ゴジラ-1.0に対するサイモン・ペグの意見
ペグちゃんがゴジラ-1.0についてインスタのストーリーで語っていたこと、下手で不勉強ながら書いてみました。すごく大事なことを真摯に語っていて、24時間で消えてしまうのが惜しくて…
いくつかのウェブサイトに取り上げられて議論になった。だから僕が何を言いたかったのかを明確すれば、その主張を否定するか又は受け入れるか議論ができると思う。
僕はゴジラは日本にとってとても重要な国民的シンボルだと思う。ゴジラは、広島や長崎を始めとする第二次世界大戦中の経験をきっかけに 生まれた非常に強力な心理的記(signifier)だと思う。でも、それだけじゃない。明らかに彼は原子爆弾の破壊の現れだ。彼は放射性物質だ。彼を止ることはできない(unstoppable)。彼は甚大な被害をもたらす。また、同時に、第二次世界大戦後の日本人の罪の意識に関する国民的内省の度合いでもあると思う。
暴力的虐待の被害者の多くが苦しむ感覚だ。「これは自業自得なのか?自分たちが招いたことなのか?」と。だから、ゴジラは東京、銀座を攻撃するのであって、アメリカを破壊するような復讐をしないんだと思う。ゴジラは自責(self-flagellation)なんだ。つまり、彼は国民文化の潜在的意識を、実に複雑に
反映したものなんだ。日本人は多くの困難と格闘してきた。そういう面において、彼は映画史において、集団的内省の最も豊饒で興味深い表現のひとつなんだ。皆にとってはゴジラはただのIPで、ただの怪獣で、「ゴジラ」は誰にとってもただブランドを認知させる可能性がある言葉だ。それを一番いい方法で 説明するなら、もしあなたの本当に愛する人がバスにはねられたらって想像してみて。そしてその悲劇に向き合うために、そこで何が起こったのか、その出来事に対する気持ちを美しい歌にして書き、悲しみに対処した。そしたら誰かがそれをダンスヒットにリミックスし、クラブで大流行する。誰もその曲の
本当の意味も、あなたがこの曲を書くことになった出来事や気持ちも体験することなく、踊って楽しい時を過ごした。その甘美なメロディは失われ、まったく別の理由で絶大な人気を博した。そして、想像してみて。そのリミックスをあのバスの運転手が書いたものだったとしたら、って。
ペグちゃんが、ゴジラについて、ゴジラという作品について、こうして日本の歴史や人々の中にある意識から深く理解しようとしてくれてて、それがいかに大切で、それを別の国で作ってただのエンタメとして消費することがいかに文化の盗用になるかってずっと話してきてくれたこと、本当に励まされるんよな