「昼間の仕事」
けっこうな頻度で、「好きなことを仕事にできたら最強」説と「好きなことこそ仕事にしないほうが幸せ」説がぶつかるのを見かける気がする。
個人的には、この議論の本質は「好きなことを仕事にすべきか、そうでないか」というより「手にした仕事をいかにして好きでい続けられるか」なのではないかなーと思う。
より正確に言葉を選ぶなら、「手にした仕事をいかにして嫌いにならずにいられるか」。
だって、好きなことを仕事にできたとしても、その後いろんなしがらみに直面して、今まで好きだったことそのものまで嫌いになったらそれは不幸なことでしょう。
そして、とくべつ好きでもなんでもない物事を扱う仕事に就いたとしても、それを嫌うことなく穏やかに働き続けられるなら、それは一つの幸せの形と言って差し支えないはず。
自分は今、昔から好きだった「文章を書くこと」に関わる仕事をしていて、人から「よかったね」「すごいね」と言っていただくことがちょこちょこある。
そう言ってもらえること自体はありがたい。確かにこの仕事に就けたことは幸運だし、人との出会いに恵まれた結果だと思うし、「よかったね」とポジティブな言葉をかけてくれるその人の心遣いにも感謝したい。
けど、時に「(好きなことを仕事にするのは、そうでない場合より尊いことだから)よかったね、すごいね」というニュアンスをも受け取ることがある。そういうときは、「ありがとうございます」と返しながらも胃のあたりがもやもやする。
仕事として「すべきこと」に責任を持って取り組む人を、自分は尊敬する。それは、昔から好きだったことを仕事にしていようが、そうでなかろうが関係ない。「仕事をがんばる人は素晴らしい」という価値観が、「その仕事がどういう性質のものか」によってぶれることはない。よね?
だから、「好きなことを仕事にすることこそ最良であり、そうでない働き方より尊い」というのを前提にして褒められると「それは違うのでは……?」と思う。でも対面で話してるときに水を差すみたいになるのもあれだし、そもそも会話における瞬発力がないので、毎回もやもやしながら「いやいや……」とか言って終わる。 うまく伝えたいな。これこそ、言葉を使う仕事をしてる者の責任、な気がする。
c.f.
その時のぼくに、高校生と大人の違いは何かと聞いたなら、 たぶん大人は生活のために稼がなくちゃならない、と答えていただろう。 間違いだ。ほんとうの違いは、大人は自分自身に責任を持つということだ。 生活費を稼ぐのはそのほんの小さな一部にすぎない。 もっと大事なのは、自分自身に対して知的な責任を取ることだ。
もしもう一回高校をやりなおさせられるとしたら、ぼくは学校を 昼間の仕事のようにあしらうだろう。学校でなまけるということじゃないよ。 昼間の仕事のようにやる、っていうのは、それを下手にやるってことじゃない。 その意味は、それによって自分を規定されないようにするってことだ。 たとえば昼間の仕事としてウェイターをやっているミュージシャンは、 自分をウェイターだとは思わないだろう。 同じように、ぼくも、自分を高校生だとは思わないだろうね。 そして昼間の仕事が済めば、本当の仕事を始めるだろう。 岡田育 / 『我は、おばさん』発売中(@okadaic)
(承前)うまく言えないんですけど、もう「それ専業で食えてるフリ」はやめたほうがいいよな、と思うことはある。日本国内とくにみんな隠したがるじゃないか。どう考えても計算合わないのにね。「私は陶芸のアーティストよ、役所勤めで生計を立ててるの」みたいな順番の自己紹介でいいと思うんですよ。