20180707カール・シュミット著、新田邦夫訳『大地のノモス ヨーロッパ公法という国際法における』福村出版、1976年。
はじめに
P4「この本は、まさに一八一二年七月のゲーテの二行の詩句をモットーとしてもっているといってよい。
『些細なものは、すべて流れ去ってしまった、海洋(Meer)と大地(Erde)のみが、ここでは重きをなす』。
なぜならば、この本においては、確定せる陸地(Land)と自由なる海洋について、陸地取得と海洋取得について、秩序(Ordnung)と場所確定(Ortung)について、語られるからである。
目次
はじめに
第一部 序論としての五つの系論
第二部 新世界の陸地取得
第三部 ヨーロッパ公法
第四部 大地の新しいノモスの問題
P2「大地は、神話的な言語において、法の母と名づけられる。このことは、法と正義とについての三重の根源を暗示している。
第一に、豊饒なる大地は、自己自身のうちに、その豊饒さのうちに、一つの内在的な尺度を隠し持っている。なぜならば、人間が豊饒なる大地へ用いている努力、労働、播磨種、耕作は、生長と収穫にとによって、大地から正しく報われるからである。農民はすべて、かかる正義の内在的尺度を知っているのである。
第二に、人間によって開墾された耕作された大地は、一定の分配が明白になる確定せるラインを示している。この確定ラインは、畑、牧草地、森を境界づけることによって、刻み込まれる。しかも、このラインは、耕地と原野とを輪作地と休耕地とを区別し、それにしたがって、植え付けが行なわれ尺度と規則とにしたがって、大地における人間の労働が営まれるのである。
第三に、結局、大地はその確固とした基礎において、垣、境界石、壁、家、およびその他の建造物をになっている。ここにおいて、人間の共同生活の秩序と場所確定は明白になる。家族、ジッペ、部族、身分、所有の種類、相隣関係の種類、さらにまた権力の形成や支配の形式が、ここにおいて、公然と見えるようになるのである。
このようにして、大地は、三重の様式で、法と結合されている。大地は法を、労働の報酬として、自己自身の中に隠し持っている。大地は法を、確定せる境界として、自己自身において示している。大地は法を、秩序の公的なしるしとして、自己自身の上にになっている。法は大地具備的(erdhaft)であり大地に関係する。詩人が完全なに正義なる大地について「もっとも正義なる大地」(justissimatellus)と述べる場合、その詩人は、このことを考えているのである。
海洋は空間(Raum)と法との、秩序と場所確定との、このような明白なる統一をまったく知らないのである。」
・海洋においてはいかなる法律も妥当しない。例として海賊行為
・グラティアヌス法令集(1150年頃)所収のイシドールの語源学による中世的定義
「国際法とは、陸地取得、都市建設、築城、戦争、捕虜の状態、隷属、捕虜の状態からの復帰、同盟、平和条約締結、休戦、使節の不可侵性、外国生れの者との婚姻の禁止である」
P42
「ノモスとは、以後に続くすべての規準を基礎づける最初の測定(Messung)についての、最初のラウム分割としての最初の陸地取得(Landnahme)についての、また根源的分割(Ur-Teilung,Ur-Verteilung)についての、ギリシャ語なのである。」
P48
「これに対してノモスは、ネメイン(nemein)から、すなわち「分配すること」(Teilen)および「生産すること」(Weiden)を意味する言葉から由来する。したがってノモスは、そこにおいて民族の政治的および社会的な秩序がラウム具備的に明白になる直接的な形態(Gestalt)であり、また生産の最初の測定(Messung)と分配(Teilung)である。すなわち陸地取得であり、また、陸地取得に存しそこから生ずる具体的な秩序である。」
P55
「これに対して、トリーア(Jost Trier)の探求は、根源的な言葉の場所確定特性を認識することを再び可能にした。このことは、特に、「棟」(First)や「破風」(Giebel)のような言葉についてあてはまる。また家(Haus)、垣根(Zaun)、限定(Hegung)に関する語群についてあてはまる。「最初に垣根がある。垣根・限定・境界(Grenze)が、深くまた概念規定的に、人間によって形作られた世界に浸透する。限定とは、それが神聖な場所(Heiligtum)を凡俗的なるもの(Gewohnlichen)から取り出し自己の法則の下に置き神的なものに委せることによって、神聖な場所を作り出すところのものなのである」。
限定する圏、人間によって形成された垣根、人間圏は、宗教儀式的、法的、政治的な共同生活の原型である。
1-1
大地には法がある。
海洋には法はなく、自由があった。
海洋帝国の出現とともに海洋においても安寧と秩序、すなわち法が樹立された。
法の原行為は大地に拘束された場所確定。
陸地取得は法を、外部への侵略だけでなく、内なる集団の分割としても基礎づける。
内と外の例
秩序と場所確定との法学者による研究
結論
国際法も陸地取得の歴史である。
「地理上の発見以前の秩序のすべては、・・・本質的には陸地であった。・・・現在までに、唯一の著者のみがこの秘密に接近した。ヘーゲルなのである。われわれはヘーゲルの言葉を、この系論の結びとして次に引用する。「家族生活の原理にとって、大地、確定せる地所が条件であるのと同じく、産業にとっては、外へ向かって産業を活気づける自然的要素は海洋である。」」
1-2 地理上の発見以前の国際法
P22「大地を地理上の発見以前の考えで分割するということから発生したところの共通の法というものは、包括的な連関をもつ体系であることはまったく不可能であった。なぜならば、それは包括的なラウム秩序であることがまったくできなかったからである。」
1-3 キリスト教的中世の国際法につての指摘
前期的国家=ライヒ
p24「十六世紀から二十世紀へかけての、いわゆる近代的な国際法、すなわち国家相互間的なヨーロッパ的な国際法は、中世的な皇帝政および教皇政によってになわれたラウム秩序が解消したということから発生した。かかる中世的=キリスト教的なラウム秩序の広汎な影響についての知識なくしては、そこから発生した国際法についての法史的な理解は不可能なのである。」
(a)ラウム秩序としてのキリスト教共同体
中世の秩序は、民族移動の陸地取得から生じた。
スペイン・北アフリカ:所有者の土地所有の除去
イタリア・ガリア:ローマ帝国からの土地割り当てであり、軍事的客人、駐屯
P27「ヨーロッパ中世の包括的な国際法的な統一体は、キリスト教共同体およびキリスト教的人民といわれた。この統一体は、明瞭な場所確定と秩序とをもっていた。」
(b)抑止する者(カテーコン)としてのキリスト教の帝国
キリスト教共同体は帝権、教権の中に基準を持ち、国の根本体制をローマに結びつける継続性が存在する。
P29「この帝国の継続性において決定的にして歴史支配的な概念は、抑止する者の概念、すなわちカテーコン(Kat-echon)の概念である。この場合、「帝国」は、半期リストの出現、および現在の時の終末を抑止しうる歴史的な力を意味している。」
P34「ドイツの国王のみならずその他のキリスト教徒の国王たちもまた皇帝という称号を受け取り自己の帝国を帝権となづけるおいうことは、また、彼らが教皇から伝道委任と十字軍委任という領域獲得の権原を許されているということは、一層確かな場所確定と秩序に基礎づけられているキリスト教共同体の統一を除去するものではなくて、むしろ強めたのであった。」
(c)皇帝政、シーザー主義、僭主制
ローマ(キリスト)の名前を借りて土地を分割するということ。
「発見」と「先占」という権限は中世には存在しなかった。
P41「新しいラウム秩序は、もはや確固たる場所確定(Ortung)には存ぜず、バランスに、また「均衡」(Gleichgewicht)に存する。」「アナキー」から「ニヒリズム」へ
1-4ノモスという言葉の意味について
(a)ノモスと法律
(b)支配者としてのノモス
(c)ホーマーの場合のノモス
(d)ラウムを分割する根本経過としてのノモス
1-5国際法を構成する経過としての陸地取得
ヨーロッパ国際法は16,17世紀の大規模な陸地取得に基礎をおいている。
陸地奪取がノモスではないが、ノモスは常に土地に関する場所確定と秩序を含む。
「陸地取得という言葉は、・・・ドイツ語の言語用法においては、やっと二、三十年前から周知のものとなってきた。」取得された陸地の分割は、陸地取得によって内外へ向かって基礎づけられた権限の成果と仕上げ。
異なる二種類の陸地取得
p67「すなわち、一つは、既存の国際法的な全秩序の内部において生じ、このために即座に他の諸民族から承認されるものであり、今一つは、既存のラウム秩序を粉砕して、互いに存在し合う諸民族のラウム的な全領域の新しいノモスを基礎づけるものである。」・・・「自由な土地という活動空間が存在するかどうか、また、自由でない土地を獲得するための承認された形式が存在するかどうかが、特に重要なのである。」
つまり、自国内での既存秩序に則って征服することは可能であるが、他国との新たな関係(バランス)を作り上げることは今の時代にはできていない。ということ。
2-1最初の全地球的なライン―ラヤ(Raya)から友誼線(Amity Line)を経て西半球のラインへ―
・ラヤ;ポルトガル・スペイン間の分割ライン:分配的性格
・友誼線:イギリスと植民地の分割ライン:闘技的性格
・西半球のライン:先占を唯一の獲得権限とする
西半球のラインが国家間の戦争のルールを生んだ。
2-2 新世界の陸地取得についてのビトリャによる義認
・16世紀から20世紀まで、ヨーロッパの陸地取得に関する権利は道徳的または法的な質問の対照とはならなかった。
・ビトリャ「インディオについておよび戦争の法について」(de Indis et de jure belli, 1538/9)スコラ哲学的な方法の完全さがある。
・アリストテレスのインディオ=非人間的という論拠は、人間の階層化を作り出す。
・インディオの扱い。「非人間」:18世紀、「下等人間」「上級人間」:19世紀。
・16世紀「隣人」「インディアンたちがわれわれを発見したとしても、それ以上のことはない」(ヘティノ)
・キリスト教的確信が誤認の要因。
2-3 新世界の陸地取得についての法律学的な権原(発見と先占)
(a)新しい領域秩序たる国家
・冠位の宗教的に聖化されたにない手から、主権的な国家領主へ
・フランスは法律学的意識を持った最初の主権国家、(1576年の論文)
・教皇権の終末
・しかしこれは中世の終末であって国家の証明ではない
・国家の領域秩序の成立
P148「国家の歴史的な特性、国家の固有な歴史的な資格証明は、前述の如く、全ヨーロッパ生活を世俗化する点に、すならち三重の業績の中に、存する。第一に、国家は、封建的・領土的・身分的・教会的な権力を、領土支配者の中央集権化する立法・行政・司法の下に置くことによって、自己の内部に、明確な権能を創る。第二には、国家は、教会や信仰上の党派による当時のヨーロッパにおける内戦を克服し、そして、信仰上の国内的争いを、中央集権化された政治的統一体によって中立化する。・・・「領土を支配する者は宗教を支配する」・・・。第三には、結局、国家は、自己によって実現された内政的な統一体の原理にもとづいて、他の政治的統一体に対して、それ自身において完結せる領域―この領域は、外に対しては確定せる境界を持ち、同じように組織された領域秩序には特別な種類の対外関係に入りうるのだが、-を形成するのである。」
・諸人民の法と諸人民間の法
(b)陸地取得の権限としての先占と発見
・ヨーロッパの法律家が、新世界の陸地取得の権限についての問題を、ヨーロッパの問題としては答えず、個々のヨーロッパの陸地取得者相互間の争いにのみ注目している。
・「先占」と「発見」
・先占とは「先占の実効性」とは異なるもの
実効性とは植民地の19世紀以降の国家領域への変質を表す。
P155「かくして、十五、六世紀におけるヨーロッパの人民たちによる新世界の発見は、まったくの偶然ではなく、また単に世界史における多くの幸運な制服遠征の一つでもなかった。かかる発見は、まったく規範主義的な意味での正戦ではなく、新たに覚醒せる西洋合理主義の業績であり、ちょうどヨーロッパ中世に成立したような精神的および科学的な教養の作品なのであった。」
(c)新世界の陸地取得に直面した法学、特にグロティウスとプーフェンドルフ
当時のヨーロッパ国際法の法律家は何をしていたか。
・中世のスコラ主義や法律学の方式を保持していた。
P158「とにかく、あらゆる国家は明示的な条約によって実定的なヨーロッパ公法を創ることを熟慮した。そしてこのヨーロッパ公法は、国家に好都合な現実を実定的なヨーロッパの条約法として安定させることによって、国家に法律学的な優越を与えたのである。」
・もっとも重要な条約や協定、有誼線についての合意のようなラウム秩序を創るところの協定は、秘密のままになっており、口頭の秘密条約の形で取り決められていた。
3-1国家相互間的なヨーロッパ中心的な新しい大地のラウム秩序をになう実体としての国家
(a)国家を基盤にもつ戦争によって内戦を克服すること
・戦争が国家的に権威づけられ組織化されたということは、信仰上の独善つまり、宗教戦争と内戦を克服することができたということ。
ヨーロッパ公法(1713-1914)のグローバルな図式
自由なる海洋(公海)
確定せる陸地
・国家領土
・植民地
・保護領
・ヨーロッパ人に治外法権を認める異国の陸地
・自由に占有しうる陸地
3-4領土の変更
(a)国際法的ラウム秩序の外部における領域変更と、内部における領域変更
(b)ヨーロッパ公法の内部における領域変更
P256「ここにおいて、強大国は指導的である。なぜならば、強大国は、共通のラウム秩序にもっとも強力に関与したからである。この点はまさに、強大国の本質が存するのである。すなわち、強大国という言葉は、一般的に、強力な力のみならず、重要な態様において、既存の秩序-この秩序の中において、強大国たちは、強大国なるがゆえに承認されているのだが―の枠内における抜群の地位を示すのであるから。他の強大国によって、強大国として承認されることは、国際法的上人の最高の形式なのである。」
・強大国の国家保証は、既存のラウム秩序の全構造に耐えうるものであるという意味での承認である。
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忠長のノートには公益という言葉が頻出する。公益が公共に代わる概念であることは確かではあるが、公益というものを考えたとき、いかなる建築が公益的要素を所持するのか。もちろんこれは社会主義的な世界での公益ではなく、自由主義的な世界で公益である。なんとなく手に取った『大地のノモス』には、「(ノモスとは)また生産の最初の測定(Messung)と分配(Teilung)である。すなわち陸地取得であり、また、陸地取得に存しそこから生ずる具体的な秩序である。」とある。陸地の取得は基本的に共同体の存在が根底にあり、内から外への広がりであるから、どんなものであれ建築を建てる行為事態が環境に対して影響を及ぼすのであれば、分配を内包する力を持つものを公益建築と呼べるかもしれない。
そう考えると、良質だと思える商業建築は存外公益建築といえるし、形態を周囲に合わせて統一感を出す町屋も公益建築である。逆にハコもの公共建築における失望感の原因は公益を考えていないことである。。
公益は不特定多数の人間に対して発生するものだから、大人数で公益を実現するとしたら、ある種の意思統一が必要である。逆に一対一の益であれば簡単であるが、どこまでを公とするのかは考えておく必要があるからだ。忠長の建築論に「向こう三件両隣」という話がある。設計する際のスケール決定の手法「掌握」の領域設定の話と思っていたが、実は公益における範囲の話なのかもしれない。
[門間:ここでいう「意思統一」のために使われているのが市民とのワークショップですね。建築設計にとって必ずしも良い結果につながるとは限らないけど、昔は建築家だけが把握していたある種の聖域だった完成後の空間を、民衆に(その本質を大きく捨象した形で)分配するというか。そういえば、宮本忠長は普通に仏教徒ですか?]
[中村:敬虔な仏教徒ですね。仏壇を見てもだいぶ入れ込んでいたように思える。この前ちょうどwのワークショップに参加してきましたが、ワークショップの目的として行政の施主としての責任の回避があると思った。ワークショップに参加する人が、文化的に洗練されているというのもあるし、設計事務所の所員を入れているので、ある種ワークショップを開いた人が想定したものができる。そういう意味で急進的なものをつくる上では戦略的なのかなと。逆に建築家の考えるようなものは現代社会で難しい。]
[門間:なるほど。ひどい言い方をすれば出来レースというかある種自作自演というか。とはいえ方向くらいは指定しないと何も決まらないし、そもそも本質的に意思統一をみんなでやるというのに矛盾があるとは思うけど。]