ジョナサン・アイブ 偉大な製品を生み出すアップルの天才デザイナー
ジョナサン・アイブのことは前から尊敬の対象で、どんな人なのか興味があったので読んでみることにした。
日本語序文
ジョナサン・アイブの生い立ちから、アップルでどのうようなデザインを行ったのかが描かれる
訳者と原著者ちジョナサン・アイブは知り合い
1 生い立ち
英国チングフォート出身
ジョナサン・アイブ(ジョニー)最初はラジオとかをバラすのが好きだった
デザインに興味があったわけではないが、徐々に関心を寄せるようになった
父親(マイク)は銀細工職人
工芸の教師もしていた
地域におけるデザインとテクノロジー分野の教育の質を管理する
なんかすごいな
学校での職業訓練を強化するという背景があったよう
DT(デザインテクノロジー)という科目を確立した
マイクは無理やりデザインを学ばせたわけでなく、ジョニーの興味を引き延ばす手伝いをしていた
高校ではバンド、スケッチ、デザインなどをしていた
クリスマスプレゼントはマイクの工房を好きなだけ使わせてもらえた
条件は作りたいものを手で描く事
「本当に大切なのは、そこに込められた手間と心配り」
ジョニーは車が好きで、オレンジのフィアットに乗って高校に通っていた
当時から、ジョニーのデザインはそのまま製品にできる水準だった
ロンドンの大手デザイン事務所のフィル・グレイがジョニーに声をかけ、大学の学費を援助してもらうことになる
条件はグレイの会社に就職すること
後にも先にもスポンサーしたのはジョニーだけ
マイクはジョニーにデザイナーとして成長できる機会を提供する事をサポートしていた
強制してないのがいい
誇らしく感じていたが、他人に自慢したりはしなkった
才能と謙虚さが両立する親子
ジョニーは芸術系の生徒だったが、物理や化学の授業もとっていた
ニューカッスル・ポリテクニックに進学する
プロダクトデザインを専攻
2 イギリスのデザイン教育
ニューカッスルでは、ダンスミュージックシーンが確立されていた
ジョニーも夢中になった
ニューカッスル・ポリテクニック
先進的な構造の校舎
フロアごとに専攻が異なる学校
実践的な教育
基本を徹底して教育する
2, 3 粘性はインターンとして社会に出る事が必須になっている
ドイツ的なアプローチが基になっているデザインを学んだ
バウハウス哲学
必要なものだけをデザインすべき
ドイツの家電デザインではこの哲学が確立している
高品質、高機能、ミニマリズムの伝統
ジョニーに強い影響を与えた
プロトタイプの政策に明け暮れた
作品に対する人々の向き合い方にも影響をうけた
ひたすら課題の日々
ロバーツ・ウィーバー・グループ(RWG)でのインターン
クライブ・グリナーと出会った
ジョニーはグリナーのアメリカでの経験について質問をした
カルフォルニアへの憧れ
RWG でゼブラの革製品と財布のプロジェクトに参加した
白を基調にした最初の作品になった
ゼブラのペンのデザインも行った
この商品でジョニーの名はロンドンのデザイン界に知れ渡った
TX2 という製品
思わず触りたくなるデザインはジョニーのトレードマークになりつつあった
ジョニーは未来の電話をデザインして、コンテストの賞を獲った
ジャッキー・チェンの映画で使いたいというオファーがあったが断わっている
翌年友人のデビッド・トングと組んで同じコンテストに出場する
フラットスクリーンATM を完成させて優勝
ジョニーも誇りに思う作品ができた
わずかな違いの模型を家で作り続けた
ジョニーは最優秀の成績で大学を卒業した
大学2年生の時に結婚
同じ頃にコンピュータに興味が出る
高校の頃は愛着を感じなかった
自分をテクノロジー音痴だと思っていた
大学生活の終わりに Mac と出会った
他のマシンより使いやすい
ユーザー体験を提供しようとしているデザイン
アップルについて興味が湧いた
3 ロンドンでの生活
コンテストの賞金でアメリカ旅行をする
ジェフ・ブルーナーと出会う
1984年 デザインの会社を始める
ルナという会社
Apple のプロジェクトにも関わる
ブルーナーはジョニーのデザインに感心する
ルナへの誘いがあったが、フィル・グレイとの義理を果たすために帰国
RWG に入社して仕事に明け暮れる
でもコンサルの仕事は嫌だったみたい
RWG が資金繰りに困った時に、ジョニーは退職する
グリナーが友人と立ち上げた、タンジェリン・デザインに入社する
タンジェリンはデザイン雑誌に記事や広告を出して名を広めた
エンドユーザに注目する会社
当時は製品の信頼性ばかり重きを置かれていた
4人の社員で金銭のやりくりや時には意見が食い違いながらも働いた
ジョニーは大手企業からの以来で洗面ボウルをデザインしたが、全く理解されなかった
タンジェリンでコンサルティングには向いてない事を自覚し始めた
1991年にブルーナーがタンジェリンを訪問し、Apple のプロジェクトに誘った
当時のブルーナーは Apple の工業デザイングループ(IDg) の責任者だった
プロジェクト名は「ジャガーノート」
ジョニーはブルーナーの誘いを受けて Apple に転職する
4 アップル入社
1992 年、27歳のジョニーは Apple に入社した
オレンジ色のサーブコンバーチブルで通勤
この当時の Apple はフロッグデザインにデザインの仕事を依頼していた
フロッグデザインは高くついたので内製に切り替えることにする
ブルーナーが雇われ、ドリームチームの結成を目標にする
デスクトップ革命によってコンピュータ市場が革命し、 Apple の死後tも増えていった
エンジニア > デザイナの関係だったため、ブルーナーはやりづらさを感じていた
全ての作品は撮影され、記録に残された
ブルーナーはエンジニアリング部門からデザイナーたちを切り出した
ジョニーの最初の仕事は 2 代目ニュートンのデザインだった
バネを使った開閉ラッチの仕掛け
伸縮式のタッチペン
デザイン賞を総なめにした
しかし、市場ではマーケティングの失敗により売れなかった
ジョニーは次第にブルーナーの右腕として認められるようになっていった
プジェクト・ポモナでデザイナー主導のチャンスがきた
家庭用マックも開発
ジョニーはブルーナーからコンセプトを託された
プロダクト部門からの提案ではなかったため、全て自分たちで進める必要があった
市場では失敗してしまった
ブルーナーは 20周年記念マックの販売直前に Apple を去った
アップルは機能不全になっていた
アップルの文化を変えようと頑張った
次のリーダーにジョニーが最適だった
マイクロソフトのウィンドウズ95 が市場を席巻していた
7
idg はアップルの中でも重要な部署になった
ジョブズがよくきていた
気分屋の’彼もここではリラックスしていた
idg では色々な音楽が流れていた
ジョブズが訪れると idg のみんなは音楽のボリュームをあげた
又聞きされるのを嫌がったから