SNSやブログ等にネガティブな話を書かない理由
いやな記憶を定着させたくない
書いて反芻し、推敲して反芻し、折に触れては読み返して反芻し……と繰り返すうち、どんどん記憶が定着していく
ただし、特定の出来事を頭の中で何度もなぞってしまっておさまらない、というときは、棚卸し(あるいは厄落とし)の意味でどこかにアウトプットするのもあり?
そうするとしても、後に残らない形でやるほうがいい気がする
他人に口頭で話すとか
ポストイットに書いて捨てるとか
一晩経ったらツイ消しするとか
後に残るとどうしても読み返したくなるものなので
書いても前向きになれない
(書いて)気持ちが楽になる、(読んで)共感してスカッとする、というのは感情の値がマイナスから0に戻るだけで、プラスにまではなっていない感覚がある
特定の出来事が原因でマイナスから抜け出せなくなっている場合には、まず0に戻すというステップが必要になるから、吐き出すのはあり
でもこれはもはや心理療法の領域であって、素人がSNSでやるのは難しい気がする SNS等をどういう場として認識してるかにもよる?
「SNSをそういう用途に使ってもいい」と思う人ももちろんいるよね
でも私はそう思わないし、ことサイトに関してはポートフォリオとして使うと決めてる
ポートフォリオに過去のいやな出来事を書く、という選択はない
味をしめたくない
そもそも、いやな出来事は起こらないのがいちばんいいはず
でも、「いやな出来事がネタになる」と知ってしまったり、よもやそれで承認を得たりしてしまうと、ネタのために「いやな出来事を欲する」ようになる
何か起きるたびに「いやなこと起きた!」「はいこれもいやなこと!」と飛びつく癖がつく
そういうことを繰り返してると、 「不快」の閾値がどんどん下がっていくと思う
短期的にみれば「ネタが増えておもろいじゃん」と思えるけど、長期的に・総合的にみると人生の質は落ちてるのでは?
さらに、いやな出来事によって承認を得ることが常態化すると、周りからも「いやな出来事に遭遇すること」を期待されるようになる
人生がコンテンツ化する
いやな出来事に遭う→「キター!」
いやな出来事に遭わない、いい出来事が起こる→「ツマンネ」
めちゃくちゃきつくない?
コンテンツ化した人生の責任を、他人はとってくれない
もちろん、「もうネタにでもしないとやってらんない」「一周して面白くなってきた」という場合もある
でもそれは緊急対応的な心の動きだから別の話だし、
あくまで本人が選択することであって、他人が勝手にしていいものではない
ちょっと話がずれてきたかもyuyuko.icon
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yuyuko.icon以下、思い出話(フェイク入れてます)。
twitterを見ていたら、友人がトラブルに遭ったとツイートしたので、「だいじょうぶ?」とリプライを送った。 そしたらしばらく後に、その子が「ほとんどみんな笑ったりネタにしたりしてて、心配してくれたのはわくだけだった」みたいなことを言ってて、恐怖に近い感情がわいた。
確かにその子は明るい性格で、日々のできごとをおもしろおかしい話に昇華する能力があるし、じっさい事態が落ち着いたあとにみずから笑い話としてツイートしてはいたけど、でも、その子がまさに困ってるときに私以外誰も「だいじょうぶ?」って声かけんかったの??? なんで??? こわいんだけど??? みたいな。
だからどうというわけでもなかった(その子の「わくだけだった」発言にも他意があったわけではない)けど、上記の考え事をつらつら書き出してたらふとこのことを思い出したのでメモしとく。
まずは「だいじょうぶ?」と訊く自分であり続けたいなと思う。