『アストロノーツの幻肢痛』本文サンプル
段ボールから出てきたばかりのうさぎのぬいぐるみには、ぎっちりと隙間なく梱包されていた名残がまだ色濃く残り、ところどころが不自然に角ばっていて、毛並みにも乱れがある。まるで朝一番の寝癖のようだ——という考えを打ち消すため、秋澄《あきすみ》は我知らず口を真一文字に引き結んでから厳然と提案した。
「捨てましょう。すぐに」
「えーっ」
秋澄とともに段ボールを囲む社員たちが、悲痛な声を上げる。
オフィスの片隅。空き机を寄せ集めて便宜上ミーティングスペースと呼んでいる、簡素な一区画だった。昼休憩の直前に届いたその荷物を、手の空いた数人が興味津々で開封し、今に至っている。
「捨てるなんて、もったいなくないですか? せっかくクライアントが完成品のサンプル送ってくれたのに」
「そうですよ。どっかに飾りましょうよ。かわいいし」
ねえ?とぬいぐるみに語りかけるように抱き上げたのは、営業事務の田町《たまち》だ。そのまま、毛並みを整えるように撫でている。
「キミもここにいたいよねー。受付の内線電話の横にでも座るかい?」
「受付って……うちのマスコットキャラでもないのに、会社の顔みたいな場所に置いてどうするんですか」
「それはそうですけど……じゃあ、応接室は?」
「もっと駄目ですよ」
「でも、他に置くとこないし」
「他に置くとこないなら、捨てたほうがいいんですって」
「そんなあ」
言い合っている間に昼休憩が始まっていたようで、オフィス全体がわずかにざわつき、浮ついた雰囲気がただよい始める。デザイナーの遠迫《とおさこ》が「なになに」と寄ってきた。
「お、サンプル来たんだ。こいつがそれ? 結構いいじゃん」
「ですよね!」
田町は味方を得たとばかりに応じるが、遠迫が笑顔を向けた先は彼女ではなく、秋澄の渋面だった。
「でもまあ、千代田《ちよだ》先生のお眼鏡には適わないんじゃねえかな」
「お眼鏡って」
揶揄された秋澄は、いよいよ眉根を寄せる。
「確かに、このぬいぐるみのプレゼントキャンペーンのチラシを作ったのはうちだけど。キャラクターデザインには関わってないんだから、この子を制作実績の一つとして応接室に並べるのはちょっと違うでしょう。先方もそれは分かっててご厚意で送ってくれただけだろうから、こうして実物を確認した時点でこの子の役目は終わってる」
勢いよく主張を吐ききって大きく一呼吸すると、その場の全員がなんともいえない表情で秋澄を見つめていた。
「……なんすか」
無言で肩をすくめる遠迫をよそに、田町が目を細めてにんまりと笑う。
「『この子』って」
秋澄の表情がますます苦々しいものになった。
「捨てろだのなんだの言うわりに、カワイイ呼び方。千代田さん、意外とそういうとこあるんですね」
「揚げ足取らないでください。断じて処分すべきだって言ってんですよ俺は」
「もー、ほんと容赦ないなあ。こんなにふわふわで、かわいいのに」
田町の言葉を混ぜっ返すのは遠迫だ。
「千代田の容赦のなさはすごいぞー。打ち合わせの時の詰め方なんかエグいんだから。俺たまにガチで怖《こ》えー時あるもん」
「まあ確かに、容赦なく物事を切り捨てる強さも必要ですけど。仕事では《﹅﹅﹅﹅》、ね」
最後の一言をことさら強調して、田町はぬいぐるみを胸元に引き寄せた。
「じゃあ、責任持って私が引き取ります! もちろん持ち帰っていいかどうかは崎村《さきむら》チーフに相談しますけど、許可が出たら自宅で大事にしますから。それなら文句ないですよね、千代田さん」
「……そういうことなら、どうぞ。俺が口出しすることじゃありません」
「やった!」
一緒に帰ろうね、と既に我が物のようにぬいぐるみと顔を見合わせる田町を見やり、秋澄は小さくため息をついた。
——そんなもの持って帰っちゃって、どうすんだよ。
秋澄が勤める広告制作会社は、チラシやカタログにパンフレット、新聞広告から特設ウェブサイトまで、宣伝や広報にかかわる様々な物を作るのが主な仕事だ。案件の規模に合わせてライターとデザイナーがチームを作り、クライアントとやりとりを重ねながら制作を進めていく。秋澄はライターを務めており、キャッチコピーや記事本文の執筆はもちろん、制作物全体のアイデアスケッチを描いたり、先方と方向性をすり合わせたりといったディレクション業務も兼任することが多い。夏のセールの時期や年末年始のイベントシーズンなど、時季によって業務量にはかなり激しい波があるため、忙しい日にはゆっくり昼食をとることもままならないが、今日のように比較的余裕があるときは、ぬいぐるみの処遇をめぐってやいのやいのと騒ぐことだってできる。
午後の業務を終えた秋澄はつつがなく家路につき、終業時刻から一時間後には自宅にたどり着いていた。電車で一本の距離にある単身者向けのマンションは、駅が近いわりには比較的閑静で落ち着いているところと、徒歩の距離に書店があるところを気に入って選んだ物件だ。
玄関ドアを開けてリビングに入り、電気をつける。通勤用のリュックを下ろして洗面所に踵《きびす》を返し、手洗いとうがいを済ませる。ここまでは年中変わらない、体に染みついた手順だ。そして、
「……暑《あ》ちいな」
独りごちてリモコンを手に取り、エアコンに向けた。暦の上では既に九月の末、秋分の日もとうに過ぎているというのに、じっとりと汗ばむ日がまだまだある。数年前までは、電気代が高くつくのではとおっかなびっくりでエアコンを使っていたが、今はそういったことも考えなくなった。何物も健康には代えられない。
電源がついてから冷房が効き始めるまでには少し時間がかかる。シャツの首元をつまんでぱたぱたと風を送るようにしながら、秋澄は何気なくキッチンカウンターに目をやり——その表情をさっと曇らせた。
花が萎《しお》れている。
細めの花瓶からすんなりと伸びる茎には、かろうじて力強さが残っていた。しかし、その先に膨らんだ青紫色のつぼみはもはや自重を支えることもできず、うなだれるように垂れ下がっていて、萼《がく》に近い部分は茶色く染まりつつあった。見るからに、傷んでいる。
秋澄は顔をしかめて、花瓶からその花々を抜き取った。思わずため息が漏れる。資源ゴミの日に捨てるつもりで台所の隅に積みあげていた古紙の束からチラシを数枚つかんで、茎ごとくるみ始める。真ん中あたりで茎を折って長さを半分にすれば小さくまとめられると思い至ったが、ただ折るというよりは《へし折る》と表現できそうなその行為を想像するだけで、どうにも気が引けた。
リンドウは秋の花だと教えてくれたのは、買い物ついでになんとなく立ち寄った花屋の店員だった。何かお探しですか、と朗らかに話しかけられた秋澄は、特に用はないと返すのも申し訳なく感じて、話の接ぎ穂を探すように応じたのだ。
「えー……っと、今の時期だと、どういうのがいいんですかね」
「そうですねえ。お好きな花とか、ありますか?」
「あ、いや……すいません、あんまり詳しくなくて……」
謝ることはないですよ、と店員は笑い、店頭に並んだ切り花の一つを指さした。
「じゃあこれですね。リンドウっていって、今の時期にちょうどいいんですよ。綺麗な紫色の花が咲きます」
「へえ」
差し出されたそれは、濃い青紫色のつぼみをいくつもつけていた。そのほとんどが紡錘型に膨らんでいて、もう少しで開きそうだと素人目にも分かる。
——どんな花が咲くんだろう。
「……これ、花瓶にさしておくだけでいいんですか。何か他にやることは……」
訊ねた瞬間に気恥ずかしくなった。これではまるで、もう買うと決めたかのようだ。しかし店員はここぞとばかり食いついてくるでもなく、気さくに応じる。
「そうですねえ。水はこまめに替えてください。リンドウは暑さに弱いし、直射日光に当てすぎるとよくないかな。そこだけ気をつけてもらえれば大丈夫です」
納得顔で頷く秋澄に、店員はにっこりと続けた。
「ほんとに綺麗な花が咲きますよ。楽しみですね」
——そして今、リンドウのつぼみは花開いた姿を見せることなく、チラシにすっかりくるまれようとしている。
リンドウは暑さに弱い。店員の忠告が脳裏によみがえる。きちんと聞いていたつもりだったが、思えば大した対策もとらずにいた。観測史上まれにみる酷暑で、秋というには暑すぎる日々に辟易していたではないか。自分は帰宅するたび家中にこもった熱気を確かに食らっていたのに、花瓶に活けた花々は日中ずっとその熱気に包まれているのだということに考えが及ばなかった。
「……ごめん」
言葉そのものの意味に反して、言い訳をするように声はか細く軋んだ。そろそろ冷房も効きはじめ、快適な室温になってきたはずなのに、罪悪感と後悔が背中にじっとりとまとわりつく。
——やっぱり俺は、花やら生き物やら、そういうのを持つのに向いてない。
後ろめたさを覆い隠すようにチラシを折り返すと、ちょうどそこには家族連れの広告写真が印刷されていた。新作のキャンプ用品を手に、行楽の秋を楽しもう、と笑う親子。その笑顔の下から濡れた茎の水分が染み出て、黒っぽくにじんだ。
「……はい、ではこちらで見直しまして、あらためてご連絡しますので」
チーフの崎村《さきむら》が受話器を左耳に押し当てたまま、見えない相手に向かって頭を下げている。秋澄は一つ息を吐き、隣席の遠迫と顔を見合わせた。声に出さずとも、視線だけでやりとりは完了する。この仕事をしていればさして珍しくもない、よくある状況だからだ。二人を尻目に続く崎村の言葉も、お決まりのそれだった。
「えーっと……そうですね。できるだけ早めにお送りしますので。はい……あー、今日ですか。今日中、にお返事できるかどうかは、ちょっ……と、なんとも言えないんですけども……」
遠迫が「今日中なわけねえだろ」と野次《やじ》る。もちろん、隣の秋澄にしか聞こえない程度の小声だ。秋澄がパソコンモニタの隅に表示された時計を見ながら応じる声も、同様に低い。
「というか、あと五時間で終わりますからね、今日」
「こりゃ二十三時の特番は厳しいか。録画で観るしかないな」
「遠迫さんの好きなアーティストが出るんですっけ」
「よく覚えてんじゃん」遠迫の声に明るさが宿る。
「新曲をテレビで初披露すんだよ。あの番組、いつもカメラワークが凝っててさあ。MVとも違う雰囲気で、いい感じに演出してくれんだよね」
「へえ……」
歌番組のカメラワークなど気にしたこともなかった、と秋澄が内心驚きながら相槌を打ったのを見透かすように、遠迫は笑った。
「最近は、みんなスマホ片手にテレビ見ながらSNSで実況するじゃん。『今のワンショット良かった』とか『なんでここであのメンバーを映さないんだよ』とか」
「ああ、見たことあります。ネット見てたら時々流れてきて」
「だろ? 生の反響がリアルタイムで届くから、アーティストだけじゃなく、番組にとっても一秒一秒が勝負なんだと思うわ」
大変だろうけどファンとしてはありがてえよなー、とのんびりした口調で続ける。「作り手の気合いが感じられるものって、やっぱ面白いからさあ」
目線の先では、崎村がまだ眉を下げて受話器に謝っている。
「そういうのを追いかけるの、楽しそうでいいですね」
「まあね。――千代田はそういうの、いないよな。《推し》みたいなの」
言いながら、遠迫は自身と秋澄のデスク上を見比べた。遠迫のパソコンモニタの足下には、希少動物をデフォルメした数センチ程度のカプセルトイや、アメコミ映画に登場するロボットのフィギュア、華やかな衣装をまとう女性アーティストが印刷されたアクリルスタンドなどがこまごまと並んでいる。卓上カレンダーにも同じアーティストが印刷されていて、弾けるような笑顔がこちらを向いており、にぎやかなことこの上ない。
対して、雑貨がいっさい存在しないのが秋澄のデスクだ。モニタの下の空間には無地のペントレーが置かれているだけだし、卓上カレンダーは取引先の印刷会社からもらったノベルティで、企業のロゴがプリントされている以外は何の装飾もない。その卓上カレンダーでさえ、物の少ないデスクの上では最も目立つ物の一つといって差し支えなかった。
「なんか、ミニマリストって感じだよな」
「そんなことはないですよ。家は大して片付いてるわけでもないし、人並みに物があるし」
「そうなん?」
俺のごちゃごちゃしたデスクと比べたらみんなミニマリストに見えるってだけかぁ、と遠迫はおどけた口調になる。
「でも、勝手なイメージだけど、千代田は断捨離とか得意そうだわ。こないだの販促のぬいぐるみのこととか見てると」
「いや……」
秋澄は、慎重に言葉を選んだ。
「……苦手ですね。そういうのは」
ふうん、と遠迫が軽く口を尖らせたその時、崎村が「すいませーん」と声を張り上げて手を叩いた。いつの間にか電話を終えている。
「ヤマナギビューティーさんのカタログに関わってる方、会議室に集合お願いします。筆記用具だけ持って。ちょっと作戦会議」
「はーい」「きたかあ」「一分だけ電話してきていい? 夫に連絡を……」「どうぞどうぞ」メンバー達がめいめい状況を察知して会議室に向かう。秋澄も、手元のリングノートとボールペンを掴んで、遠迫とともに立ち上がった。
仕事の情報共有の場で、もったいぶることに意味はない。スケジュールが差し迫っているなら、なおさらだ。集まった十人弱の面々に、崎村は淡々と告げた。
「先ほど僕が電話してるのが聞こえてたかとは思いますが、えー、結論から言うと、来週入稿のカタログが全とっかえになります」
うげえ、とこぼしたのは遠迫だが、それは会議室の全員が思い思いに発した声と一緒くたになり、濁った塊のような音になった。そんな中にあって秋澄は一人、冷静に「全とっかえって」と疑問を口にする。
「具体的には、何を何に差し替えるんですか」
崎村は頷く。
「今回のカタログで、全商品を対象にしたキャンペーンをやるでしょ。それの内容を見直すことになったそうです。……例の炎上で」
ああ、とどこからともなく声が上がった。
一週間ほど前のことだ。ヤマナギビューティーにとって同業他社にあたる人気コスメブランドが、とある美容成分について法律で定められた基準を大幅に逸脱する量を使用しており、安全性に問題があることが判明したと大きく報じられた。その成分が偶然にも、ヤマナギビューティーが売りにしている美容成分と全く同じものであったことは、秋澄をはじめ全員が把握している。キャンペーンのタイトルにも、内容説明にも、その成分名が繰り返し登場するからだ。
「このカタログの制作が始まったのは炎上の前だから、問題なかったんだけどね。ここ数日の報道を見ていて、ヤマナギビューティーさんとしてはやっぱり無視できないという結論になったそうです。こちらは法の基準をきちんと守っているけど、成分名を聞くだけで『安全性に問題ありってテレビでやってた、あれのこと?』って不安になってしまうお客さんが一定数以上いるだろうから、前面に押し出すのはやめようと」
報道によって付いたイメージを払拭するのは難しい。こちらに責がなくとも、時間をおくほかに手立てがないこともある。
メンバーの一人が慎重に声を上げた。
「じゃあ、キャンペーンのタイトルを変えて、カタログに出てくる成分名入りの文章も全部書き換える感じになりますかね」
「そうだね。機械的に置き換えるだけだと文章の意味が通らなくなるかもしれないから、一ヶ所ずつ丁寧に見ていこう」
数十ページのカタログ全体にわたって修正が必要となることが確定し、自然と重くなったムードを断ち切るように、崎村は胸の前で手を合わせて笑む。
「大変だけど、全員で乗り切りましょう。まずは僕と何人かで修正点の洗い出しをするから、一旦みんなは晩ごはん食べといで」
その言葉を解散の合図に、メンバー達はがやがやと立ち上がり、会議室から退出していく。秋澄と遠迫も、その後に続いた。
秋澄は、バジル風味サラダチキンの真空パックと梅おかかのおにぎり、インスタントの豚汁を手に取った。先にレジに向かう遠迫は、有名店のロゴが踊るインスタント担々麺に、プロテイン入りヨーグルトと野菜ジュースを抱えている。
「お願いしまーす。あ、袋は大丈夫です。はい、クレカで。……とりあえず今日は終電だなぁ」
「でしょうね。何人かだけでも早めに帰せたらいいですけど」
『暗証番号を、にゅ——』クレジットカードの案内音声が言い終わる前に迷いなくボタンを押し始めながら、遠迫は「てかさ」と苦笑する。
「蓋を開けてみれば特番どころじゃなかったな。あーあ、なにがカメラワークだよ、熱く講釈垂れちゃってさ。恥《は》ずっ」
「別にそれは恥ずかしいことじゃないでしょ」
「どうかな」
『カードを、お取りくだ——』「はいよ」
端末の音声に軽い口調で返事をして、遠迫は商品を受け取る。「あざっす」
秋澄がレジカウンターに商品をごろごろと下ろし、「袋は不要です」「クレジットでお願いします」と半ばテンプレートじみた問答を店員と交わす間に、遠迫は素早く社用スマートフォンを取り出していた。社内の連絡に使っているメッセージアプリを開き、新着通知がないか確かめている。
「さすがにまだか。カタログ全修正だもんなー。崎村さんたち大丈夫かな」
「大丈夫でしょう。こういう土壇場の修正には慣れてるから」
『暗証番号を、入力してください』
「慣れたくて慣れたわけじゃないけどな」
「それはそうですけど」ビジネスに締切という概念が存在する以上、その直前でのトラブルも避けては通れない現実だ。
『カードを、お取りください』
秋澄は端末からクレジットカードを抜き取り、一つため息をついた。
「まあ、やるしかないですね」
オフィスに戻った秋澄と遠迫は、そのまま給湯スペースへ直行した。各々買ってきたインスタント食品のビニール包装を剥がし、具材や味噌の小袋を取り出しては代わる代わるお湯を注いでいると、背後から声がかかる。
「お疲れですー」
「おー、仁井野《にいの》。何買ったん」
「えっと、『肉一・五倍!! メガ盛りねぎ塩豚カルビ弁当』っす」
「やべえな」
「若すぎ」
ひときわ大きなチルド弁当のラベルをはきはきと読み上げて笑うのは、ライターの仁井野だ。今年の四月に入社したばかりの新人だが、専門学生の頃にインターンとしてこの会社に出入りしていたうえに、誰にでも気負いなく話しかける人懐こい性格も作用して、既にすっかりメンバーの一員としてなじんでいる。
「若すぎって、そんな変わんなくないですか? 俺とお二人」
「いや、変わるよ。少なくとも俺は、この時間にメガ盛り豚カルビは無理だ」
「この時間だからこそですよ! 今からもうひと踏ん張りするんだから、がっつり食べないと」
「その発想が若いんだって」
遠迫と苦笑しつつ、秋澄は仁井野に電子レンジの扉を開けてやる。
「そうだぞー。てか見ろよ千代田を。サラダチキンだぞ、サラダチキン」
苦笑いの矛先が、今度は秋澄に向いた。
「なんだよ。別にいいでしょ」
サラダチキンのパウチを手に取り、これ見よがしにその場で開封する。鶏むね肉を柔らかく蒸してハーブで風味をつけたそれは、どのコンビニでもプライベートブランドの商品として年中販売されているため品切れの心配もなく、調理不要ですぐに食べられる。秋澄が夜食によく選ぶレパートリーの一つだ。
「なるべく体に良さそうなもの食べとこうかなと思うと、これになるんですよ」
肩をすくめて、立ったままかぶりつく。
「わかるわー。ガチガチに食事制限すんのは無理だけどさ、少しは健康的なもんを……ってなるよな。遅い時間の夜食だと特に」
「とか言って、遠迫さんは担々麺食べてるじゃないですかぁ」
「よく見ろ仁井野。副菜にプロテインヨーグルトと野菜ジュースを買ってるだろうが。タンパク質と食物繊維、最強の布陣だろ」
「最強の布陣ってよりは、必死の帳尻合わせっぽいですけどね」
これも若さの成せる業か遠迫の言葉を軽快にいなし、仁井野は「ま、この時間から食ってる時点で何選んでもダメかもですね」と人好きのする笑顔でまとめた。
社会全体でワークライフバランスの見直しが進み、目に見えて働き方の改善は進んでいるものの、この業種において残業をゼロにするのは難しい。毎日定時で退勤して栄養バランスの取れた健康的な食事を摂るという生活は、全くの夢物語とまではいかずとも、軽く茶化したくなる程度には現実離れした理想だ。
「……というか」
秋澄はサラダチキンを頬張りながら続けた。
「家でもちゃんとした食事なんてできてないな。料理は得意じゃないから」
「分かる。俺は掃除がそうだわ。ついつい『明日でいいか』ってなっちゃって」
口をへの字にする遠迫に、仁井野はなんでもないような表情で言った。
「うち、便利家電みたいなやつ導入しましたよ」
「便利家電? ロボット掃除機とか?」
「そうそう。あと、単身用の食洗機も買いました」
「まじ? CMでやってるあれ?」
「あれです。便利ですよー。もう食洗機なしの生活には戻れないかも」
「へええ。いいなぁ」
仁井野はいかにも今どき世代といった価値観の持ち主で、便利な最新機器や月額サービスを取り入れることに抵抗がない。一人暮らしの身で食洗機を買うのを分不相応だと思うこともないようだった。ただしSNSをはじめとして、インターネットで情報収集するのを欠かさず、一つひとつ慎重に、レンタルサイトで試してから買うのだという。
「レンタルか。考えたことなかったな……」
ほとんど空になったパウチを手に呟いていると、遠迫《とおさこ》が「家電レンタル自体は使ったことあるよ、俺」と応じる。
「ライブ行く時に高級双眼鏡を借りたな。二泊三日で」
「遠迫さんの推しのライブですか?」
「そうそう。広い会場だとハイテク双眼鏡が役に立つんだよ」
遠迫は左右それぞれの手で筒を作り、目元に当てる。
「ライブ中って客のほうも曲に合わせて跳んだりするし、目当ての演者が花道に走ったり、トロッコで外周をまわったりすんのを目で追わないといけなくて、まあ忙しいわけよ。そもそも、ステージが遠いとほとんど見えないし。そこへきてお高い双眼鏡を使えば、どれだけ後ろの座席からでも演者の表情までしっかり見えるし、防振機能もついてるから、遠くを捉えても全然ブレねえの」
「なるほど」
「そっか、遠迫さんの推しって、デカい箱でトロッコとか乗る系なんだ。じゃあ防振は必須ですね」
無難に頷く秋澄を尻目に、仁井野は彼なりの筋道を立てて納得したようだ。
「そう、必須なんだよ。でも高級双眼鏡って普通に買うと十万くらいするから、適当に選ぶわけにもいかないじゃん。付け焼き刃の知識じゃ、どの機種にすればいいかも分からんし。じゃあ、一旦レンタルでいいかーって」
「ははあ、そういう使い方もあるのか」
「実際アリだと思うよ。毎日使い込む物なら思い切って買うに越したことはないけど、たまにちょっと使うだけなら、その都度最新機種をレンタルするのはコスパいいと思う」
「借りてみて、それを気に入ったら買えばいいわけですし」
「そうそう」
先ほどと打って変わって意気投合した遠迫と仁井野は、それぞれに借りた製品の長所など言い合って盛り上がり始める。それを横目に秋澄は、頭の片隅に付箋を貼るように「レンタルか……」と独りごちた。
「——入稿しました!」
「よっしゃあ」
「おつかれー!」
「やっ……と終わった……」
両手を上げて思い切り背中をそらすと、オフィスチェアの背もたれがぎしりと鳴った。同じような音があちこちから起こる。完成した広告のデータをデザイナーがとりまとめて印刷所に納品する、いわゆる入稿作業が滞りなく完了して、ヤマナギビューティーのカタログ案件がやっとゴールを迎えたところだ。
「はい、今回もお疲れさまでした!」
ひとつ手を叩いて皆を労うのは、チーフの崎村だ。さすがに疲労の色は隠しきれないようだが、それでも入稿日が近づくにつれ部下たちの服装が着古したパーカーだのジーンズだのと全体的にくたびれた無頓着なものになっていくなか、ひとり襟付きシャツに薄手のカーディガンという清潔感あるスタイルを貫き、柔和な笑顔を崩さないあたり、経験によって培われたタフさを感じさせる。
「直前の変更などもありましたが、みんなのおかげでなんとか乗り切れました。あとは致命的な誤植やらがない限り、大丈夫でしょう」
入稿前の最後の校正を一部担当した遠山が「たぶんなんもないはず……」と呟く。上野は「うん、助かりました」と笑顔を向けてから、
「——よし。みんな今日はさっさと帰ろう! 緊急のメールが来てないかだけチェックして、あとは明日でいいよ」
ほんとにお疲れ、と朗らかに添えた。
「じゃ、お先に失礼します」
「おつかれー」
会社が入っているオフィスビルの外に出てみれば、秋口の夕空はまだ明るい。それでも季節の変わり目を主張するような涼しい風は心地よく、通りを歩くスーツやオフィスカジュアル姿の人々は、まっすぐ帰るのを惜しむかのように連れ立って路面の飲食店や商業ビルに吸い込まれていく。しかしそれを横目に眺める秋澄の頭に浮かんでいたのは、正反対の考えだった。
「……さっさと帰るか」
秋澄にとって定時上がりとは、早く家へ帰れること以外の意味を持たない。世の人々が帰宅中に飲み食いに興じることを否定する気持ちは全くないが、さりとて強く惹かれもしないのだった。しかも今日は入稿前のトラブルを乗り越えた末、数日ぶりの定時退勤だ。どうせ飲むなら、家でゆっくり飲みたい。そういうわけで、一直線に駅へ向かって足を進めながら、脳内で計画を組み立てていく。
帰ったらまず風呂に入ろう。いや、今日はそんなに暑くないし、米を洗って早炊きでセットしてからでいいな。おかずはスーパーで買って帰るとして——。
帰宅ラッシュで人口密度の高い電車に揺られ、最寄り駅のホームに降り立ってからも段取りのシミュレーションは続いたが、スーパーの酒類コーナーにたどり着くと単純な高揚のほうが勝った。最短で買い物を済ませることは一旦忘れて、酎ハイやハイボール缶、一粒ずつキャンディ包みされたスモークチーズに、食べ応えのありそうなビーフジャーキーなど、思いつくままカゴへ入れていく。
「しょっぱい系だけじゃなくて、甘いつまみも欲しいな」
空腹のときに食料品店へ来てはいけない、という教訓めいたポップソングを聞いたのはいつのことだったか。秋澄はふらりと菓子コーナーに足を向ける。棚に並ぶカラフルなパッケージを品定めしていると、実際に飲んでいるときよりも、飲むために買い出しをしている時間のほうが好きかもしれないとさえ感じた。目を留めたのは、発酵バター使用などと書かれたスティック菓子と、いかにも酒に合いそうなチーズスナック。そこで思い出す。
「……いや、おかずだよ、おかず」
入り口近くの惣菜コーナーにとって返し、野菜サラダと回鍋肉《ホイコーロー》のパックを一つずつ選んで足早にレジへ向かった。
米炊いて風呂、米炊いて風呂、と頭の中で繰り返しながら玄関のドアを開けた秋澄を出迎えたのは、換気を怠った家に特有の、わずかにこもった空気だった。
一瞬だけ顔をしかめてリビングダイニングの電気をつける。キッチンと繋がるその部屋が明るく照らされてみれば、なんともいえない雑然とした雰囲気が露わになり、秋澄は肩を落として調理台に買い物袋を下ろした。
もともと秋澄は家事が得意なほうではない。洗濯に炊事など、一人暮らしの社会人として最低限はこなすものの、仕事が立て込めば途端に手が回らなくなって、床の隅には埃が薄く積もり、チラシや公共料金の通知ハガキがソファに散らばり、ゴミ袋は膨らんであふれかける。山場を超えたことで、まるで我に返ったようにそれらが目についてしまった。空腹と、目の前の光景を天秤にかけることしばし。
「……米炊いて掃除して風呂、だな」
秋澄は観念して腕まくりをする。
炊飯器の蓋を開けながら額の裏に蘇ったのは、家事家電を導入したという仁井野の「もうこれなしの生活には戻れないかも」という熱のこもった言葉だった。
『千代田秋澄様、会員登録ありがとうございます! 初回ご利用限定クーポンをお送りします』
パソコンのモニタの右上に、新着メールの通知が表示される。それを横目で確認した秋澄はステンレスのタンブラーを傾け、唇を湿らせる程度にハイボールを含んだ。
「……一ヶ月で三千円か。意外と安いな」
眉間に皺を寄せて見つめる画面には、家電レンタルサイトの検索結果が表示されていた。無事に掃除と風呂を済ませ、夕飯を食べ終えた秋澄は、パソコンを立ち上げて「家電 レンタル」というキーワードで検索をかけたのだった。
「……これかな」
あたりをつけたのは、「いいもの賢く、オトクに試そう」とのキャッチフレーズが軽やかに踊る、小綺麗なウェブサイトだ。加湿器やプリンター、一眼レフカメラに美容家電まで、さまざまな電化製品が手頃なエントリーモデルから最上位機種まで揃っていて、貸し出し日数あたりの値段とともに表示されている。
思った以上に幅広いラインナップに目を回しそうになりながらも、秋澄はひとまず目的の《ロボット掃除機》のカテゴリを選択した。すぐさま、コマーシャルでよく見かける、丸くて平たい形のロボットたちがずらりと並んで表示される。一番人気は一ヶ月レンタルで三千円、センサーで部屋の形を感知して移動しながら汚れを吸い取ってくれる、ごく標準的なタイプだ。予算を上げれば、同時に水拭きまでしてくれる上位機種も候補に入るらしい。
「……丸型だけじゃないのか」
メーカーによっては、三角おにぎりを平たくつぶしたような形のものや、四角に近いものもある。角の部分が部屋の隅のホコリをうまく吸うそうだ。
さらに画面をスクロールさせると、大仰な充電ステーションを備えた機種がいくつか見つかった。一抱えほどもあるそのステーションは、単にロボット掃除機を充電しながら待機させるだけでなく、掃除機本体が集めてきたゴミを自動で収集するらしい。ステーション内部のタンクにゴミを圧縮してまとめるため、ゴミ捨ての頻度が低く済み、管理が楽になるとのことだった。
「いろいろあるんだな。せっかくだし、高いやつを試してもいいか……」
目新しいものが選び放題で、しかも片手には酒。この状況に、最低限の機能さえあればいいという当初の考えはさっそく霧散した。秋澄は我知らず前のめりの姿勢になり、あれやこれやと気になる機種のページを開いて品定めを始める。
「掃除機自体、ずいぶんと進化してるんだな」
楽しくなってきた秋澄はさらに脱線し、ロボット掃除機ではなく旧来の——人の手で握り抱えて操作する《掃除機》のカテゴリも見てみることにした。
「まあ、平日は帰りが遅くて無理でも、休みの日に試せばいいし」
もはや完全に本末転倒な言い訳をしながら、圧倒的なパワーでどんなホコリも逃さないと謳う海外製の高級掃除機などを眺める。紙パック不要のサイクロン式、いわゆる本体のないスティック型、とにかく軽さと取り回しやすさ重視のコンパクトタイプなど、これまた選択基準が様々で面白い。
ふうん、と頬杖をつき、ロボット掃除機の一覧に戻ろうとしてメニューを開いたときだった。秋澄の視線は、すぐそばの文字列に自然と吸い寄せられた。
「……『人型ロボット』」
そういえば、少し前から見かけるようになってきた気がする。いかにも人工物といった風情の作業機械ではなく、人間に近い外見と質感を持ち、作業の効率を上げるというよりは精神的に寄り添う目的で導入されるロボットを。超大型の家電量販店でデモ機が展示されているのを見たこともあるが、特に立ち止まることもなく流し見するだけだった。到底手の届く値段ではなかったし、それに——
「人型なんて、捨てるときどうすんだよ」
秋澄は、普段からぬいぐるみや人形が得意ではない《﹅﹅﹅﹅﹅﹅》と公言してはばからない。嫌いなのではなく、むしろ逆で、物に思い入れを抱きがちだし、人や動物を模したものに感情移入しすぎるのだ。ポストに入っていた自治体の広報チラシを捨てる時も、時間を割いてこの一枚を作ったスタッフの努力を勝手に想像し、申し訳なく思う。そこに地域の子どもたちの写真など載っていればなおさら心苦しい。捨てることや手放すことは他者にとっての不義理だ、という強迫観念のようなものがある。人型ロボットなんて、とても自分の手には負えない。
それでも画面から目を離せず、たっぷり考え込んでしまったのは、酒の勢いもあったし、仮にレンタルならば契約期間の終了とともに強制的に回収され、忍びないなどと後ろ髪を引かれる余地もないのではないかと想像できたからだった。カテゴリ名の下には、簡単な紹介文が添えられている。曰《いわ》く——
『優れた人工知能を備え、家族のようにあなたと過ごします。扱うのに特別な知識は必要なく、普段の話し言葉で指示を与えられるから、お掃除や花の水やりなど、簡単な家事もおまかせ!』
「……あ、家事もやってくれんの?」
最後の文言のおかげで、人型ロボットを借りる大義名分が生まれてしまった。もともとロボット掃除機を探していた身だ、掃除を任せられるのは無論ありがたいし——なにより、
「花の水やりか……」
否応なく脳裏によぎったのは、ぐったりと萎れた青紫色のつぼみだ。可燃ゴミの日に新聞紙ごと処分してしばらく経つが、苦々しい罪悪感が消えてなくなったわけではない。枯れてしまう前に何かしてやればよかった、という後悔に、目の前の宣伝文句がぴたりとはまる感覚があった。そうなれば、もう《ロボット掃除機》のページに戻る選択肢など無いも同然だ。
新品よりも幾分安い《整備済み品》をクリックしたのは、なけなしの自制心が働いたおかげかもしれない。まだまだ一般市場に浸透していないこともあってか、表示されたモデルは少なかった。自分の性格上、異性よりは同性の型のほうがいいかと当たりを付ければ、それだけで候補は二機種まで絞られる。落ち着いた中年男性といった風貌のタイプか、秋澄と同年代くらいと思われるタイプ。
ヒトは目の前に二つの選択肢を提示されると、どちらかを選ばなければいけないような気がしてしまうものだ——秋澄にとってこの法則は、広告を作る職業柄、基本中の基本として頭に叩き込まれたものだったが、
「どっ……ちかというと、年が近いほうが気楽でいいか……?」
仕事の場を離れてしまえばなんのことはない、秋澄自身にも十分に作用した。
整備済み品とはいえ、それなりに値が張るから、あまり長期間借りるわけにはいかない。かといって、ライブで使う高級双眼鏡のように数日レンタルした程度では、あっという間に期限が来てしまって、何の検討もできないだろう。それに、秋澄は平日にフルタイムで出勤している身であり、ロボットと接する時間は平日の夜と土日だけだ。焦らずに過ごせる程度の日数を確保しておきたい。
「……よし。じゃあ、二週間だな」
片手で傾けたままのタンブラーの水面が揺れて、秋澄は自分が笑ったことにやっと気付いた。酒をおかわりしたわけでもなし、なぜこんなに高揚しているのかよく分からない。ただ、スーパーで食材や菓子を選ぶのとは違う、もっと大きな変化の予感が胸の奥底で膨らんでいるのを感じる。
秋澄は、急かされるように注文フォームを埋めていく。氏名、住所、電話番号。レンタル期間の《二週間》は指さし確認しながらチェックを入れ——景気づけとばかりに勢いよくハイボールを飲み干して、「注文確定」のボタンをクリックした。