独立家のための勇気の言葉
ブッダ(中村元 訳 法句経より)
旅に出て、もしも自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道伴れにしてはならぬ。愚かな者を道伴れとすることなかれ。独りで行くほうがよい。孤独で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。―――林の中にいる象のように。
白川静(遊字論より)
私が学界の少数派であるという批評については、私から何も申すことはありません。多数派とか少数派とかいうのは、頭数でものを決める政党の派閥の考え方で、大臣の椅子でも争うときに言うことです。学術にはなんの関係もないことです。学会にはほとんど出ませんから、その意味では少数派ですが、そもそも私には派はないのです。詩においては「孤絶」を尊び、学問においては「孤詣独往」を尊ぶのです。孤絶、独往を少数派などというのは、文学も学術をもまったく解しない人の言うことです。(中略)学問の道は、あくまでも「孤詣独往」、雲山万畳の奥までも、道を極めてひとり楽しむべきものであろうと思います。
北大路魯山人(料理王国より)
型から始まるのも悪くはないが、自然に型の中にはいって満足してしまうことが恐ろしい。型を抜かねばならぬ。型を越えねばならぬ。型を卒業したら、すぐ自分の足で歩き始めねばならぬ。同じ型のものが、たくさん出ても日本は幸福にならぬ。山あり、河あり、谷ありで美しいのだ。しかも、山にも、谷にも、一本の同じ杉の形の木も、同じ寸法の花もない。しかも、その花の一つ一つは、初めは同じような種から発芽したのだ。芽を出したが最後、それらのものは、皆それぞれ自分自身で育ってゆく。
宴会的な飾る食物ではなく、身につく食事、薄っぺらなこしらえものではなく、魂のこもった料理、人間一心の親切から成る料理、人間を作る料理でなければならないと思うのである。料理も芸術である、と私がいい続けている理由も、実はここに存するのである。
栄養食というものは人間が自己の欲求して止まぬところの美味。これを素直にとり入れ、舌鼓打ちながら、うまいうまいと絶叫し続けるところに、おのずと健康はつくられ、栄養効果が上がるのである。
まずいものはなんとしてもうまくならぬ
出す相手と場合に応じて、それ相応のもてなしをすることは、単に雑煮だけに限らず、何事においても必須条件である。
養老孟司(虫は人の鏡より)
この世は苦であり、世界の理解は、苦とともにある。苦しまなければ、真の理解はない。
各幡唯介(狩りの思考法より)
私と狩りに出たとき、イラングアはたしかにそこに海豹がいるかは「ナルホイヤ」だといった。このナルホイヤは、わからない、偶然に身をゆだねるほかない、という未知を未知として受けとめるナルホイヤであるが、同時にその偶然に処す態度のなかには、もしかきたらあそこにはいるかもしれないという必然性も胎動していた。というのも長年の狩りの経験から、イキナに昼寝海豹がいなくても、その対岸の小島近辺にはいるかもしれない、という知識が彼にはあったからである。私はイキナの麓しか昼寝海豹の居場所を知らないので、そこにはいなかった時点で、今年はウーットはいないと判断した。しかし地元猟師であるイラングアは当然のことながら私の知らないイキナ以上の猟場を知っていた。だからこそイキナが不発だった後に双眼鏡でその出没地を観察したのだし、一頭目の狙撃に失敗した後も、「もう少し奥に行くか?」と私に提案したのである。そして結果的にはたまたま海豹がそこで寝転んでいて、彼はその一頭をしとめることができた。この必然でもあるような偶然。土地との調和。一体化の感覚をもたらすのはこうした必然に転換されうる偶然ではないだろうか。
何度もいうように、経験の蓄積がなく、単に鉄砲をかついで流浪して獲物をしどてもそれは単なる偶然で、一回こっきりの出来事にすぎず、その偶然のなかで生きたことにはならない。しかし経験の蓄積があり、そこが<いい土地>だと知ったうえで、最終的にそこにいるはずだ、という偶然に懸けるとき、人はその偶然のなかに生きることになる。なぜなら、その偶然の内部には、自分の足でかせぎ、時間と労力をかけた結果とひてそこが<いい土地>であることを知っている、というその人自身のプロセスそのものが内在しているからである。その瞬間だけでなく、それまでの営為と努力が実り、獲物がとれることで生きることが許される。それは土地から狩猟者への祝福以外の何物でもない。
過去のプロセスの帰結として今という瞬間があり、その今の次なる展開として未来が開ける。このような自然な時間の流れが、その土地が提供する獲物との出会いという全一瞬に凝結する。そのような狩りに成功したとき、人はこの土地により生かされているとの調和の感覚を手にすることになる。
偶然の出来事は私の意志では制御できない。おのれの意志とは無関係に私の運命を決定する何かに、最後は自分の未来を賭けるよりほかない、というのが狩猟者という存在である。
糸井重里(2023/4/5の今日のダーリンより)
やることがある、待たれてることがあるって、ほんとにありがたいことでさぁ、思えば、これまでずっとやることはあった。うれしくないような感情があったときとか、忘れてしまいたいことがあるときだとかにも、でも、今日もやらなきゃならないことがあるって、ほんとにありがたいことだよね。
よく、ずっと会社勤めをしていた人が、仕事をやめちゃうと急に老けるっていうけど。「やらなきゃならないこと」から解放されて、憧れていた自由を得たはずなのに、そうもいかないんだ。やりたいことばかりをやってられるっていっても、いざ、やりたいことがはじめられる人って、そうとう準備をしていたんじゃないかなぁ。
やることがあるって、じぶんひとりじゃむつかしいんだ。だれか他人の手助けがあるといいんだけどね。他人というか、つまり、あなたをあてにしてくれる人。頼んでくれる、甘えてくれる人がいたら、やることが見つかって、それをはじめられるんだよな。現役で会社の仕事をやっている間だと、ずっとやることあるから気がつきにくいんだけど。
やることがある状態になるには、どうしたらいいかというのは、実はすっごく原則的なことでさ。「気軽に頼まれてくれそうな顔をしてること」と、「頼まれそうな相手を探すこと」だと思う。
思えば、これは「商売」と同じだよね、つまり「お客さん」を見つけてねってことだもの。
儲からなくてもいいと決めたら、いくらでもじぶんで「やること」はつくれるとも言える。「じぶんのできることよりも、ちょっとかんたんなこと」を見つけていくなら、けっこうあるんじゃないかな。落語のなかの小僧さんがやってることだとかね、水まきやら、雪かきやら、掃除やらというような。やってるうちに、また新しいやることが見つかると思う。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。この原稿そのものが、落語の大家さんみたいな話になったな。
羽生善治
データは過去のもの。将棋は過去になかったものを探す作業。
千利休
叶うはよし、叶いたがるは悪しし
侘びたるはよし、侘ばしたるは悪し
美味しんぼ
料理は芸術なのです、画家や作家が他の人間の作品を取り入れたらどうなりますか?芸術家として失格です。物笑いの種でしかない。コピーより本物の方がいいに決まっています