必要ない人
2016年に、何週間もかけて書き進めていた文章。後で整理する。
c.f. 苦手な人と付き合いを続けることは消極的な自傷行為である
/icons/hr.icon
「この人は自分の人生に必要ない」と、冷静に判断できるようになった。ここ数年のことだ。
これができなかった頃は、あの人も大事だこの人も大事だと両手いっぱいに抱え込んで、あっけなくキャパオーバーになって混乱し、本当に大事にしなければいけない人が誰だったかも、大事にすべきことの優先順位もわからなくなり、けっきょく何もかもをぼろぼろと取りこぼしていた。
嫌われることが怖かった。自分に自信がないので、拠りどころを他者からの評価に置くしかないのだ。そうなると必然、他者からのマイナス評価ひとつがイコール自分の立ち位置、ひいてはアイデンティティそのものを揺るがすことになってしまうのだ。
となれば、自分は世界の誰からも嫌われてはならない、ということになる。誰を軽んじることも許されない。誰からの悪意も、受け流すことを許されない。
言われていちばん嬉しい言葉は、「一緒にいて楽しい」「話していて愉快」「いい子」「いい人」、このあたりだった。たとえば、Aさんが「わくはいいやつだね」と声をかけてくれたとする。その瞬間に、その言葉こそが自分を支えてくれる支柱になる。自分は『いいやつ』なんだ。Aさんがそう言ってくれた。保証してくれた。とても心強い。けれど、自分自身がひょろひょろのまま支柱だけに頼りきって成長してしまうと、とても危うい。そのAさんと仲違いした瞬間に、支柱を失うからだ。
自分という軸をしっかり育ててきた人なら、支柱がなくてもまっすぐ立っていられる。1人ふたりに嫌われた程度で、イコール「自分は『いいやつ』じゃないんだ、だめなやつなんだ」とはならない。自分の良さを裏付けるものを、自分の中に持っているから。けれど、その裏付けを持っていないわたしは、1人から嫌われたという事実だけで容易に、足場を失ったような状態になる。
この「嫌われた」という認識も、厄介だと思う。距離をおかれることと嫌われることは、本来はイコールじゃない。今の自分ならそう思える。でも昔の自分はそうロジカルではいられなかった。「『いい人』という評価をくれなくなる」=「支えてくれなくなる」という意味では、距離をおかれるのも嫌われるのも似たようなもんだから、区別がつかないのだ。自分で書いていても思うが、かなり傲慢な考え方だ。嫌われたくないと怯えている割に、なにより勝手で自己愛に満ちた物差しで価値判断を続けていたもんだと思う。
「嫌われる」から「否定される」に言い換えれば、もう少しはっきりするだろうか。自分の軸を持って、自らの足で立てている人にとっては、1人に距離をおかれるのはただそれだけの事実、その相手個人とのことでしかない。でも自分の足で立てなかった昔の自分にとっては、距離をおかれることはすなわち自分そのものを否定されることだった。まともに立っていられなくなることだった。自分を失うことだった。だから怖かった。
だから、わたしを嫌っている人からさえも好かれようと、無駄なあがきを続けていた。もちろんそんなんうまくいくわけがなく、当然のごとく自爆し、そのたびに、もうだめだ、なんでうまくいかないんだ、と悲しくなっていた。
そういう感じでドツボにはまりつつあった自分が変わり始めたのは、ポジティブなパワーをくれる人とだけ関わるようにしてからだと思う。
当時のわたしは、自分を嫌っている人(少なくともプラスの感情を持っていない人)とも人間関係を保ち続けていた。穏やかじゃない接し方をされても、見下されても、苦行のように友人/フォロー/フレンド登録を続けていたのだった。「自分の悪いところに気づかせてくれるから」とかいうマゾっ気のありすぎる理由で。
まず、そういった人と距離をおくことにした。SNSのつながりを解除して、その人たちが話題になっている場には近づかないようにした。喪失感はあったけれど、やりすごした。画面を閉じて他のことをしたり、おだやかに話せる友人とやりとりしたり、あたたかいものを飲んで深呼吸したりして。
喪失感といってもたぶん、その人たちと距離をおいたこと自体が悲しいわけではなかった。みずから距離を置いたことで、「選り好みしない自分」「誰のことでも好きになれる自分」「誰とでも仲良くやれる自分」を失ったのがつらかったんだと思う。当時のわたしは、そういうステータスでしか「いい人」を証明することができなかったから。
とはいえ、「誰とでも仲良くやれる自分」を失ったと悲しんでいるってことは取りも直さず、それまでの自分が誰とでも仲良くやれていると信じていたってことでもあるので、本当、うぬぼれにも程があったなあと思う。重要なのは相手とどう接しているかであって、SNSでフォローしているかどうかとか、そういう表面的な点ではないのに。
唯一後悔しているのは、自分を嫌っている本人だけでなく、「『自分を嫌っている人』と仲が良い人」とも何人か距離を置いたこと。とにかく、ネガティブな思考や悲しい気持ちを呼び起こすものはなんでも遠ざけるようにしたので、巻き込み事故というかなんというか、そういうこともやった。その人たちとは機会があればまた話したいと思っているけど、どうすればいいかわからなくて、そのままになっている。謝りたいけど、相手からすれば良くも悪くも謝られるようなことじゃないのかもしれないよな、とも思う。
さておき。人間関係を見なおして残ったのは、話していて楽しい人、嫌なことを忘れさせてくれる人、嫌なことを考えているときに前向きな結論へ導いてくれる人、などなどだった。
「(なんで自分はああだったんだろう)」とか【過去】を【内向き】に振り返るのをやめて、「どうしよう色々思い出しちゃってすごいつらい、助けてくれ」みたいに、取り敢えず【今】のつらさを【外】に出力するようにした。
そういうふうに意識して助けを求めるようにしたら、ちゃんと助かるようになってきた。日本語がおかしいけど、本当にそんな感じだった。
「(なんで自分はああだったんだろう)」みたいな考えは、だいたい着地点があやふやだ。たとえばAという過去のやらかしがあったとして、「なんでAみたいなことやっちゃったんだろう」っていくら転げまわって懺悔したところでAという事実は消えないからだ。懺悔ポイントが100貯まれば過去のやらかし1つがなかったことに! みたいなのがあればいいけど、そうはいかない。しかも、あれもつらかったこれもヤバかった、と他のことまで芋づる式に思い出されて、止まらなくなる。やろうと思えば一晩じゅう続けていられる。
けど、今そのときのつらさだけを出力すれば、そこまでの大惨事にはならない。「Aのことを思い出してつらい」というのが現状だとして、A自体はもうどうしようもなくても、「つらい」という感情だけなら、なんとかなる。