『ジョーカー』
『ジョーカー』を観ました。
『ジョーカー』、精神にかかる負荷があまりにも大きくて、観終えた今とてもしんどい。「居心地の悪さ」でできた鉄の棒でみぞおちを貫かれて、そのまま胃をゆっくりねじ切られるような苦しみが2時間ずっと続く。「もうやめてくれ」と逃げ出したいのに目を離すことが許されない、地獄のような映画だ。
他者の感情に引っ張られやすい人が『ジョーカー』を観るなら、心身のコンディションがいい日を選ぶことをおすすめする。自分は今日けっこう元気なつもりだったんだけど、それでも鑑賞後は外が晴れていることがつらくて、道行く人が笑っていることがしんどくて、ダイレクトに胃が痛くて、きつかった。
映画を観て、比喩でなく体調を悪くしたのは生まれて初めてだ。胃が痛くてしんどかった。加えて精神的にもやられるから、空が青いだけで崖っぷちに追い詰められたような気持ちになった。つらかった。 『ジョーカー』の何が恐ろしかったかって、地続きなんですよ。なにもかもが。『ダークナイト』で畏敬に近い恐ろしさを感じたあのジョーカーは、地続きの現実に生きてた。今日すれ違った人が明日には大量殺人者になっているかもしれない、あるいは自分がそうなっているかもしれない。地続きの狂気。
ああ、こうやって一歩ずつ踏み外していくのか、と思った。その一歩一歩が小さすぎて、やりきれなくて、どうしようもない気持ちになった。踏み外しそうになっているギリギリの人間、本人も気づかぬうちに踏み外している人間、たぶんどこにでもいる。自分の隣にも、これを読む人の隣にも。
『ジョーカー』を観たあと、「もう戻れない」と思った。この映画を観ていない自分にはもう戻れない、元のように世界を見ることができないと。取り返しのつかない経験をしてしまったとさえ思わされる。
でも、他の映画で感じたことのある「もう二度と観たくない」って気持ちは不思議となくて、自分のコンディションが整ったらまた観たい、これからの人生の長い時間をかけて繰り返し観たいと思ってる。あんなに居たたまれなくてやりきれなくてしんどい映画なのに。
「怪演」という言葉はこのためにあるんだろうなとホアキン・フェニックスを見て感じたし、一人の人間が狂いゆく光景の一つひとつがあまりに美しくて気分が悪くなった。ひどい。ひどいよ。
ひと晩経ったら「ゴッサムシティはクソ」に精神が収束しててちょっと笑ってる。
でも、でもね、自分は「"あの"ジョーカーがジョーカーになるまで!」というより、アーサーというひとりの人間の人生として『ジョーカー』を観た。
感想に対して「自分はそう思わなかったな」と感じたら、なぜそう思わなかったのかを考えるようにしてるんですけど、「悪役側の話にテンション上がる人は普通に(精神を消耗せず)楽しめるよ」ってpostに「まじ!?!!?」ってなったの、自分がそもそも悪役側の話という認識で受け取ってないからだわ。
ヴィランのストーリーであり、ヒーロー映画であり、ひとりの人間の人生をたどる話であり、意識的にしろ無意識的にしろどういう比重で受け止めたかによって感想が変わるという感じ。
けさ『ジョーカー』のCMが流れてたからぼんやり見たんだけど、劇団ひとりが「共感してしまっている自分のことも怖くなる」ってコメントしていて、まさに……と思った。
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