0ZZ.後日談
紙の上にはついに解答が並んだ。青年は得意げな顔で目の前のキーボードにそれを打ち込み、丁寧にエンターキーを押す。モニターには爽やかな装いのページが現れ、そこに躍る文字は、簡素ではあるがアクセスした者を褒め称えていた。
「解けた!」
眼鏡の青年は両手を振り上げて歓喜に満ちた表情だった。ドアが開いていて、その向こうからよく似た顔の男性が驚いた様子で部屋に入ってくる。
「何が?」
振り返った眼鏡の青年はスマートフォンを取り出しながら笑顔で言った。
「雪が喜びそうなものだよ!」
■■■
父宛に届いた荷物を整頓し終えたところで着信があった。挨拶もなしに相手は言う。
『謎が解けたんだ! 雪に聞かせたい。今暇?』
「あー、いや、暇だけど、何の謎?」
最近ハマっているらしいSF小説シリーズか? それともネットで見つけたゲームの? しかし、いずれも自分には関係なさそうだ。
『今言っちゃうともったいないな。重要なことだから直接話そう』
納得しきれないまま勢いに流されて家に向かう約束をした。ひとまずスーパーに寄って、飴を一袋と適当に手に取った饅頭の詰め合わせを買っておく。それから寒空に出て霜坂家に向かって歩く。年明けすぐの空気はなんだか妙だ。街にシャッターが一番降りている時期だけど、行くところに行けば人が密集していてどうにも落ち着かない。
「こんにちは」
ライブのあと、『寄っていきなよ!』と強い誘いを受けておせちや雑煮までご馳走になったから、今年霜坂の人に会うのは二回目だ。実は霜坂のおじさんは九州出身で、一人だけ魚入りの雑煮をよそってもらっていた。おせちみたいなあっさりした料理だと全然腹が膨れなくて、残った分を俺と賢人が追加でわけあった。なんであれおばさんが作ったものは美味しい。
「あれ、雪、どうしたの?」
「いや、なんか久人に呼ばれて」
「また? 忙しないなぁもう。なんか年明けからずっと部屋にこもって机に向かっててね。新しいゲームでも作ったのかな」
久人が作るのはゲームだけに留まらないが、まあ詳しくない人からすればそうなるんだろう。俺も正直いってプログラミングについて久人が話しているときは、古典の授業を聞いている気分になる。
おばさんに渡された、お茶の入ったコップに茶菓子の載ったお盆を、こぼさないようにバランスを保って運ぶ。
「お、来たね。そろそろだと思ってた」
そう笑う久人の机に、まずお盆、それからスーパーの菓子の袋とパックを置く。
「さすがわかってるー」
そのままぱくぱくと消費した糖分を取り戻している久人を急かしはしない。俺も、何か食べているときに話しかけられるのは苦手だ。淹れたてのお茶をいただいて、おばさんが俺のために載せてくれた煎餅をつまみながら待つ。部屋の水槽の魚たちは変わらず元気そうで良いことだ。外から歩いてきたので若干部屋が暑く感じて、トレーナーの腕をまくっておく。
身内の厳しさを差し引いても久人の机の上は汚かった。こいつの部屋は物が多いわりになんとか秩序を保っているはずだったけど、今はとにかく書き散らした紙が散らばっていて乱雑な印象だ。整理しようと思って紙を手に取ると声がかかる。書いてある字は、一応知っているアルファベットや数字ではあるものの、法則にしたがっていないように見えて意味不明だ。
「パソコンにデータがあるから聴きなよ」
「なんの?」
「aqua ballの隠しe.p.」
なんて?
そんな告知はなかったはずだ。俺がSNSで一通り該当する情報がないことを確かめるまで久人は饅頭をひたすら食べていた。どうして久人がそんなことを知っているんだ?
「暗号解いた。これの」
久人は、薄っぺらい紙を俺の前で振った。意味を見いだせない幾何学模様。あまり上等でない普通の紙に印刷された、手のひらより小さい正方形の紙。年末の、謎だらけのフェスに出たaqua ballが会場限定で売ったミニアルバムのジャケットだ。帰ったときは余韻で腹がいっぱいで聴けなかったけれど、次の日朝起きてからずっと聴いて、一人でものを食べるときも聴いて、年明けの静謐は全部このCDが埋め尽くした。俺は記憶から一つずつフレーズを思い出して、倉庫の箪笥にしまわれてある宝飾のピストンボタンを並べて日に透かすように、CDのものと食べ比べた。構成やアレンジはおおむねフェスのバージョンとして収録されていたが、abがそれだけで終わるわけはないし、俺もそんなことはわかっている。細かな違いを見つけるたびに、ライブのステージライトと窓から差す新年の明かりが目を焼いた。
待て。暗号?
「経緯を説明しても良いけど、せっかく僕がそこそこ頑張って解いたんだから。早く聴きなよ」
「お前は聴いたの?」
「まだ。波形だけ見たけど多分曲だよ」
「はあ?」
ネットで探したけどそんな情報見つけられなかった。ってことは、みんな黙っているか、久人が初めて見つけたってことだ。でもこいつの発言からするに、俺のためにまだ聴かずに待っていた……。
「信じられない」
「えー」
「いや、俺より先に聴けよ」
「いや。君が聴くのが良い」
しばらく黙ってみたが向こうもなかなか譲らない。
「どうやって解いたんだよ」
「話してもいいけど……雪に言っても初手からわからないと思う。だからまぁ、時間の無駄かな」
言うなあ。まあ事実だけど。
「いや、発見者が聴けよ。まずは」
「いや僕は解く過程を楽しんだから良いんだよ。なかなかよくできてたな〜。メンバーの誰かこういうの好きなのかな」
「……難しかった?」
「うーん、中の上か、よくても上の下かなぁ。でもこれぐらいがちょうどいいよ。暗号なんて解かれなきゃ嘘だし」
茶と菓子ばかりが減っていく。正直まったく予想がつかない。何を入れた?
「一回手洗ってくる」
もし世の中で俺が一番最初に聴いたらどうなる?
冷水で手がしびれても答えが出ない。どうやって受け止める? 俺はそれに値する人間か? 本物の古参ファンはきっと、abが東京でインディーズ活動してた頃から追いかけていた人だ。そんな人たちを差し置いて? そもそもあのライブ限定発売のCDだって公式には音源が投稿されていない。
水飛沫の連続音で、単純に迷惑だと気づいて、やっと止めた。
「それ、なんかないの」
「好きにしていいって書いてあるんだよね。だからよっぽどのマニアじゃない限り、ほかに見つけた人がいればTwitterで話してるでしょ」
仮にもそれなりに人気のバンドだ。俺が今のところライブに落ちていないのも奇跡だと思う。
「俺がこのまま帰ったらどうするつもり?」
「うーん、じゃあこのまま消そうかな」
「……」
例えばここで、俺がマウスを取ってデータを消去しても、きっと久人はどこかにバックアップでも取っていて十年後に誰かとそれについて話すんじゃないか?
「じゃあ、それで……」
「あーあー、ちょっと試すとこれだよ。でもその気もないのによく言うよな。僕がバックアップとってるって思ってるだろ」
嘘をついても俺は下手なので素直に頷く。
「聴きたいのならさっさと聴こうよ」
「……データだけもらって帰っちゃだめ?」
「遅延作戦はよくない。ぜったいに聞かないもん」
万事休すってこのこと? 俺は緩慢に、ワイヤレスイヤホンを有線化するコードを探し出す。端子をつかむ指が震える。
「なんかまだここから解かなきゃならないものがある可能性は?」
「ゴールのメッセージがあったからそれはない」
「俺が聴いていいんだな?」
「二言はないよ」
「ネタバレは?」
「気にしない」
怖い。何が怖いのかわからない。俺が初めての観測者である可能性が一番怖いし、もう俺は熱中してしまっているから冷静な判断ができないのも怖い。音に乗せられて流されて、浮かされている状態が忘れられなくて生きている。何もなかったときの俺が抱えていた空白は、多分まだ消えていないけれど、空白に背を向けて美しい音楽を聴いていれば、それだけで全身の痺れるような感触を味わうことができる。忘れて踊っていられる。生きる理由だって死ぬ理由だってなかったところに、彼らは生き延びる理由を配ってくれた。だいたい皆そうだろ? それで、素晴らしい作品が人生に手を貸してくれるんだ。
わかっている。わかってるんだ。俺は彼らの音、なんだって聴きたくてたまらない。
プラグを差して、イヤホンを耳につける。再生ボタンを俺の意志で押す。
■■■
15分32秒後、雪はイヤホンを外して、ベッドに寝転んでスマートフォンを見ていた久人の肩をつかんだ。それを見て久人はすべての成功を悟った。彼は用意された問題を完璧に解ききって、きちんと雪に喜びをもたらすことができたのだ。雪はものすごい勢いで久人の肩をつかんだものの、その先が言葉にならないようで、うつむいたまま何も話さない。
久人は落ち着いて待っていた。
「……そうだ。これだ」
「ん?」
「久人、ありがとう。これだ。一番言わなきゃいけないの」
「あはは。どういたしまして」
「なあやばい」
「そっかぁ」
「やばいって新曲だよ!」
そうか、新曲だったのか。出題者側からのメッセージにはそこまで詳しいことは書いてなかった。抽象的な文言が多かったのだ。そもそもメッセージ自体は短いものだった。しかしこの音源を出題者側から公表することはないとも書かれていた。
「これどうすんだよぉ……」
緊張が溶けて軟体生物のようにぐにゃぐにゃになった雪がベッドの下半分を占領する。久人はその背中にクッションを置いて、なだめるようにとんとんとリズムをとった。
「好きにしなよ。僕は全権を雪に委譲します」
「えぇー」
「まあ雪が発表していいって思うなら僕が適当な手段で発表してもいいよ」
「じゃあそうして」
光の速さの返答は予想されていた。だから久人はこっそりため息をつく。
「なんか雪って欲がないね」
「あるよ欲。全abファンは絶対あれを聴くべきだ」
「個人的な欲のことだよ。そっちはある意味献身」
さっき雪がマウスを睨んでいたけれど、本気でデータを消すほど建前を貫けるとは思っていなかった。でもけっこう思い切りのいいところもあるので、万一があったら困るなとも思っていた。これは、信仰と緊張、それから覚悟を試した久人が悪いので何も文句は言えない。基本のき。ちゃんとバックアップもとってあった。
「あーねむーい」
「これ、これ、これがそろったらそりゃな」
暗号解読のための紙束、饅頭、暖かいお茶。あと安心感。ネットでの友人とよく競い合うようにして暗号を解いていたが、こんな風に役に立つときが来るとは思わなかった。自分の頭の良さを便利に思ったことはあまりないけれど、今回だけは一人で作業を進めていて、次の段階にスムーズに移行するたびに「いやあ僕って天才なんだなー!」と言ってしまった。ちょうど賢人が買うものを聞きにきたところで「今更?」と言われた。聞こえていたとは思わず久人は頭をかいた。
「ねえ僕も聞きたいでーす」
「わかったよ」
雪がパソコンの出力を切り替えてくれて、スピーカーからきらきらした音が流れ始めた。椅子に座る雪の横顔はささやかに嬉しそうだった。久人は幸福な音とともに、目の前の光景を噛み締めた。
秘密のデータの最後は、こう終わる。
『次もまたアルバム出すよ』
『楽しみにしててください』