20200912『シャルロット・ペリアン自伝』(北代美和子[訳]、2009[原著:1998]、みすず書房)
これは題のとおりペリアンの自伝で、訳は建築関係の人ではなくちゃんとした翻訳家によるものなので、ふつうに読める。
p.8
「祖父は蹄鉄工だった。馬に蹄鉄を打ちつけ、バルコニーの鉄格子を鋳造した。平日用と日曜日用にヴァイオリンを二丁もち、祭日には歌の文句にあるとおり、若者や娘たちを踊らせた。」
p.24 コルビュジエとの出会い。前川さんと同じく、書籍から。
「フーケは私にぜひとも読むべき本を二冊渡した。ル・コルビュジエとかいう男の『建築をめざして』と『今日の装飾芸術』。目のまわるような驚き。それは未来の前に立ちはだかる壁を私に越えさせた。」
p.28 コルビュジエの事務所について。
「実現はしなかったけれども、注意深く研究された設計案や都市計画に思いを馳せてほしい。それはオブジェそのものを超えて、人間の尺度に釣りあい、人間と調和し、時代と一致する計画だった。なぜならば、結局のところ、それが私たちの仕事なのだから。結果は目に見え、体験される。コンセプトの妥当性が人間を幸せにも不幸せにもする。
人間の巣と、その巣を支える樹木を創造すること。私あちは最後には、それを信じるようになった。最高の学校を卒業した熱意のある若者たちが、ただ建築のためだけでなく、コルビュのために、すべての問題を再提起するコルビュの姿勢のために、そのオーラのために、世界中から集まってきた。」
p.32 インテリアと建築と使用者の関係について。余地。
「人間が幸せであるためには、建築は人間、つまり「使用者」が「自己」を自由に組み入れられる余地を残しておかねばならない。その結果が最高か最悪かは使用者に関わることだ。それを実現するためには、使用者はインテリアデザイナーの先生に助けを求めるのではなく、自分で積極的に行動しなければならない。そのとき、使用者自身がクリエイターとなる。」
p.32 ジャン・プルヴェ曰く…夢、幸せとは……
「「ナンシー行きの列車にのるとき、私の視線は、大規模賃貸住宅がどこまでも続く郊外をさっと見渡す――そこからは通過する列車が未来永劫見えるでしょう。一つの強迫観念。そのあと、愛をこめて育てられた花の咲くこざっぱりした小さな庭のある郊外住宅が、少しずつ姿を現し始めます。私はひとりごとを言います。「ここに住む人たちは幸せにちがいない」」。この言葉は深い沈黙で迎えられた。聴衆にはなにも理解できなかった。
私はサンフランシスコで同じことを考えた。大きな橋を渡ると、すばらしい庭園のなかにチロル風、アラブ風、[……]古代風の住宅が堂々と建っている。私は思った。住民は自分たちの夢をいっしょに運んできたのだ。それは醜いと同時に心を打つ。」
p.33 修行に何年かかるのか、という問題。
「五年間で、私は建築に目覚めた。最初の二年はむずかしかった。進歩があるからこそ、できあいの公式などは存在しないと納得するのにはこの時間が必要だった。ル・コルビュジエは一年もいないでやめてしまう研修生のことを「あいつは新鮮な空気を吸いにきた」と言った。それはほめ言葉ではなかった。」
p.67 1933年のCIAMに参加して。
「ギリシアの地面を踏んで、エピダウルス、スパルタを訪れ、アクロポリスを目にすることができた。
コルビュは言った。「パルテノンを思い出せ。簡素で、清潔で、強烈で、巨大で、荒々しい。優美と恐怖の風景のなかで放たれたあのどよめきを思い出せ」」
p.72 ギリシャにて
「私は孤独のなかでひとつの国、ひとつの瞬間を訪れ、それに浸り、その場所と干渉なしで直接に触れあっているという感じを好む――急がず、そしてとくに他人といっしょにいて気を逸らされずに――慎ましやかに、景勝地にそっと近づき、その源泉にもどり、土地が知ってきたもの、信念、伝説、それを歌いあげてきた詩人を体感し、地面の香り、松脂入りのワインに酔い、オリーブの木陰で午睡を味わう。生きる。死んだものは好まない。だが、黄昏に、夜明けに、小鳥たちの目覚めるときに、神の前でただひとり、この場所に宿る魂を感じるのは好きだ。」
p.89 資本論からの引用?労働者大学で受けた講義について。
「私は、マルセル・プルナンの講義などに出席して不足を補い、学んだことを記憶に刻みこんだ。「弁証法は、自然を、休息と不動の状態としてではなく、動きと永遠の変化、革新、絶えざる発展の状態とみなす。そこではつねに、なにかが生まれ、発展し、なにかが分解し、消滅する」」
p.94 パリ、オスマン期に予定されていた環状緑地帯の話
「一八五九年にナポレオン三世が夢見て、オスマンが実現したこの一九世紀にふさわしいパリには、城塞に沿う幅二〇〇メートルの環状緑地帯が予定されていた。それは城塞の先で、樹木を植えた広い大通りによって、ブローニュの森、ヴァンセンヌの森と接続する。大通りに加えて、郊外地と近隣集落の住民のための散歩道があった。議会は皇帝の留守を利用して、この計画を否決した。なんと残念なことか!」
p.155 日本に行く途中の風景について。
「ふたつのイメージが私を待っていた。私たちは南西アジアを通過する。寄港地はボンベイ、セイロン、シンガポール、キプリングとコンラッドの世界。「このとき、私は東洋の人間を見た。男たちは私を見ていた。私は褐色、青銅色、黄色の顔、黒い瞳、輝きを見た。東洋の群衆の色、そして、これらの人間は私たちを、つぶやきもため息も仕種もなしで、じっと見つめていた……」(ジョセフ・コンラッド『青春』)
pp.159-160 前川國男との上海での再会。
「前川國男は桟橋にいた。前川がアトリエを去って以来、一度も会っていなかった。遠く離れていても、真の友情や仕事で形づくられた共謀関係が弱まることはない。[……]上海での國男との再会は、ひと息のパリの空気のように、心を慰めてくれた。國男は学校を建てるために上海にきていた。」
pp.182-184 装飾芸術と設備の関係。
「続く仕事は、京都の絵画学校での講演だった。仙台と同様に、あらかじめ学生による企画の展示を見ておけるように頼んだ。ここでもまた、装飾芸術の概念にもとづいて使用と技術とを無視しているように見えた教育と闘わなければならなかった。私は装飾芸術という用語を、コルビュにならって「住宅の設備」で置き換え続けた。」
p.184 京都の絵画学校にて
「私は学生の発言を求めた。沈黙……なかのひとりが立ちあがった。[……]「私はフクイイサムと言います。もうすぐ二十歳になります。二年前からこの学校に通っていますが、なにも学んだような気がしません……どうしたらいいでしょう?」[……]指導者は全員、下を向き、柳は内心、大歓びしていた。水に飛びこみ、訳したのは柳。今度は私が当惑する番だ。なんて大胆な!前言を取り消すことも、失礼になることもできない。なんと答えよう?「学校が学生を育成するものだとすれば、学生の確固たる意欲は学校を進化させます」。みんながほっとした。」
p.192 ハイデガーのGeviertのような、日本の祭の配置。引用は、松平斎光『日本の季節祭』1936、らしい
「「マイト」と呼ばれる踊りの舞台は、神座の下方に位置する。「それは五つの方向、東西南北と中央があり、指導者の役割を果たす一本の糸、つまり神の道で結ばれている。
正方形の部屋の四隅に置かれた四本の竹は四方を表し、全世界にほかならない。一方、舞台中央の炉におかれた釜は、その中央、つまり村を示す。
魔法の釜の上に吊るされた正方形のブジャッケは、神々が普段おわす座、空を示す。そこから、神の恩寵が、太陽の光線のように大地の上に広がる」」
p.235 戦中、ナンシー市長になったジャン・プルーヴェへの、ピエール・ジャンヌレの手紙
「「ブラヴォ、プルヴェ。このニュースでぼくの空はすっかり青くなりました。そのあと、いくつかの雲が影を落としたけれど、ぼくは信頼しています。あなたはけっして自分の仕事を放棄はしないだろう。あなたは薄鋼板の、建築の迷路のなかの必要不可欠のリーダーです。」」
p.257 マルセイユのユニテについて、コルビュジエの言葉
「一九五五年、コルビュは住民たちに書いた。「あなた方は鉱脈の上にいます。あなた方の鉱物を採掘するのはあなた方自身です。友情をこめてお願いし、そっとお勧めします……」」
pp.262-263 装飾芸術、設備、芸術。
「コルビュは「装飾芸術」という言葉を「住宅の設備」でおきかえた。私はそれを「住まいの芸術」でおきかえた。それはのちに、一九八五年に装飾美術館で開催された私の個展のタイトル「アン・アール・ド・ヴィーヴル[生きる芸術]」となった。」
pp.308-310 ブラジリアについて。ルシオ・コスタによるパイロット・プランの文章や、新聞のインタビューがあるという。「間違っていたのは私でした」。ニーマイヤーも、ペリアンもそうだが、政治情勢が不安な中でキャリアを積んだ人たちの気質というか態度は、大阪万博以降の日本の建築家のそれとは比較できないくらい違うと思う。
「[……]ブラジリアはおろかに機能的なだけの都市ではない。[……]一方通行のために、バスは出発時、どちらか一方の方向に迂回せざるをえないが、それは旅行者に、都市の記念碑的な軸に最後にもう一度視線を投げかけることを可能にする。あるいは、「ピカデリー・サーカスとタイムズスクエアとシャンゼリゼを適切な割合で混ぜあわせた」(前掲パイロット・プラン)都市の娯楽センターには劇場が集められ、それはヴェネツィアの小道、あるいはところどころにはさまれた中庭でリズムをつけたアーケード街のやり方で、たがいにつながれて、くつろぎ、ぶらぶらと歩き、カフェでおしゃべりができる。大聖堂は遊歩道の一部をなす独立した広場に位置するが、「プロトコルの問題から側面を広場に向けている。教会は国家から分離されているからだが、また建物を引き立てるためのスケールの問題でもある……」(前掲パイロット・プラン)。ほかにもいろいろな心遣いがされている。
[……]コスタは自分の被造物をもう一度見ようとはしなかった。[……]コスタは二十五年後、あるブラジルの新聞に招かれてブラジリアを再訪した。[……]「私は現実にまっこうから対峙しました。ここで私を驚かせたことのひとつは夕暮れどきのバスターミナルです。[……]これは通らざるを得ない通過点であり、都市の外に住むだれもが都市と接触する場所です。ターミナルを見たとき、私はこの動き、このブラジリア住民の濃密な生活、郊外に住み、バスターミナルに集まってくるこの百万の人間を感じました。人びとはわが家にいます。ここはくつろげる場所です。衛星都市に帰るのを遅らせまでして、ここに残り、一杯飲みます。私は人びとの顔の上に、この愛想のよさを読みとって驚きました。一方、ショッピングセンターは真夜中まで開いています。(…)このすべてが、私がこの都市の中心街に想像していたものとはとても違っています。[……]都市を建設し、そこに正統な権利をもって腰をすえた正統なブラジル人たちが、この都市をわがものとしたのです。これがブラジルです……私はそれを誇りに思います。満足しています。そうです。人びとは正しかった。間違っていたのは私でした。ブラジリアは機能し、一日ごとにその機能をさらに強めています。夢は現実には優りませんでした。現実はより大きく、より美しい。私は満足です。貢献できたのを誇りにさえ思っています」(ルシオ・コスタ、前掲インタヴュー)」
p.350 コルビュジエの葬式で
「コルビュは市の安置所に移送されていた。
[……]白いシーツから顔だけが出ていた。ルシオは近づき、両手が見えるようにシーツをなおした。「コルビュの手はとても美しかった」とコスタは言った。コルビュはチャンディガールのために書いた。「両手いっぱいに私は受けとり、両手いっぱいに私はあたえた」
[……]コスタとふたりでラ・トゥーレット修道院に出発し、コルビュが生みの親だったその場所の至福のなか、三人で夜を過ごす。私はコルビュとパリで再会した。セーヴル街の修道院玄関の石段の足下、中世のように壁にかけられた美しいタピストリーの前で。コルビュは短時間、そこに安置され、自分の仕事場とふたたび結ばれた。コルビュはここで人類の幸福のために、自分自身の多くをあたえたのだ。ルーヴルの壮麗な方形宮の中庭が華麗なフィナーレとなった。その夜は寒かったが、天も味方して晴れていた。マルローが追悼演説をした。「さらば、わが古き師、古き友よ。おやすみなさい……さあ、ガンジス川の水とアクロポリスの土を」。」
pp.387-388 マルキーズ諸島への旅行にて
「私たちの航海のしきたりはいつも同じだった。タポロ丸はひとつの湾にはいる。湾は入口が広かったり、狭かったり、湾を縁どる浜の砂は白かったり黒かったり。沖合に錨をおろし、キャッターボートを送り出す。私たちはそれを利用して上陸し、見物する。ピタは友だちになり、よく私たちに同行して、タポロ丸のための食料を仕入れにいき、自分が会う人々を紹介して、この小さな天国の扉を私たちのために開いてくれた。天国はいつも同じ図式をしていた。「行政単位」の村は、海岸と谷に引っこんだ住居を含み、住居は緑と花々のなかに隠れるように散らばる。小鳥がさえずり、約一〇〇〇メートルから二〇〇〇メートルの高さに達する山から水が流れてくる。」
p.440 最後の三段落。
「社会とはそれを構成し、方向づけ、動機づける個々人の意識の果実である。引き受け、予測をしなければならない。新たな考察、探求の道が開かれなければならない。
人気のないメリベルにもどる。一九九七年八月、バカンスの終わり。自分の小さなシャレで、パリに帰れば私には不足することになる静寂、涼しい風を味わっているとき、猫のムスターシュはいつものように夜が明けるとすぐ屋根組みにのぼり、ビュルジャンの頂のうしろに太陽が顔を出す崇高な瞬間を待ちかまえる。ひとつの奇蹟。私が夢うつつでまどろむ箱型ベッド。そこに太陽が温かな光線を降り注ぐ。
新しい一日が始まる。」
[中村:昔の設計事務所にも一年で辞めてしまう人がいるのには親近感が湧きます。設計事務所は辛かったのですかね。
「人間が幸せであるためには、建築は人間、つまり「使用者」が「自己」を自由に組み入れられる余地を残しておかねばならない。その結果が最高か最悪かは使用者に関わることだ。」昨日、群馬の赤岩集落の重伝建に行きましたが、そのような意味で住民が自ら作っていたのは良かったです。]
[門間:コルビュジエのところは完全無給だし、おそらく1年間事務所にいてひとつも実現しないこともあったと思うので、いまの長時間労働の大変さとはすこし違う気はする。]
[中村:ブラックなアトリエ事務所のようだが、本来的に芸術家としての建築家とはそういうものなのか。]