない。そこでは、結末を書く勇気が出ないだろう。」
p.67
「街のとてもごちゃごちゃした一区画、長年のあいだ私が避けていた街路網が、ある日、愛する人がそこに引っ越してきたとたん、私にとって一挙に見通しのきくものになった。まるで、その人の家の窓にサーチライトが置かれ、その光線の小さな束でもって、あたり一帯が切り分けられているようだった。」
pp.81-82
「浮き彫り。愛している女といっしょにいて、話をする。その後、何週間か何ヶ月かが経ち、もうその女と別れてしまってから、当時話題にしたことを思い出す。するといまやあの会話のモティーフは、陳腐で、どぎつくて、浅薄なものに感じられる。そしてそのとき分かるのだ――愛情から、モティーフのうえに深く身をかがめた彼女こそが、私たち男のまえで、そのモティーフを陰で被って保護してくれたのであり、そのおかげで思考が、浮き彫りのごとく、皺という皺、隅という隅に至るまで生気を帯びたのだ、ということに。私たち男が、いまのようにひとりきりだと、その思考は、私たちの認識の光に照らされて、平板な、わびしく陰影のないものに見える。」
p.96 郷土感について
「ひとつの町に最も固有な郷土感は、そこに住んでいる者にとって――いや、ひょっとしたら、そこに滞在した旅人にとっても、追想のなかで――町の塔の時計が鳴りはじめるときの音調と、その間とに結びついている。」
p.108-109 批評について
「批評とは、正しく距離を取ることである。批評が本来住まっている世界とは、遠近法的眺望と全体的眺望が大事である世界、ひとつの立場を取ることがまだ可能であった世界なのだ。それに対し現在では、もろもろの事物があまりにも緊急に、人間社会に迫ってきている。〈偏見のなさ〉とか〈自由なまなざし〉といったものは――単に当事者になれないことの、まったくおめでたい表現でないとすれば――嘘になってしまった。今日における最も本質的な、事物の核心に届くまなざしは、商業的なまなざしであり、それは広告と呼ばれている。広告は、自由な観察の余地などというものを取り払い、事物を私たちの鼻先に、危険なまでに近づける。」
p.112 町を自分のものにする瞬間
「朝早く、私は車で、マルセイユの町を駅に向かっていた。そして途中、見覚えのある場所、見覚えのないはじめての場所、あるいはよく覚えていなかった場所に出会ったのだが、そのとき町は、私の両手のなかの一冊の本となった。」
p.139 教育と支配について、技術と自然について
「教育とは何よりも、世代と世代の関係に必要不可欠な秩序だり、したがって、もし支配という言葉を使いたければ、子供を支配することではなく、世代間の関係を支配することではなかろうか。同様に技術というものもまた、自然を支配することではなく、自然と人類との関係を支配することなのだ。」
↓「ナポリ」
pp.148-149 ナポリの多孔性(ここでは多様性に近い?)について。行動と建物の関係について。この前に、岩盤に掘られた洞窟のような酒場などの例をあげて、
「この岩石と同様、建築も多孔的である。中庭やアーケードや階段で、建物が行動と化し、行動が建物と化する。あらゆるもののなかに、遊びの余地が保たれており、それによって、あらゆるものが、新しい予想外の状況布置の舞台となりうる。[……]共同体が行なうリズム運動の、最も明確な部分である建築は、この地ではそのようにして成立する。[……]。アナーキー的で、絡みあっていて、村民めいているのが街の中心街で、[……]大通りに囲まれた内部では、家屋ブロックが都市建築の細胞であり、そうした家屋ブロックがばらばらにならないように、それを角々のところで、まるで鉄のかすがいのように留めているのは、外壁に取り付けられている聖母の像である。」
pp.158-159 ナポリでの生活と場所の関係について
「めいめいに配られているものであり、多孔的で、混ぜこぜになっているのが私生活である。ナポリをほかのあらゆる大都市から区別するもの、それは[……]共同体生活がさまざまな流れとなって、どんな私的な態度や行ないをも貫いているのだ。生きてゆくこと、それは北方ヨーロッパの人間にとっては、きわめて私的な関心事だが、この地では、ホッテントットの円形村落のなかでと同様、集団的な事柄である。
したがって家屋は、人間たちが入ってゆく避難所というより、むしろ人間たちが流れ出てゆく無尽蔵の貯水槽である。生気溢れるものは、戸口から発するだけではない。人びとが椅子に座って仕事をしている前庭(というのは、彼らは自分の体を机代わりにすることを心得ているから)へ向かうだけdめおない。もろもろの家事が、バルコニーから、鉢植えの植物のように垂れ下がっている。[……]
道路上に椅子やかまどや祭壇が置かれることで、そこに部屋が再現するわけでが、それと同じように、ただしはるかに騒々しく、道路が部屋のなかに入りこんでくる。どんなに貧しい部屋でさえも、蝋燭や、[……]鉄の寝台でいっぱいで、ちょうど道路が、手押し車や、人間や、明かりに満ちているのと同様だ。悲惨は、ある種の境界拡張をもたらした。この拡張は、もっとも輝かしい精神的自由の、鏡像なのだ。」
↓「モスクワ」
p.175 浮浪児たちの教育について。街路は集団生活の場。
「そもそも、子供たちのところへ押しかけていって、話を聞いてもらうためには、自分の言葉を、街路そのもの、つまり集団生活全体の合言葉に、できる限りぴったりと、そしてはっきりと従わせることが、どうしても必要となる。」
p.177 芸術と生活について
「そして、有名なトレチャコフ美術館がある。風俗画とは何を意味するか、風俗画がほかなrぬロシア人に、いかにふさわしいものであるか、それはこの美術館を訪れてはじめて分かる。プロレタリアはここで、自分たちの運動の歴史から取られた主題を見いだす。たとえば「警官に不意を襲われた謀反者」、[……]そうした場面描写が、完全に市民的〔ブルジョワ的〕絵画の精神の枠内にとどまっていることは、何ら害にならないばかりか、これらの絵を観客に、まさに近づけてくれる。芸術教育とは、(プルーストがときおり、とてもうまく仄めかしていることだが)、〈傑作〉を眺めることを通じて促進されるものではない。むしろ子供とか、まさに自己形成しつつあるプロレタリアとかは、蒐集家が傑作と認めるのとまったく別の作品を傑作と認めるのであり、それは正当なことなのだ。」
p.209 学校教室の自主的装飾について
「ロシアの学校の教室にはじめて足を踏み入れた者は、驚いて立ち止まるだろう。壁は、絵とか、素描とか、ボール紙の模型工作とかでいぱいである。それらの壁は、いわば寺院の壁であって、そこに子供たちは、集団への贈り物として、自分たちの作品を、来る日も来る日も寄進しているのだ。」
p.213 モスクワの街路について
「モスクワの街路には独特の事情がある。そこでは、ロシアの村が隠れん坊ごっとをしているのだ。門をくぐる広い通路のどれかひとつを入ってゆく[……]すると広大な集落の入口に立つことになる。そこにはひとつの農家の構内、あるいはひとつの村が、広々と目の前に開け、地面はでこぼこ、子供たちが橇に乗って走り回り、薪や道具を入れる納屋があちこちの隅にたくさんあり、木々がまばらに立ち、木製の階段が、表通りからは都会風に見える建物に、裏正面ではロシアの農家のような外観を与えている。こうした中庭には、しばしば教会が立っていて、ゆったりした村広場の場合となんら変わるところはない。通りはこのようにして、田園風景という次元の分だけ拡大する。」
p.214 モスクワには中心はない?東京や京都といっしょか?
「モスクワには、これぞモスクワという都市そのものだ、と感じられるような場所がどこにもない。モスクワは、市の周辺地域に、まだしもいちばんよく似ている。」
pp.218-219 ロシア正教のかつての礼拝堂の荒廃と、その精神の継承にについて
「多くの教会は、こんな風に何の手入れもされず、こんな風に空っぽである。だが、祭壇からはもはやまばらに雪のなかに輝き出るにすぎない火は、木造の露天が集まる街々で、大切に保たれてきた。そうした街の、雪に被われた狭い通路は静かだ。服を売るユダヤ人たちの隠語だけが聞こえる。彼らの売り台のとなりには、紙製品屋の女が、歳の市の商品を並べている。この女は、銀の鎖のうしろに隠れて玉座につき、オリエントの女がヴェールを被るように、ラメッタや、綿入りのサンタクロースを、自分の顔の前に掛けている。」
pp.223-223 レーニンの像のまなざしについて
「[……]すなわち、机に向かい、『プラウダ』紙のうえに屈みこんでいるレーニン。はかない命しかない新聞に、これほどまでに没入しているレーニンの姿は、彼の本質がもつ弁証法的な緊張に支えられている。つまり、まなざしはたしかに遠方に向けられているが、心の倦むことなき配慮は、そのときの瞬間に向けられているのだ。」
p.254 「サン・ジミニャーノ」の最後の段落
「私はこの町の市壁から眺めている。この辺りの土地は建物や集落を自慢げにひけらかしたりはしない。そうしたものはたくさんあるのだが、覆われたり、影に隠れたりしている。生活していくのにやっと間に合うだけの造りの農家が、輪郭のみならず、煉瓦や窓ガラスの色調ひとつひとつに、庭園の奥のどんな邸宅にも見られぬほどの気品をたたえているのだ。他方、私がいま凭れている市壁はといえば、オリーヴの木と――こんもりとした枝葉を固くてもろい冠にして、この樹冠を無数の隙間ともども空に開いているオリーヴの木と――秘密を分かちあっている。」
以下、「ドイツの人々」。これは、ドイツのいろいろな人々の手紙を掲載+解説しているもの。
p.275 レッシングの手紙の引用
「「私も一度は、ほかの人びとと同じように幸福な生活をしたいと望みました。ですがそれは、私の体には合ってはいませんでした」」
p.290 ゲオルク・フォルスターの手紙について
「フォルスターがパリから書き送った手紙は、これまでにときおり、さまざまな箇所を抜粋してまとめたかたちで刊行されている。しかし、それでは何をしたことにもならないにひとしい。というのも、彼のパリからの手紙はひとつの全体をなすものだからである。[……]それらの手紙のほとんどどれもが、冒頭の呼びかけから末尾の署名にいたるまでのあいだに、人生の縁まで経巡ったその経験を、汲み尽くせぬほどに溢れさせていて、それぞれがひとつの全体となっているのだ。」
p.295 フォルスターの手紙の引用
「おそらく、ぼくはもうしばらくここに滞在することになるだろう。[……]どうなるにしても心の準備はできているし、どんなことも厭わないつもりだ。もはや何ものにも縛られてはいず、この世の中に六枚のシャツ以外に気をつけるべきものとて何ひとつない――これこそ、ぼくが置かれている状況の利点というものだ。」
p.304-305 ハインリヒ・ペスタロッツィについて
「ペスタロッツィが比類ないのは、その理論においてよりも、理論のために彼が考え行動しながらそのつど見出す、いつも新たな始動点によって、である。予測もつかず、繰り返しいつも新たな衝撃を与えつつ、彼の言葉は汲めども尽きぬ深みから噴き出してくる。この深みの無尽蔵の豊かさゆえに、ペスタロッツィの最初の伝記作者がペスタロッツィについて述べる際の、次の比喩イメージは、この上なく深遠な意味連関を獲得するのである。「火山のように、彼ははるか彼方にまで輝くを放ち、そして諸大陸において、好奇心あふれる人びとの注意を引きつけ、讃美者たちの目を瞠らせ、観察者たちの研究心を刺激し、博愛家たちの参画を呼び起こした」。それがペスタロッツィだった。――つまり、火山にして野の石。」
このあたりに顕著だが、訳注は過剰で、たとえばあとに出てくる「ロッジア」にも注が付いているが、読書体験に謎や余韻がなくなってしまっていると思う。
p.347-348 Ch.A.H.クローディウスからエリーザ・フォン・デア・レッケへの手紙の引用。
「なんともすばらしいあなたの胸像は、ちゃんと無事にこちらに届き、ロッテの誕生日には、小さな調べの流れるなか、しかるべき場所に置いたのですが、それは私たちにとって本当に礼拝といえるものでした。そして、今日も私たちは、木蔦がからまり、珍しい花に囲まれたその胸像の下に座っています[……]すべてが一体となって調和をかもしだし、それで飾りつけもカンタータも、とても魅惑的でした。すべてがごく慎ましい姿で現れたものですから、それだけいっそう、私たちの陋屋は至福の園になったのです。」
p.356-357 アンネッテ・フォン・ドロステ=ヒュルスホフ(詩人)という二十二歳の女性の手紙について
「その彼女が書いた数々の珠玉のような手紙のなかでも、次の手紙は比類のないものである。子供の頃になじみ親しんでいたものが、飾りでもいい、張り出し窓でも、本でもいい。それが昔のままに変わらずにある姿に、いつか年をとってから思いがけず出会ったとき、それは私たちにぐっと近寄ってくるのだ。この手紙が語っているものは、そうした事物にほかならない。そして私たちは、忘れられてしまったもの――それは昼も夜も私たちの内部に、想起される用意を整えて潜んでいる――への憧れを、新たに感じることだろう。この憧れは、あの幼年の日々を呼び起こすものであるというよりも、幼年の日々の谺なのである。なぜなら、この憧れこそが、幼年時代を作り出すための素材(Stoff)にほかならなかったのだから。」
p.375-376 ユストゥス・リービヒからアウグスト・フォン・プラーテン伯爵への手紙の引用
「でもやはり、ハーモニカが吹けたらなあ、と願ってはいます。そうしたら、ぼくはいまそれを吹き、君はおそらくその音を耳にすることでしょう。その音は君に、ぼくがどんなに心をこめて君を愛しているかを、きっと伝えてくれることでしょう。」
p.379 先のアンネッテの姉、イェニー・フォン・ドロステ=ヒュルスホフから、ヴィルヘルム・ギリム(グリム兄弟の弟)へあてた手紙
「「あなたが水辺を散歩されるときには、いつも明るい太陽の光に恵まれますように、と願っています。」」
p.390 カール・フリードリヒ・ツェルターからゲーテへの手紙の引用
「ところで、ひとりで旅をして、丘陵や山頂を越え、山峡や谷間を通っていくとき、私には君の言葉が思想となります。それを私は、私の思想と呼びたいほどです。」
p.394 「美しいゆったりとした筆致の伝記」という言い方。
p.398-399 ダーフィト・フリードリヒ・シュトラウスからクリスティアン・メルクリーンへの手紙の引用。これはヘーゲルが亡くなった直後のもの。
「[……]最初に考えたことは、さあここを発とう、ヘーゲルがいなくなったベルリンでまだ何をしようというのだ、ということだった。けれども、しばらくして思い直し、それでいまもここにいる。[……]ここでヘーゲルは、たしかに死にはしたが、しかし滅んでしまったわけじゃあない。[……]彼の講義は二つとも聴いていた。[……]彼の講義ぶりは、外面的なことはすべて度外視して言えば、ただもうまったく自分自身とだけ向きあっている感じで、[……]言いかえれば、彼の講義は聴衆に向かって話すというよりも、はるかにずっと、声をともなった沈思というものだった。それで、[……]口にされる文のかたちも、そのときそのときに思い浮かんできたような、不完全なものだった。だが同時にそれは、まったく誰にも邪魔されないというわけではない場所でこそ獲得されるような、そんな思索だった。この思索の運動は、最も適切で最も具体的な形式を与えられ、最も適切で最も具体的な例に則しつつなされた。そしてそれらの形式や例証は、互いに結びあわされ、それら本来の連関のなかに位置づけられてのみ、高次の意味をもつようになるのだった。」
p.422-423 ヨーハン・フリードリヒ・ディーフェンバッハからある未知の人物への手紙の引用
「医者という職業に就き、病気の人たちのために生きてきたこの二十五年間は、私には、まるで二十五週間でしかないかのごとくに、またたく間に過ぎ去った満足すべき年月でした。私の人生は、じつに数多くの苦痛を見続けた、多事多端で心を震撼させられるものではありましたが、とはいえ、そのような人生を経てきたことで、精神にしましたも身体にしましても、疲れたとはまったく感じていません。むしろ、いつも私のまわりにいた多くの患者たちが、私を鍛えて強靭にしてくれたおかげで、次の新たな二十五年に向けてさあやるぞと気持を引き締めているのです。」
p.424-425 ヤーコブ・グリム(グリム兄弟の兄)と弟とが編纂した、『ドイツ語辞典』のなかの、ヤーコブ・グリムによる序文
「「われわれのもっている語彙を一語一語際立たせ、その語義を解明し、そして、不純な要素を取り除いて浄化することが肝要だった。[……]しかし、課題があれば、そのあとには成就が控えており、構想があれば、そのあとには実行が控えている。〈道沿いの地所で家を建てると/たくさんの親方を持たなくてはならない〉。この古い諺から、公道際で家を建てる者がどんな気分になるものかが、感じ取れる。その家のまえに人びとが立ち止まり、[……]ある者は門に、他の者は破風に、何かしら文句をつける。ひとりが装飾を誉めるかと思えば、また他のひとりは塗装を誉めるのである。ところで、辞典というものが立っているのは、言語という天下の街道である。そこには、その言語を用いる無数の人びとが集まってくる。そして彼らは、この言語のことを凡そは知っているが、個々の点についての正確な知識はまったく欠きながら、口々に賛意や誉め言葉を、同じようにまた非難叱責の言葉を、好き勝手に言い募るのである」」。
p.441 クレメンス・フォン・メッテルニヒ侯爵からアントン・フォン・プロケシューオステン伯爵への手紙の引用
「一八五五年になれば多くのことが、今日私が見極めうるよりもずっとはっきりした姿を現わすでしょう。[……]ひとつの季節を越えて、あるいはどれほど長くとも二つの季節を越えて、その先の計画を立てることを、私は決してしません。いつの時も、いかなる状況においても、私は毛布の寸法に合わせてなんとか身を処してきました。そして私の毛布は、古くなるにつれて、古くなった分だけ縮んでゆくのです。」
以下、「一九〇〇年頃のベルリンの幼年時代」
p.479 パノラマ装置について
「[……]遠く離れたさまざまな世界は、子供たちにとって、必ずしも見知らぬ世界ではなかったのだ。遠くの世界が呼び起こした憧れは、未知のものへ誘うのではなく、住み慣れたわが家へ帰っておいでと呼びかけているように思われた。」
p.492-493 都市の中で道に迷うには
「ある都市で道が分からないということは、大したことではない。だが、森のなかで道に迷うように都市のなかで道に迷うには、習練を要する。この場合、通りの名が、枯れ枝がポキっと折れるあの音のように、迷い歩く者に語りかけてこなくてはならないし、旧都心部の小路は彼に、山あいの谷筋のようにはっきりと、一日の時の移ろいを映し出してくれるものでなければならない。」
p.526 動物園、川獺のいたあたりの、未来を語る片隅について
「リヒテンシュタイン橋のたもとにある門が、[……]これは利用者数がとびぬけて少ない門で、また、動物園の最もひっそりした領域に通じていた。ここから入場した者を迎える並木道には、[……]アイルゼンかバート・ピュルモントの見棄てられた遊歩道に似た感じだった。そして、これらの保養地が寂れ果てて、古代ローマの公衆浴場以上に古めかしくなってしまうよりもずっと以前から、動物園のこの片隅は、来たるべきものの特徴をそなえていた。それは予言的な片隅だった。というのも、未来を覗かせる力をもっていると語り伝えられる植物があるが、場所にも、同様の能力をもつところが存在するからだ。たいていは見棄てられた場所であり、[……]誰ひとり立ち留まることのない袋小路や前庭だったりもする。そうした場所では、本来私たちの眼前にさし迫っているものが、すべて、過去のものであるかのように思われるのだ。」
p.536 現在の出来事と未来との関係?
「たとえば、あるひとつの言葉が、私たちの部屋に置き忘れられたマフのように私たちをはっと驚かせる。そのショックがそれである。このマフが私たちに、誰か見知らぬ女がやってきたことを推測させるように、それとは目に見えない見知らぬものを推測させる言葉や間というものが存在する。この、それとは見えない見知らぬものこそ、私たちのもとにそうした言葉や間を置き忘れていった未来にほかならない。」
p.536-537 従兄の死を知らせた父の印象。部屋のはたらき。
「ある晩、私はもうベッドに入っていたのだが、そこへ父が姿を現わした。[……]そのとき父が私にある従兄の死を知らせたのは、おそらく、半ば意に反してのことだったのだろう。[……]父はその死の知らせをこまごまと語ってきかせたのである。[……]父の語ったことすべてが私に理解できたわけではなかった。それに対して、この晩私は自分の部屋を――まるで、いつかある日そのことともう一度関わり合いになるだろう、と分かっていたかのように――記憶に刻み込んだのだった。私は、もうとっくに大人になってしまってから、その従兄が梅毒で死んだことを聞き知った。父はひとりきりでは居たたまれず、私のところへやって来たのだ。といっても、父が訪れたのは私の部屋なのであって、私ではなかった。父にとっても私にとっても、そのとき、親しい人間には用がなかった。」
p.539 よく旅行していた祖母について
「彼女は旅行した先ざきから絵葉書を送ってくれたのだが――それらの絵葉書のどれにもブルーメスホーフ[祖母の住んでいた住所]の雰囲気が漂っていた。そして、葉書の絵の下のほうで戯れていたり、その空にたなびいていたりする大きなゆったりした手書きの字が、絵に描かれている風景がすっかり祖母の棲まうところになっていることを示していたので、それらの地はブルーメスホーフの植民地と化すのだった。」
p.539-540 intimacy、安心感について、同じく祖母の家について
「この住居から放射されていた、ずっと昔からの市民的安心感は、どのような言葉で言い表わせるだろうか?その数多くの部屋にあった家具類には、今日ではどんな古道具屋でも食指を動かしはすまい。というのも、七〇年代の家具は、のちのユーゲント様式のものよりもはるかにがっしりしていたとはいえ――それらに宿っていた他と取り違えようのない特徴は、事物を時の経過に委ね、その未来に関してはもっぱら材料の堅牢さだけに寄りかかって、理性の考量というものをまったく信じようとはしなかった、その惰性的守旧性にあった。ここで優勢を誇った家具は、過去何世紀ものさまざまな装飾を一身に寄せ集めた、その勝手気儘さゆえに、己れ自身の我意とそれらの装飾の持続性とを、いっぱいに詰めこまれたような種類のものだった。そうした部屋には悲惨さの占める場所はありえなかったし、死でさえも同様だった。そこには死ぬための場所が存在しなかったのだ。」
p.542-543 ロッジアについて
「そうした奥の部屋のなかで最も重要だったのは、私にとってはロッジアだった。それは[……]とも言えたし、あるいは、通りの音がここではずっと和らいで聞こえたからとも言え、また、ここからはよその中庭を眺めることができ、[……]たからでもあった。ちなみに、ロッジアに立ったとき、そこに打ち開かれるのは、人の姿よりもずっと多く、声だった。加えてこの区域は高級住宅街で、中庭での種々の営みも、騒がしい動きを見せることは決してなかった。ここでなされる労働は富裕な人びとのためのものだったが、彼らのもつ落ち着きのなにがしかが、この労働そのものに分かち与えられており、週日という地にも日曜日の色彩模様が、いつもいくらか残っていた。だから、日曜日こそロッジアの日なのだった。ほかの部屋はどれも、いわば傷んで隙間だらけになっていて、日曜日を掴まえようとしても漏れ出てしまうので、すっかり掴まえきることは決してできなかった。だが、中庭に面したロッジアは[……]日曜日を掴まえることができた。そして、十二使徒教会とマタイ教会がロッジアに送って寄こす鐘の音のどの響きも、ロッジアから滑り落ちることなく、夕暮れまでここに積み上げられていくのだった。」
p.545 クリスマスの日に
「この日、祖母の住まいに来てから、もう何時間も経っていた。それから、しっかり包まれ紐をかけられた贈り物を腕に、私たちが夕暮れの路上に出ると、建物の入口のまえに辻馬車が待っていて、雪は軒蛇腹や格子垣のうえでは誰にも触れられぬままに白く、舗石の上ではいくらか汚れて積もり、リュッツォ岸通りから橇の鈴の音が響き来たり、そして、ひとつまたひとつと点っていくガス灯が、点灯夫の足取りをこっそり教え、[……]そのとき街は己れ自身のうちに深く沈潜していた。私と私の幸福を包んでずっしりと重くなった袋のように。」
p.550-551 市立の図書閲覧室と、自分の場所について
「水泳プールからほど遠からぬところに、市立の図書閲覧室があった。それには鉄骨組みの二階席が付いていたが、私には高すぎもせず、また、冷たすぎるということもなかった。私は自分本来の活動区域の存在を嗅ぎつけた。臭いが先に流れてきていたからだった。湿っぽくて冷たい臭いが階段吹き抜けで私を迎え、薄くおおう被膜のようなその臭いに包まれて、この図書閲覧室は待ち受けていた。[……]閲覧室に入るやいなや、そこの静けさがすぐに私を元気づけはじめるのだった。」
p.603-604 鉄道での旅行、自分の家について
「いま思い出される家の様子は、いつもとすっかり違っていた。絨毯はくるくると巻かれ、[……]ブラインドの隙間から薄明かりが洩れていた。急行列車の昇降口の踏み段に私たちがまさにいま足を乗せたとき、そのような住まいの様子が、見知らぬ靴底を、かすかな足音を思い浮かばせた。[……]休暇の旅行から帰ってくるときに、私がいつも故郷喪失者になったのは、そういうわけだった。そして、最もみすぼらしい狭い地下室でさえ、そこにはランプが[……]すでに点っており、西区で闇のなかに沈んでいる私たちの住まいと比べると、その地下室が羨ましく思われた。こうして、バンズィーンやハーネンクレーからベルリンへ帰ってきたときには、車窓から見えるあちこちの中庭が私に、ささやかで悲しげな避難所を提供してくれたのである。その場合にも、もちろんこの街は、自分の親切心を後悔しているかのように、それらの中庭を再び懐にしまい込むのだった。」
p.611 自宅で夜会が催されていたときの情景と母の印象
「夜会の刻がだんだんと近づいてくるにつれて、それが昼間には私に約束してくれていたあの幸福感、輝かしさは、次第にヴェールに包まれ霞んでいった。それから母が、ずっと家にいるにもかかわらずほんの束の間だけ、私におやすみを言いにやってくると、いつもならこの時刻に母は私の掛布団のうえになんという贈り物を置いてくれることか、という思いが倍加されるのだった。その贈り物とはつまり、母のためにこの一日がまだ残している数時間についての、あれやこれやの話しだった。私は話してもらったその数時間をかつての人形のように抱いて、安心して眠りにおちていった。私のほうへ密かに[……]母が整え直してくれる掛布団の襞のなかへ降ってきたもの、それがこの数時間だった。[……]この近さを、また、この近さがおまけとして私のほうへ漂わせてくれる匂いを、私は愛していた。[……]こうしているうちに部屋の外から、父が母を呼ぶのだったが、母が出ていくとき、私の心から寂しさは消え、こんなにも輝かしい母を夜会に出してやるのだ、という誇りでいっぱいだった。」
p.619-620 小学校のときの学級文庫について
「これらの本が楽しいものであれ恐ろしいものであれ、退屈なものであれ手に汗握るようなものであれ――その魔力が、他の何かと比べて増えたり減ったりすることはありえなかった。というのも、この魔力は本の内容によるものではなく、それはむしろ、繰り返し私に休みの十五分間の希望を約束してくれる、という点に潜んでいたからである。この十五分のためにこそ、味気ない授業のどうしようもない惨めさが我慢できるのだ、と私には思われた。晩に、翌日の用意をし終わった学校鞄にそうした本の一冊を入れるとき――鞄はこの本を入れるとそれだけ軽くなるのだった」
p.625-626 買ってもらった斜面机について。自分の場所。
「この斜面机にはたしかに、学校机と似たところがあるにはあった。がしかし、それにもかかわらず私がこの斜面机のそばなら安全に護られているということ、また、ここには、学校机などが知ってはならない仕事をするための空間があるということは、それだけいっそう好ましかった。斜面机と私――私たちは学校机に抗して団結していた。そして、私が学校での味気ない一日を終えて、再び斜面机といっしょになるやいなや、この机はたちまち私に新鮮な力を分け与えてくれるのだった。この机のもとで、私はわが棲処にいると感じられたし、そればかりか、中世の絵画に描かれた聖職者たち、[……]彼らだけが知っているような、確かな殻に包まれている、という感じを抱くことができた。[……]一日のうちで最も静かな時間を、あらゆる場所のうちで最も隔絶したこの場所を、私は求めた。そうしてから最初の頁を開いたのだったが、そのとき私は、新しい大陸に最初の一歩をしるす者のような、厳粛な気持に侵されたものだ。」
以下、訳者解説
p.640-641 マルセイユについて、批評することについて
「たとえば都市マルセイユという対象について、ベンヤミンはこう述べたことがある。「この都市からひとつの文を奪い取るのは、ローマから一冊の本を取り出すよりも難しい、と言えるかもしれません」(1929年6月26日付、ホーフマンスタール宛ての手紙)
つまり、文は対象から――湧き出てくるのではなく――奪取しなければならない。[……]それが批評的エッセイの使命、あるいは宿命である。」
p.641-642 モスクワについて。手紙からの引用
「「私の叙述からは一切の理論が遠ざけられることになるでしょう。まさにそうすることによってこそ、あるがままのものに語らせるとができるだろう、と思っているのです。もっともそれは、完全に変革された環境というメガフォンを通して声高に響いている、あのじつに新しい耳慣れぬ言語を把握し書き留めることに、私が成功するかぎにりおいてではありますが。私は現下のこの瞬間にある都市モスクワに、〈すべての事実的なものがすでに理論で〉ある、そのような表現を与えたいのです」(1927年2月23日付の手紙)。」
p.143 繊細な経験、ゲーテの言葉
「「ゲーテの言葉を借りれば〈繊細な〉経験主義者であるこうした人物たちにとって、すべての事実的なものはすでに理論であり……」
そして、ここに引かれているゲーテの言葉を原形に戻せば、こうである。
「すべての事実的なものはすでに理論である、ということを理解するのが、最高のことであるだろう」(『箴言と省察』)」
20201118完