自虐と褒めについて考える
数年前から「自虐をやめよう」と心がけて生きてるんだけど、最近はやや考えが変わってきた。
「自虐をやめよう」という心がけさえも意識せずに生きられるようになったらいいよね。
もっと楽に、「自虐するのも自由な選択の一つだけど、したくないなら別にしなくていいよ」くらいの感じ。
人間には自虐する自由もある。
「自己肯定こそが善」「自虐は悪」「自虐はすべきでない」というのも一つの押しつけでは? と思う
コミュニケーションの一つとして自虐を選択しただけの人に、「そんなに自分をおとしめないで!」とか「あなたは素晴らしい人なんだから自虐なんてしなくていいのよ!」とか、勝手に"解放"してさしあげようとするのもそれはそれで邪悪に感じる
自虐イコール自己肯定感のなさの表れ、という決めつけ?
相手が見えてない
コミュニケーションが成立してない
自虐には、サバイバル術としての側面がある。
他者から貶されてダメージを受ける前に、先攻のターンで防御、あるいは牽制として自虐しておく
これは、なくなってほしい自虐のひとつ
でも、残念ながらまだまだなくならない……
このタイプの自虐に出会ったとき、責めるべき対象があるとすればそれは自虐した人ではない
悪いのは、その人に自虐を強いた場の雰囲気や、場を支配した人や、その他もろもろのほう
コミュニケーションにおいて、「初対面の相手とうちとけるには、自虐が鉄板」というのもまた事実
失敗を話すことで親しみやすさを喚起する
このタイプの自虐は、自己卑下とはまた違うものなので、あっていいんじゃないかなあと思う
ただし、内容による
失敗談と自虐はイコールではないとも思うので、そこの掘り下げも必要だなーとか
「自虐」の定義が必要(今気づいた)
では、どういう内容の自虐なら、コミュニケーションツールとして有効なのか?
属性にともなうものは、あんまりよくない気がする
e.g. 性別、出身地、国籍、年齢 etc.
「この年で○○しちゃった」
「××するなんて女子じゃないよね」
選択にともなうものなら、比較的よさそう?
e.g.
こんな天気なのに傘を持ってきちゃった(or 置いてきちゃった)
お昼をカップ麺にしちゃった(or めちゃくちゃ高いフレンチにしちゃった)
傘を持ってくること・お昼にカップ麺を食べることそのものの是非ではなく(そもそもこれらに良いも悪いもない)、自分の選択のちぐはぐさがメインになっている……気がする
「人を褒めるなら、その人が生まれ持ったものではなく、選択したものについて褒めるべし」という定説にも通じる。
「鼻が高くていいね!」だと、鼻が高いことをコンプレックスに思っている人には褒め言葉として届かない
「その服いいね!」だと、その人が選択したものを肯定することになるので、褒め言葉として届きやすい(たぶん)
ただし、染めた髪色だと思って「その髪色いいね!」と褒めたら、本人にとってはコンプレックスである生まれつきの色だった……ということもありえる
さらに当然ながら、生まれ持ったものでも褒められると嬉しい、という人もたくさんいる
要は相手と場合によるので、褒めるポイントは慎重に選んだうえで、「自分の褒め言葉(のつもりだったもの)が相手を嫌な気持ちにさせることもある」「その場合にはきちんと謝る」ことを常に念頭においておく
「嫌な気持ちにさせたらごめんね(でも私はとても素敵だと思ったんだよ)」と、言葉ではっきり添える
そもそも、「自虐をやめよう」は自分のモットーであり、人に強要するものではないよね。
じっさい社会生活で実行できる解決策としては、相手が自虐したときに「それはやめるべきだ」と迫るのではなく、「わたしはそう自虐しなくても大丈夫だと思うよ」とそっと添えるくらいが落としどころかなーと思う
ていうか、「自虐をやめよう」と自分に課すこともそろそろやめてもいいのかも。
「自虐しなくても大丈夫だよ」って、他人にだけじゃなくて自分に言ってもいいじゃんね
#言葉選び