20200130 『構造人類学』(レヴィ=ストロース、荒川幾男など[訳]、1972、原著1958、みすず書房)
読み終わりそうにないので、まだ読みも写しも途中だが、とりあえず第1章の部分だけ以下に記す。
うまく引用するのが難しい、複雑な文章。文と文と間に、あえて説明していない関連がかなり埋め込まれている感じ。たとえばpp.28-29の「無意識的可能性はなにも無際限にあるものではなく、その目録、各々が他のすべてと両立しうるかしえないかという諸関係は、歴史的な発展に論理的な構造を与えるものである。」で、「諸関係」がなぜ論理的な構造を与えるのかは、にわかにはわからない。
献辞 デュルケームの雑誌「社会学年報」について
「その雑誌は実に、現代の民俗学に武備をととのえさせてくれた魅惑的なアトリエであった。われわれがそれを沈黙にゆだね、棄て去ったのは、感謝の念薄きがゆえではなく、その仕事が今日われわれの力を越えていることを悲しくも納得せざるをえなかったためなのである。」
p.iii 「はしがき」。ジャン・プイヨンによる紹介。
「「レヴィ=ストロースはたしかに、社会現象の構造的性格を強調した最初の人でも唯一の人でもないけれども、彼に独特なことは、この構造的性格なるものに真剣にとり組み、そこからあらゆる帰結を冷静にひき出してくるところにある。」」
以下、第1章「歴史学と民族学」。
pp.4-5 まず、民族誌と民族学のちがいについて、歴史学との関係について。民族誌がエトノグラフィ、民族学がエトノロジーとふりがながつけられている。
「民族誌とは人間集団をその特殊性においてとらえて観察し分析することであり[……]、その目ざすところはそれぞれの集団の生活のできるかぎり忠実な復原である、これに対して民族学は、比較という方法によって(また以下に規定さるべき目的のために)民族誌の提示する資料を利用するものである、と。[……]
このようにして、民族学的諸学と歴史学との関係という問題[……]は、次のようにとりまとめてみることができる。すなわち、民族学は現象の通時的次元、つまり時間における現象の秩序に関わるのか――そのとき民族学には諸現象
の歴史を書くことはできない――、それとも歴史学者のようなやり方で研究しようとするのか――そのとき時間の次元は手からこぼれ落ちる、その歴史を明らかにすることのできない過去を再構成しようとすることと過去のない現在の歴史を描こうとすること、一方は民族学のドラマであり、他方は民族誌のドラマであるが、いずれにしてもそれが過去五〇年間の発展過程に両者があまりにもしばしば陥れられてきたジレンマなのである。」
p.9 ボアズ(F.Boas)の言うところの、歴史と民族学との関係。そして、そこから考えられる民族学の方法について
「
歴史に対してボアズはまことにへりくだった言葉で語りはじめる。「事実、民族学者が解明した未開人のすべての歴史は再構成なのであって、それ以外のものではありえない。」そして彼に対して、彼がとにかく生涯の大部分を捧げた文明のあれこれの側面の歴史しか明らかにしなかったではないかと非難する人々には、「不幸にしてわれわれはその発展になんらかの光を投ずるいかなるデータも見出だせなかったのだ」という英雄的な答えをする。しかしながら、この限界がひとたび確認されたならば、一つの方法[……]を確立することが可能となる。慣習について、またそれを実際におこなっている種族の文化全体の中での慣習の位置についての詳細な研究と、近隣諸種族のあいだでのそれの地理的分布に関する調査とを結びつければ、一方ではそうした慣習を形成するにいたった歴史的原因を決定し、他方ではその慣習を可能ならしめた心的過程を明らかにすることができるのである。」
pp.18-19 マリノフスキー批判。観察の細かさが論の構成に反映されていないということか。考察を自身で禁止しているようにも思える。こうした、自明なことしか言わない態度は、おそらく、原住民はわれわれ人間とはまったく異なる、という前提の結果であり、人間として自明なことでも原住民の場合では自明ではない、ということであろう。
「トロブリアンド諸島の原住民が社会における両性の価値およびそれぞれの地位についてもっている観念は、きわめて複雑なものである。[……]つまり、男性は女性には欠けている高貴な徳を具えているとしているのである。このような細やかな観察がどうしてそれとは反対の、次のような乱暴な序論的叙述によって鈍磨されねばならないのであろうか?――「家族が維持されるため、さらにそもそも存立するためには、女性も男性もひとしく不可欠である。したがって、原住民は両性を同じ価値をもち同じ重要性をもったものと見なしている。」この前半は自明の理であり、後半は報告されている事実と合致しない。呪術についての研究ほどマリノウスキーの注意を惹いたものはないが、彼の全著作を通じてたえずくりかえされる命題は、トロブリアンド諸島におけると同様、全世界において呪術は「人間がその成り行きをしっかりと手中に握っていることのできないすべての重要な活動ないし企て」をする場合におこなわれるというのである。[……]
トロブリアンド諸島の男性は次のような場合に呪術をおこなうといわれている。すなわち、[……例をあげて、]そして女性は堕胎、歯痛、腰蓑の製作などの場合。これらのことはたんに「人がその成り行きをしっかりと手中に握っていることのできない」もののほんの一小部分でしかないばかりでなく、その観点からすれば、相互に比較不可能なものだ。どうして腰蓑であって、ひょうたん造りあるいは土器造りではないのか、これらの技術がまことに多く偶然に依存するのものであることは周知のことではないか?」
p.21 歴史家や民族学者の役割。経験の一般化?
「歴史家や民族誌学者がなしうること、また人が彼らに要求しうることのすべては、ある特殊的な経験を一般的、あるいはより一般的な経験の次元にまで拡大し、それによってこれを他の国、他の時代の人々にも経験として近づきうるものとすることである。」
p.27 双分組織を例にあげて。「形式的性格の維持されている関係」というのが「構造」か?
「もしわれわれが双分組織に社会の発展の普遍的な一段階を見ようとするのでも、また唯一の場所、唯一の時に発明された制度を見ようとするのでもないならば、同時にまた、あらゆる双分的制度が共通にもっているものをあまりに多く知っているから、それを、比較を許さぬ一回的な歴史の不規則的所産と見なすことを甘受するわけにはゆかないというのならば、残された道は双分的な社会のそれぞれを分析して、諸規則、諸習慣の混沌の背後に一つの図式――さまざまな場所的・時代的文脈の中に現存し働いている図式――を見出そうと努めるほかなはない。[……]それは、明らかに双分組織をもっている人々にさえ無意識的な、ある相関と対立の関係に帰着する。しかもこの関係は、無意識的なものであるゆえに、そうした制度を知らない人々にもひとしく現前するものでなければならない。
たとえば、セリグマンがかなりの年月を費して再構成しえたニューギニアのメケオ、[……など]は、きわめて複雑な一組織をもっている。[……いろいろな要因によって、]氏族や村落は消滅させられたり、新しい諸グループが生み出されたりしている。しかしながら、この人々は、不断に人も数も分布も変化しているにもかかわらず、同じくつねにその内容は変化しながら、すべての変化を通じて形式的性格の維持されている関係によって統合されているのである。」
pp.28-29 「無意識的可能性の財産目録」。章の最後の文章。
「[民族学の]その目標は、人間がその形成について思い描く意識的で、つねにさまざまなイメージを超えて、無意識的可能性の財産目録を手に入れることにある。無意識的可能性はなにも無際限にあるものではなく、その目録、各々が他のすべてと両立しうるかしえないかという諸関係は、歴史的な発展に論理的な構造を与えるものである。たしかに歴史的発展は予見することはできないが、決して恣意的なものではないのだ。この意味においてマルクスの有名な定式――「人間は自分の歴史をつくる、けれど[以下、p.29]も歴史をつくっているということを知らない。」――は、前半の言葉で歴史学を正当化し、後半の言葉で民族学を正当化していることになる。そして同時にこの定式は、二つのアプローチが分かちがたいものであることを示しているのである。
なぜなら、もし民族学者がその分析を主として社会生活の無意識的要素に向けるのであるなら、歴史家がそれを知らぬとするのは不合理であるだろうから。[……]人間にとって彼らの表象および行為(あるいは彼らのうちのだれかの表象および行為)の結果としてあらわれたものを把握し説明すべく進んでゆくうちに、歴史家は、無意識的作業の一切の装置に援助を求めなければならぬということを十分に、いっそうよく知ることになる。[……]だからして、立派な歴史書はすべて――われわれは一つの大労作を引くことにしよう――民族学がそれに浸透している。『一六世紀の無信仰の問題』においてM・ルシアン・フェーヴルはたえず心理的態度と論理的構造に言及しているが、これは原住民のテキストの研究と同様、資料の研究によっては間接的にしかとらえられないものだ。なぜなら、それは話したり書いたりしている人々の意識からはいつもすり抜けてゆくものだから。たとえば、用語の欠如、尺度規準の欠如、時間表象の不正確、さまざまな技術に共通の性格、等々。これらの表示は歴史的であると同じく民族学的である。というのは、それらは証言をこえ出ているからである。当然のことながら、いかなる証言もこの平面上に位置するものはないのである。」
以下、訳者(川田順造)のあとがき「人類学の視点と構造分析」、p.427-より
p.431 ラドクリフ=ブラウンも「構造」を使っているが、レヴィ=ストロースとは異なる、という話。増田さんのいう構造はこっちか?
「たしかに、ラドクリフ=ブラウンも「構造」という概念を研究の中心においていたし、さらに抽象度をたかめた「構造形」という概念も用いている。しかし、二人の研究者における構造の概念は、共通の平面で比較することができないくらい、異なった基盤にたっているように、私には思われる。」
p.432 ラドクリフ=ブラウンの「構造」について
「ラドクリフ=ブラウンの「構造」が経験的実在にかかわるものであるのに対し、レヴィ=ストロースのそれは、作業上のモデルであるというちがいが、おもにとりあげられている。」
p.434 「対関係」という用語。
p.435 レヴィ=ストロースとラドクリフ=ブラウンの対比。文化の徴候。
「レヴィ=ストロースの方法は、いわば主観を徹底してとぎすますことによって、たとえ量においては少なくても、質において価値の高いと思われる文化の「徴候」を問題にする。」
p.436 グリオールの『水の神』(Marcel Griaule,Dien d'eau:entretiens avec Ogotemmeli)、これはいまは『水の神―ドゴン族の神話的世界』として訳されている、について。前に読んだ、『ラディカル・オーラル・ヒストリー』と同じような方法。
「アフリカにおける世界観の研究で大きな影響をのこしたグリオールは、その主著の一つ『水の神』で、ドゴン族の知識人である一人の長老から、延延とききだした話を徹底して分析することによって、ドゴン族の世界観のある側面をみごとに浮き彫りにしている。」
20200919:『水の神』、借りてみたが、小説風の文体であり、なおかつこの『構造人類学』と異なり著者の解釈が背後にひっこんでいる感じの書きぶりで、あまりおもしろくなく、ほとんど読まずに返した。
p.436-437 レヴィ=ストロースの方法とその問題点について。人文科学の検証不可能性。
「こうした「主観」の洗練と、資料の「質」の重視とは、それぞれの反対の極で問題を提起する。第一には、仮説的なモデルを対象にあてはめたとき、その妥当性はどのようにして検証されるのかということであり、第二には、「質」に重きをおいてとりあげられた資料が、もとの対象のなかでどれだけ数量的な重要さをもっているかどうかである。
[第一の点について、……]ある対象を分析するばあい、モデルとして仮定された構造が、その対象を担って実際に生きている人たちの意識によって、承認されるかどうかということは、モデルの妥当性を判定するよりどころとはならないからである。[これは、……]やはり克服することのできない困難であり、[……]本書の第十一章「神話の構造」は、[……]この困難もわかりやすいかたちであらわれている。レヴィ=ストロースが例にひいているオイディプス神話の神話素への分解とそれら相互の関連づけ、そして二組の矛盾の設定――それは、[……]それが対象に内在する構造であるかどうかは、自然科学の実験のようなかたちでは検証することができない。」
p.443 「親族の基本構造」への、きわめて少数の例で基本構造を述べたことへの批判のあと、レヴィ=ストロースが問題にしていることを説明している。
「彼が問題にしているのは結局、客観的な行動にあらわれたものとしての婚姻ではなくて、社会の成員の「意識のなかに存在する」規範なのであり、そのいわば「意識されたモデル」を手がかりにして、レヴィ=ストロースの論理で考えうる交換の原理をモデル化しているのである。」
p.444 レヴィ=ストロースの神話研究について。最後の文章は、まわりくどい賛美?
「神話の領域では、もはや「意識のなかの存在」が、対象のすべてになってしまう。[……]さまざまな変異をもつ神話群を一括して、神話素相互のへだたりや対立を指標に、かくれた意味を解読するレヴィ=ストロースの方法が、[……そして、その論理が、]はたして対象のなかにも存在する論理なのかどうかを検証する手がかりは、何もないのである。[『神話学』では、……]彼の熱愛するインディオの神話の古びた布切れを、論理記号をつかって丹念につぎあわせ、エキゾチックな花や獣もふんだんにあしらってつくりあげた、奇怪で華麗な緞帳というべきものなのかもしれない。精巧にゆがめられた鏡に似た力をもつ緞帳を前にして、ヨーロッパの人たちは、彼らの意識のそ子にながいこと忘れられたままになっていた、村の教会の古びた鐘の音を思い出し、そのけたたましさの意味をはじめて悟るのである。」