055.食べる
短編三つ
中学生
久人が不自然な向きに視線を向けたのがなんとなく気になっていた。待っている間にエレベーター乗り場に置いてあった館内のマップを見てなるほどと思う。あの方角的に、久人が見ていたのはこのクレープ屋だ。わからないでもない。しばらく入院していたんだから豪勢な嗜好品は摂れなかっただろう。
もう一度商品を取りにさっきの店へ戻ってきたからそれとなく話を向けてみた。
「食べたいんじゃないの」
馬鹿野郎なにがそれとなくなんだ。直球じゃないか。俺はこういうさりげない親切みたいなのにとことん向いてない。
「んー、いや、いいかな」
なんだかこの苦い笑い方はどうもすわりが悪い。
「好きじゃん」
「食べきれないよ」
その一言になんだかすごく喉の奥が苦くなって、よそを向きながら言った。苛立ったといってもいい。
「残せばいい。俺に渡せよ」
「え? だって……あー、おかずのやつにすれば……」
「馬鹿、これかこれかこれだろ」
カスタードのやつかキャラメル入りか果物がどれか知らないが、とにかく甘いやつ。ああチョコもある。なんでもいい。俺が苦手だけどだいたい他の人は好きなやつ。甘くて甘くて逃げ出したくなるやつだよ。
「一口ぐらいは食べれんだろ?」
「……いいって、そこまでしなくても」
「一昨日言ってたじゃん」
美味しくて甘いもの食べたいって。
「たまには甘いものにも慣れとかないとな」
久人はキャラメルバナナのクレープを頼んだ。出かけられる程度の調子とはいえ、もともと少食な久人だ。残してしまうことを心配していたのもわかる。でも食べ切れないからと言ってそんなあっさり引き下がらなくても良いだろう。俺という大食いが横にいるんだから好きに使えばいいんだ。
「……おいしい」
「良かったな」
「あまい」
「うん」
結局久人が食べられたのは三口だった。香る悲しさを消し去るために、申し訳なさそうに差し出されたクレープをわざとらしく大口開けてむしゃむしゃ食ってやった。甘いものは苦手だけどアレルギーなほどではないから、条件さえ合えば食べられないこともない。甘ったるい。
クレープなんてあっという間になくなる。そう、こんなぐらい、全然大した量じゃない。昼だって食べる量が少なかった。いつものことだけど、なんだかどうしようもない。俺や親父の丈夫さを一片でもわけてやりたい。なんて、なにを偉そうにこんなことを思うんだ。
「やっぱ甘かったんじゃん」
自動販売機でブラックのコーヒーを買っていると言われた。そりゃ甘いものは甘い。
「この先付き合いで食うこともあるかもだし」
「ふーん」
ぺらぺらな頬を精一杯膨らませて久人はむくれた。それを横目に飲むコーヒーはなんだか安心感のある味がする。こいつはブラックも飲めないしカカオの多いビターチョコも食えない。
飲んでいる間待っていてもらった。帰り道を歩き出す。久人が手の甲をトントンと叩いた。
「雪、ありがとう」
「あー、うん」
「美味しかった」
「そうだな」
■
中学生 修学旅行中
約束は約束だ。日本家屋を改装したような甘味屋を前にして俺はため息をついた。嫌だなぁ。時雨は店の混み具合を覗き見て頷き、こちらを向いた。
「よし、行こう」
「いやだー」
「ほんとに駄目なら全部私に寄越していいから」
「なんかいやだー」
「雑に私のことを嫌がるなよ」
いろいろなことが時雨にバレてしまったので、逆にこいつを嫌う理由はあまりなくなってしまった。もともとそんなに嫌いじゃなかったのかもしれない。ないものねだりが激しかったのはいつか謝る。多分。
店の中は程よい暗さと古さで、学生服が二人入ってもさほど浮いたりはしない。なんなら他にも知らない制服がいる。俺達の同級生はいなくて安心した。直角に傾いたメニューを斜め読みしていく。昨日時雨が言っていたようにあんみつ、ぜんざい、みたらし団子、のアレンジ商品がずらずら並んでいる。一生縁がないと思っていた文字列だ。見ているだけで脳が麻痺しそう。
「こういうの好きなの?」
「好きだねえ。だいたいの人って好きだと思うんだけど」
「少数民族に優しくして」
「コーヒー飲んでも美味しいけどさすがに抹茶飲んでほしいなぁ」
ご丁寧に甘い飲み物とそうでない飲み物で分類されている。やってきた店員に抹茶を頼んであとは時雨に丸投げした。おうすってなに。
「じゃあ白玉あんみつとわらび餅、私の飲み物は抹茶豆乳でお願いします」
これだけで一仕事したような気がする。机に肘をついてあたりを見回していると、時雨はリュックから小さなポーチを取り出した。このスマホ時代には珍しくカメラだ。
「そんなん持ってたんだ」
「え? あはは……。写真撮るの好きで、いつもおばあ様のカメラを借りてたんだけど……。まあ、その、買ってもらってさ」
急に歯切れが悪くなった。耳慣れない呼称。そういえば、こいつの身内について聞いたことがないような気がする。
「ごめん、聞いて」
「いやあ、違う違う。なんか、誕生日とかでもないのに買ってもらったのが恥ずかしかったんだよ……」
厚手の入れ物から出てきたのはコンパクトながらも無骨な黒いデジタルカメラだった。こういったカメラは社会見学で一回か二回使ったことがあるだろうか。スマホがある今、わざわざ単体特化の機械を持っているのは相当こだわりがあるのかもしれない。
と思っていたら、向かい合っている相手が急にそのレンズを俺に向けた。シャッターを押した。
「なにしてんだよ」
ように見えたが、それはフリだった。カメラの向こうから顔を出して時雨は歌うように言う。
「撮っていい?」
「嫌かな」
でも聞いてきたからまあいいのか。こいつ写真なんて好きだったんだな。今度こそ人差し指が動くのを見ながら、今更考えた。
「撮るじゃん」
「別にいいなって思っただろ」
なんでわかるんだよ。怖いやつだな。
「怖い顔だな。撮り甲斐がないんだけど」
「あってたまるか」
「久人君に送ってやろ」
「えー……」
旅先の写真を送っていいのか送らない方がいいのかわからない。寂しくないか? せっかく楽しみにしていたのに。
「センチメンタルしてる暇があったらこっちに顔寄せてよ」
自撮りはさすがにスマホの方が楽らしい。レンズの方を見ているだけの俺は間の抜けた顔をしている。時雨の笑顔はお手本にできそうだ。
「こっち来てから結構撮ったのか?」
「まあまあかな。見る?」
操作を教えてもらって履歴を見る。見たことのある顔がたくさん。こちらに向けて笑っているのもあるし、何かを見ている背中を撮っているのもある。人が一人もいない風景もある。まだ色彩の淡い旅館の庭の写真もあった。これ起床前に撮ったやつだろ。
一日泊まっただけなのに大量の写真があるし、映っていてこちらを向いている生徒は例外なく笑っている。想像通りだけど、知り合いが多い。こんなにたくさん写真があって、何かいいことがあるのだろうか。
新幹線のホームでポーズを取っている女子たちの写真を見たところで、かしっと手を掴まれる。
「ん?」
「ほら」
時雨が首をしゃくるので、こちらに向かって店員が来るのを察した。黙り込んで盆を注視する。彼女は丁寧な所作で食器を机に下す。茶の良い香りが顔の辺りまで届いた。
「ごゆっくりどうぞ」
その言葉に頭を下げて、いったん店員が離れるまで息をひそめる。
「いいね、おいしそう」
「……暖かそう」
「あんまりこういうお茶飲まないでしょ。冷めないうちに、早くいただこう」
掬い上げた餅は不定形で滑り落ちそうになる。慌てて迎え入れると口の中に妙な食感が広がった。
「やば、やわらか」
不安になるほど抵抗が無かった。甘い。甘いが耐えられないほどではない。邪気のない味。抹茶を飲むとほっとするようなほろ苦さが喉まで浸した。
「どう?」
返答がわかりきってる質問なんかするなよ。
■
高校生
父が帰ってくると聞いていたのに、予定はキャンセルされた。台風で天候が悪いので仕方がない。晩飯は雑にカレーとする予定だったが、この量だと三日は続く。
「……」
まあいいか。毎日加熱すれば保つだろう。だけど、余分に材料を買うべきではなかったか。
見ていたスマートフォンで動画サイトにアクセスする。網羅するように組んだabライブストリーミングのプレイリストをシャッフルで再生する。
『こんばんは』
再生ボタンを押してすぐ裏に返し立ち上がりかけたが、人の声がして中腰の姿勢で固まる。レンの声だ。後ろでabの曲でもなく、サキの即興でもなく、少し混み合った音がする。
『今日は罰ゲームでホラゲをやらされます』
え? そんな回あったっけ。
日付を確認するが、すぐには思い出せない。時期としては一学期の期末試験に相当するようだ。試験勉強で疲れて見逃していたのかもしれない。
『罰ゲームっていうか、ユキにやるゲーム聞いたのが悪かったよね』
『もうコメントで言われてますが、僕もサキもホラゲは得意じゃないです』
『いやまだわからない。まだ不得意って決まったわけじゃないから』
『なんの意地だよ』
部屋のイヤホンをとってきて、会話の詳細を聞こうとする。外は暗く、雨がベランダを叩いた。安物の線を引っ張りつつ調理にかかる。あまり画面を見ることができない。見たことのないゲームの映像と、別カメラで三人の顔。ユキの声はなかったが、ソファーにしっかり座っている。
野菜の皮を剥いて等分に切るまでは最早流れ作業だ。自炊は小学生の頃からやっている。同じものを連続で食べても気にしないのと、味にこだわりがないから適当なものだ。料理が上手くなっている気はしない。レンジ加熱した冷凍食品も、それはそれで美味い。
週に一度、父が頼んだハウスキーピングサービスの清掃員が来る。それのおかげで、俺は自分のための家事と通学、バイトに集中できている。いつ帰ってくるかわからない人間のための掃除を負担するのは不毛だ。
『これどうすればいいの?』
『……こっち』
画面を見ない視聴者に説明はない。ユキは無口だけど、必要ならば端的に話す。初めて地声を聞いたときは、思ったよりハスキーな、低めの声に驚いた。歌声は、サキの高低自在な厚みのある声を影から支えるように、高音まで遠く伸びる淡い輪郭をしている。けれど地の声は、体格に似合わずダークな残響だ。
それは、有意なメロディを持たないが大層綺麗な音をしている。
しかし穏やかなユキの声に反しレンの声は時折上擦り、サキの言葉は不安定に早口になった。野菜を煮る段階になったのでぼんやり画面を見る。自分自身でプレイしていないからか正直何も思わない。どちらかといえばメンタルの強靭さより反射神経が求められそうだ。
外は土砂降りで、向こう側の世界よりも暗い。視覚聴覚以外の場所で、俺はこちらにいることを自覚する。鍋から漂うスパイスの匂いできちんと腹はへる。足はフローリングの上を擦る。ユキの声は甘みの少ないサイダーの味がする。
適当な長さで携帯が震える。メッセージが一件。明日は休校のおそれがあるため、警報発令には十分気をつけるように。警報が出ているときも労働する父には頭が下がる。
やがてすべてがちょうどいいタイミングで、レンはステージをクリアし、炊飯器は電子メロディーで完成を知らせ、鍋に仕掛けたタイマーが鳴った。フライパンでスクランブルエッグを作ってから平皿に盛り付けたカレーライスの上に注ぐ。カレーに卵を追加するとうまいというのは、霜坂のおばさんに聞いたことだ。辛口で作ったカレーは不足の無い味がする。できたてのご飯はそれだけで価値がある。
雨が降る。感覚が残っている。体も認識もこちら側に残っていて、静かな部屋で、俺のたてる音、北海道の彼らの家で鳴っていた音が混じる。明日久人に聞いてみよう。このゲームを知っているか。