おまへだれや我も呼ばれん桃青忌
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なぜだろう、翁にオマージュしたくなるのは、決まって雨の日なのだ。
旅人と我名呼ばれん初しぐれ 芭蕉
長谷川櫂さんの「俳句的生活」に記されたこの句の読みに、目を覚まされたのだった。
己のスキルが、現実論として、徹底的に無意味であるという、莫迦莫迦しさ。世の中に役にたつことのできない絶望感。
世間に馴染めぬ孤独。
しかしそれでも、うたうことが、旅を続けることが、やめられない、宿命の呪わしさ。だから、旅に出る。
町いれば、芭蕉先生、先生と人は呼んでくれる。嬉しくないわけではないし、そうでもしないと食べていけないのだから、有り難いことこのうえない。
でも、そこには居心地の悪さがある。自分なんて、何者でもない、単なる歌詠みのおじさんのだ。
単なる歌詠みのおじさんに還るために、旅に出る。単なる歌詠みのおじさんであることを超克するために、旅に出る。
いや、もしかしたらそんな高尚なものではない。
旅に出ずにはいられない性分だから、旅に出る。
日常の、ルーティーンの向こう側に、なにかがあると信じる。
その可能性に賭ける瞬間の高揚。その夢は果たされることはないのかもしれない。あるかもしれない。それは、わからない。わからないから、高揚が、そこにあるのだ。