045.錨
中学2年
「とにかく時間がないんだ」
クラスメイトはそう言った。俺は閉会式の演奏の準備でそれどころではないのに、いきなり呼び出されて不審と不満が募る。
「芦屋がアンカーなのに、あいつ騎馬戦で足捻挫したんだよ」
それはそいつの管理と運が悪いせいだ。俺となんの関係があるんだろう。
「リレーのメンバー、絶対勝てるメンツなのに、これだと出場権がなくなるんだ。うち他に足速いやついなくて、多分アンカーの走る分走れるやついないんだよ」
ああ、こいつって確か体育祭実行委員だっけ。
俺は今すぐ吹奏楽部のテントに戻ればどれぐらい先輩と同期の怒りが和らぐかを考えていた。そもそも吹奏楽部員は全員女子だし、いくら肺活量のトレーニングのためにランニングをやっているとはいえ、総合対抗リレーに出る部員は一人も聞かない。去年もそうだったように、テントで楽器の準備をして、最終競技のリレーを応援して、終わりの体操のあとに校歌と君が代を吹いて、退場行進のためのJポップソングメドレーを吹いて終わるのが俺たちの役目だ。
競技の途中に楽器を出しっぱなしにしておくわけにはいかない。だから部員たちは今、譜面台を立てて椅子の位置を再調整している頃だろう。オーボエを除いたリード楽器の部員は、そろそろリードの調整を始めるはずだ。俺はトロンボーンだから、最悪着いてすぐにでも吹くことはできるけれど、そんなことが許されるような閉塞社会なら俺はもっと気楽に生きている。
だからこいつに構っている暇はないんだ。それに足だって痛い。ちゃんとそう言おう。
「そろそろ部活の方いかないと」
「だから初鹿にアンカー走ってほしいんだ!」
頭の中で何か思う前に返答は口をつく。
「無理だよ。そんなに走るの速くない」
「いや、絶対いける。俺お前が走ってるところみたことあるもん。ほら、あの、久人が体調崩したときのさ……」
そんなきらきらした、期待に満ちた顔で話される出来事じゃなかっただろ。あれ。人の命がかかってたんだぞ。
「マラソンも毎年強いって聞いたし、制服であんだけ速いなら絶対勝てる!」
「三年は?」
「いや、二年で出さなきゃ。もともとが二年なんだし」
こいつの悪いところは……。俺は冷静になろうと努力しながら思う。
こいつの悪いところは、俺が体育祭での勝利なんてどうでもいいと思っていることを計算に入れていないところだ。
そして俺の悪いところは、きっと、学校全体を巻き込んだこの行事に真剣になれないところだ。なにより、お前が出れば良いなんて言えない程度には傲慢なところ。今の俺の体にはいつもの痛みだけが走っている。急に背が伸びた。もともと高い方ではあったが、より引き伸ばされているのを感じる。その負担は、主に脚にかかっている。痛みに膝を抱えてあっちへ落ちることが多い。
何もかもがどうでもいい。俺は惰性でトロンボーンを吹くだけだし、勝敗を決さない適当な競技で適当な動きをするだけ。
嘘だった。途中で具合を悪くして保健室に連れていかれた久人のことが少しだけ頭にひっかかっている。
「悪いけど本当に無理だよ」
きっと勝てないんだから。だから無駄になるよ。この先を言わせないでくれ。つきつけないでくれ。そういう思いが強くなって俺はその場から逃げ出そうとする。相手から離れる方向に爪先が向く。
「大丈夫だって! お前が女子でも勝てるから!」
動きが止まる。校舎裏の影にトラック周りの喧騒は届かない。反響する放送音。時折熱砂がうずを巻いて壁を駆け上がる。流行りのリボン結びを避けてかた結びし、首元に提げた鉢巻。膝から下の軋む音。手に握ったままの楽譜。しわが寄ってはならない。なぜならこれは学校のものだから。写本であっても部の所有物であり、綺麗に後輩へ受け継ぐべきものだから。だから冷静に。怒ってはならない。頭に血が昇った状態では、ここから先降ってくる女子のヒステリーな声も、同じチームからの落胆も受け流すことなんてできない。
足の痛みを吹き飛ばすほどの、腕をこわばらせているこの感情を、冷静に拒否するんだ。全部無かったことにするんだ。いつもやってる。出来るだろ?
「わかった。でも負けるときは負けるからな」
そのときはせいぜい俺のせいにしろこの野郎。
■■■
部活のテントに戻ると案の定先輩にこっぴどく叱られた。黙ってやり過ごそう。予想されていたヒステリーには何も思わないようにしている。同期も加勢して、さらに被害を大きくする。剣山に乗せられたかのような、無為で居座りの悪い時間が続いた。腹の底がむかむかするのを感じながら耐える。この時間を有効に使えば良いのに、俺だって、怠けていて間に合わなかったわけじゃないのに。まあそんなことを説明したところで彼女たちの怒りが和らぐことはない。今日の外れくじは俺だったということだ。ただひたすら後輩に申し訳ない。
もうここに二年いるから全部知っている。トロンボーンパートは一番荒れているパートで、パーカッションはサックスと全面戦争、フルートは笑顔の陰湿ないじめが横行していて、よくこの集団がひとかたまりの楽曲を演奏できるものだ。
今頃保健室で久人は休めているだろうかということに意識を向ける。発作の怖さは何度か立ち会ったことがあるから上澄みだけ知っているつもり。本当はもっと怖いだろうに、あいつはそれを組み取らせない。
楽器を組み立てながら、それを握りつぶさないように気を払う。大丈夫、ちゃんと朝手入れした通り。スライドを動かしても砂を噛まないし、俺は冷静だ。パートの面々にわざわざリレーの件を言わないことにした。どうせ言っても怒られるし言わなくても怒られる。音出しは控えめに、といっても今はスピーカーのBGMにかき消されるだろう。
実は競技の順番が迫っているからすぐにいかなくてはならない。せめて一回久人と話がしたかったな。そう思いながら俺は、そっとテントを後にした。後輩にも知らせないようにする。巻き込んだら、あとがかわいそうだ。知りませんとはっきり言えた方が良い。
集合場所で聞いたが、たすきではなくバトン方式らしい。様々な音を許容する俺でもサイレンとピストルの音は心臓に悪い。一斉に駆け出す生徒たちはやはり選び抜かれた粒ぞろいだ。リレーの作法も知らない俺がこんなところにいて、どうするんだろう。
どうするんだろうな。
スタート。うちのチームはクラスメイトが言った通り良い順位につけていて、今のところ優勝の目は充分にあるように見える。アンカーが俺でさえなければ。
「ええと、初鹿さんは、代理なんでしたっけ」
運営側の生徒が問うてくるのに、無言で頷く。誰かにとっては幸運で、俺にとってもいつもは幸運だけど、うちの体操服は男女皆揃いの色で、ゼッケンのラインも学年でしか違わない。少し原色に近い青色のかたまりが土埃を上げながらトラックを回る。なんの覚悟も感慨も無いまま、俺は怒りだけを抱いてスタート地点へ移動した。ちらりと横目で見る他のメンバーは、背丈こそ俺と変わりなかったり、俺よりも低かったりするものの、脚に着いた筋肉はしなやかだ。俺はそういった装備を持ってはいない。
熱風が迫る。ただ前走者が、確かにバトンを俺に渡したから。それだけの理由で、俺には、この先250メートルを走り切る責任が発生した。
250メートルがどれぐらいの長さか普段あまり意識しない。家から駅までよりは遠いだろう。それだけの距離を本当の意味で全力疾走することはなかったように思う。バトンが回ってきたタイミングの都合で、並走する者はいない。一位とはトラック四分の一ほどの距離が離れているが、後ろの足音はかすかに聞こえている。
……勝敗なんてどうでもいいけど、俺の身体能力が劣っていると思われたくなかった。普段の鍛錬の差ではなく、どうしようもなく生まれもったくそったれみたいな差を、実感したくなかった。実際にはそんなことはなく、久人が100%俺に勝てないこともわかっている。俺のクラスの平均値をとっても勝てる可能性はある。でも怒りを叩きつけるように走った。足はずっと痛かった。大したことじゃないありふれた成長痛だった。背はぐんぐん伸びた。誰も俺を見下ろせないはずだった。でも、痛みは確かに存在したし、いつか俺は勝てなくなる。
ずいぶん余計なことを考えていた。肺が潰れるかと思っていたけれど、まだ余裕はあった。余裕があるということは、まだ加速できるはずだ。スピードを上げろ。
前だけを見据えて走った。声援は俺ではなく「俺たちのチーム」に向けられていた。一位を走っているやつを睨んでただ走った。追いつけそうな気はする。このままのスピードで俺が走り続けていられれば。差は確かに縮まっている。
『雪は走るのが速いなぁ』
こうして限界の状況にあっても、思い出すのは久人の言葉だ。そうだ、記憶にある限り俺はずっとそうだった。負けたことなんてない。速く走れる。大丈夫、ゴール前でかならず先行できる。
なんてね。
そういう俺の甘い考えは、だいたい裏切られるのだ。
最終コーナーを回って、一位の走者はぐんと加速した。俺はその一瞬の衝撃で、自分にもう勝ち目がないことを悟った。そして、後ろから迫りくる足音が大きくなっているのを聞く。
負けてたまるか。負けることで、落胆でもなく、悲嘆でもなく、俺は。
軽蔑されたくない。そして、彼らの目を通して自分が自分のからだを軽蔑したくない。
走れ。もっと速く走れ。自分の体がばらばらになってもいいから走るんだ。ここまで来たからなんて諦めないでくれ。このままだと負ける。負けたくない、負けたくない、失望したくない。
声援の中ゴールに着いた。力が抜けて体を折ると、すぐあとに三着の走者が突っ込んできた。
「危なっ」
そのあと追加の言葉なく三位の走者は去っていった。俺は自分が二着で、つまり順位を上げることも下げることもなくゴールについたことを確認する。
そして、俺の二着で、チームは総合点の逆転を果たし、体育祭で優勝したのだ。
「初鹿速かったなー!」
「ほんと、代理で走らせてごめんな」
「二位惜しかったな。でもすごかったよ」
うるさいな。肩で息をするせいで、周りの音が入ってこない。
足が、痛いんだ。黙ってくれ。
■■■
「ちょっと、聞いてるの⁉」
いつにもまして同級生の声は耳についた。ひそめた眉を勘違いされる。
「何? その顔。あんたが確認もなしにリレー走りに行くから大変だったんだけど。先輩にも怒られるし」
「それについては、あやまったでしょ」
「はぁ? あやまりゃいいってもんじゃないの。いい? あんたが押し付けてった分、帰りの荷物は全部運ぶこと」
もっともらしいことを言っているけれど、こいつは早く群れに戻っておしゃべりしたいだけだ。もうどれだけ重労働をやってもいいから、今の状態でこいつと話したくない。
「わかったから……」
「調子に乗るのやめて。早く動いて!」
ポニーテールを傲慢に揺らしてパートリーダーはパーカッションの同級生に話しかけに行った。パーカッションの一年は残されたBDやセットを前に勝手がわからずおろおろしている。あっちも助けに行った方が良い。
ぎしぎし音がするような足をかばってしばらく荷物をまとめていると、こちらに近づく足音がする。聞き覚えがあるものだったから、緊張はしない。
「やあ、素晴らしきリレーアンカー初鹿選手」
気障な口調で甲斐が言った。
「……ペット、暇なの?」
この部活の中で仲が良いのはユーフォチューバ組と、大人しいオーボエ、際立って団結力の高いトランペット。クラリネットは一人のスケープゴートを犠牲に動いている。その前は唯一の男子部員を叱り潰して退部に追い込んだ。
「私達は効率重視なので。もう片付けは終わったよ」
「なら戻ってくんな」
「邪険にしないでよ。手伝いにきたんだ」
そういうと甲斐は大人しく譜面台の入ったトートバッグを担いだ。これだけでもかなりの重さになる。音楽室は四階だ。エレベーターはない。俺はミュートカップの入った巾着を背負って、トロンボーンの楽器ケースを二つ持つ。時雨の細い体を目印に、何も考えず歩くことにした。
「ぎりぎり負けちゃったなぁ」
「……」
「まあでもあれだけ綺麗な逆転劇されたら拍手もしたくなる。雪君って正規のリレー選手じゃなかっただろ? 前聞いたときは出ないって言ってたし」
足の痛みは、だんだんと鈍く、大きくなっていた。炎天下で火照った体が全く冷めない。喉も乾いたが、水筒は遠い。
「雪ー」
歩みの遅い俺にしびれを切らして甲斐が振り返った。
「先行っといて」
うまく動けない。
「馬鹿言うなよ。君を手伝いにきたのに」
言いたくないんだ。
「……パーカスの上がなんもしないから一年が困ってる。それ持っていったらボーンはもう良いから、あっち手伝ってやって」
「なるほどね。わかったよ」
言おうかどうか迷っている顔をして、それでも甲斐は近づいてきた。提げているタオルで俺の首を拭う。抵抗しようと顔を背けたけど、替えのタオルなのか、炎天の一日を経ても吹き抜ける石鹸の香りがその気を削いだ。
「わかったけどさ、すごい汗だよ。それになんか動き方が変だ。どっか痛いなら保健室行ったら? 熱中症にも気を付けて」
どうせ行ったってそんなに楽にはならないし、後輩がかわいそうだ。ただでさえ無断でリレーに出てパートリーダーを怒らせたから空気が悪いのに、とばっちりでまた怒られたら俺も合わせる顔がない。
一度左手のケースを降ろして、ゆっくり壁にもたれる。体に響かないように深呼吸をした。近くのウォータークーラーは誰もいなかったから、慎重に石段を昇って、スイッチを押す。体が動く速度と俺の知覚がずれていて、思いっきり顔に冷水を浴びてしまった。反射で飛び起きた拍子に、膝がぎいと鳴って体全体に痛みが伝った。顔の場所を調整して、やっと喉を潤す。
なんにも見せないつもりだったのに、なんでバレたんだろう。
■■■
部の解散後、最後に音楽室の鍵を閉めるのは俺の番だった。冷気と制汗剤の混じった空気を押し込めて、夕青の空を仰ぐ。職員室に鍵を返して、それでもう俺を動かすものはなくなった。
経験したことのない痛みだった。足で自重を支えていると常に痛かった。階段に座ると、いくらか楽になった気はしたが、すぐに痛みは帰ってきた。膝からふくらはぎにかけて一帯が熱を帯びていた。水筒を使って冷やそうとしたが、丸一日経ったそれは冷気を失っていた。
面倒ごとは嫌だったが、それ以上に痛みは続いた。
けれど、教師が見回りに来る気配もない。どうせ家には誰もない。俺がここから動かなくても良い。
だから俺は安心して沈青の世界にダイブする。そっちの世界には痛みはない。感触はない。目を刺す色も、意味を持つ音もない。人だっていない。安息の地だったのかもしれない。無人の街。暗い空。遠くの海。俺なのかもしれない影。
〜〜♩
放り出したスクールバッグからメロディが聞こえることに、やっと気づいた。緩慢な動きで取り出すと、久人のお母さんからだった。久人に何かあったんだろうか。一瞬で冷えた心臓を無理矢理抑えて電話に出る。
「もしもし、久人に、なにかあった?」
『あ、雪だ。ねえ、校門で待ってるのに全然出てこないからずっと電話かけてたんだよ。だいぶ前に帰り際の時雨さんに会ったから、もう吹部の仕事は終わったでしょ? 疲れてるだろうし、帰ろうよ』
ああ、ちゃんと元気になったんだな。声で十分にわかった。良かった。
「良かった……」
『な、なにが?』
「お前、保健室行ってたから……。調子、もどったんだな」
『そうだよ、そんなにひどくなかったし。それより雪、リレーすっごく速かったね』
「……」
『誰かの代わりで出たの? 陸上の子とも勝負できててすごかった』
あんまり興奮しちゃだめだよ。せっかくよくなったんだから。
「先、帰っといてよ」
『……雪、なにかあったの?』
「なんでも、ないよ」
『なあ、絶対なにかあるんでしょ。意地張ってないで教えてよ』
「……」
『ねえ待って、雪。雪? 聞いてる? 切らないでよ?』
久人が、元気になったんなら、それなら、良かった。もうあとはなんでもいいや。
足の痛みが全身に伝播しているような気がする。周期的で耳障りな軋音が視界を塞いでくる。なんでこっちの世界に戻ってきたんだよ。もう痛い。手放したい。
『母さん、僕ちょっと見てくる』
「来なくていい。俺も、すぐ帰るから……。大丈夫」
一つだけ言いたくなって、久人はやめた。そんな声で「大丈夫」なんて、いったいなにが大丈夫なんだよ。
電話を繋ぎっぱなしにして、久人は車から飛び降りた。
「渡るとき気をつけて!」
母親の声に手を振って、できる限りの早歩きで学校へと戻っていく。昼間あれほど熱気が立ち込めていたグラウンドが徐々に冷めていくのを感じた。靴箱の方へは向かわずショートカットし、職員室近くの通用口の前で外靴を抜いで摺り足で廊下を行く。
「千林先生、音楽室の鍵って戻ってますか?」
吹奏楽部顧問は、質問したのが部員でなかったにも関わらず「返ってるよー」と答えた。
まず一つ。
鍵を返すのは雪の担当だと時雨が言っていた。だから、鍵が戻っているならわざわざ雪は四階まで戻らないだろう。そうだ。電話口と近い距離の声が、無理に抑えたように震えていた。久人にはあの声がよくわかる。今聞いた、雪の話す「あの声」は、自分が今日の昼間にも出した声だ。
携帯の画面を見る。切らないでと言ったのに通話は切られていた。とことん頑固だし心配する側に不便だ。ここからかけ直すより僕が探したほうがいい。そう考えた久人は動くことをやめない。誰もいない校舎では自分のたてる音がよく響く。それでも他の音は一切聞こえず、死んだようにあたりは静まり返っていた。
トイレで倒れてたらちょっと大変だな。そう考えながら自分達の教室がある棟に向かおうとして何かが目の端をかすめた。靴下のまま摩擦を利用して急停止し、振り返った。窓の向こうにぎりぎり、普段はあまり使われない方の階段が見える。最上階の第二音楽室へ続く階段だ。そこに人影が見えた。急いでそちらへ向かう。
果たして雪はそこにいた。片膝を抱えて座っていた。久人は、ゆっくり息を吸った。
「雪」
努めて優しく声をかける。雪がリレーで走っているのを、久人は保健室の窓から見ていた。雪が代走することは知らなかった。しかし勝負を決する一大競技を眺めていると、見知った姿がバトンを持っているのに気づいたのだ。思わず窓から身を乗り出した。あんなに速く走る雪を見たのは小学生以来だった。そのスピードは、今よりもっと明るくて、今よりもっと憂いのなかったときの雪に重なった。
しかしそれは一瞬のことで、必死の形相で走る雪の姿は、ただならぬ印象を抱かせた。中学に入ってからの普段の雪は、目立つことをよしとせず、体育でもなんでも自分が他の人より上手くこなせるものに関しては軒並み手を抜いていた。唯一他の人がへばりまくって伸びてこない冬の長距離マラソン以外の結果は常にパッとしない。皆雪が運動を得意としていることを知らないだろう。その雪が顔を歪めて全力疾走していた。
もともとのリレー選手は違う子だったから、ピンチランナーであれだけ順位争いに食いつけるのは本当にすごいことだ。
理由は全くわからなかった。学校行事にもやる気のない雪が、勝つために走るのはなんだか想像がつかなかった。けれどそんなことはどうでも良く、疾駆する脚と前だけを睨む目はひたすらに格好が良かった。僕にはとてもできないことだと久人は憧れた。
そして今、疲れ果てた雪を見て悟った。最近の雪は身長が急に伸びて、よく脚を気にしていた。たまに、露骨に庇う動きを見せることもあった。目を惹きつけたあの輝きは、自分を消耗して生まれた炎だったんだ。
無責任にすごいと思っていた自分を、久人は恥じた。その想いを噛み締めながら膝を折る。久人がかがみ込むと同時に、雪も顔を上げた。目を合わせて話す。
「リレーがんばったね、雪。遅くなってごめんね。脚、痛いんだろ?」
「来んなって、言わなかったっけ」
こんなときでも自分の面倒を自分で見きろうとする精神には感服する。でも頑ななのは最初からわかってる。慣れているんだよ。だから僕はずるいカードを切ろう。
「あのね、僕ってかっこ悪いかな」
「……は?」
「雪、痛いなら痛いって教えて。それはかっこ悪いことじゃないんだ。人間って脆いんだよ。すぐどこかが傷むんだ。雪は強いから、今とっても痛いのを我慢しちゃえるかもしれない。でも、僕はそんなの嫌だよ」
「……」
「僕が一人のとき発作で倒れたらさ、どうする? それを我慢して、すぐよくなるってやり過ごそうとしたら?」
「そんなの、許さない。絶対知らせろよ」
仮定のシチュエーションにすら君は憤りと悲しみを感じるでしょ。
「じゃあ僕も同じことを思うよ。雪は大事なんだからさ」
階段の縁を握りしめる真っ白に変色した手を、ゆっくりとほどいて自分の方へ導く。自分の手で緩めるように握った。うつむいた顔の向こうからだんだんと呻く声が滲んでくるのを聞いた。痛みを我慢するあまり、雪の全身が強張っていることを久人は知っていた。経験則だ。体のどこかを庇うとき、人はそうなる。
「動けないなら手伝ってもらおう。母さんが車でそこにいるんだ。病院に行こう。終わったら家に帰ろう、美味しいご飯を食べよう。痛くて眠れなかったら話をしよう。触ってよかったら僕がさすってあげる。だから、大丈夫だよ」
右手が暖かい。痛くて力をこめていた部分が和らいでいる。一番簡単で安心する音がしていた。久人の声だった。
……なんでだよ。ずっと耐えていれば良いって思っていたのに、こんなに眩しいことが起こるなんて思っていなかったのに。なんで、なんでここに来ちゃうんだよ、久人。どんどん弱くなるよ、俺。誰もいない家と、誰もいないあっちの世界でこの痛みを耐え続けるんだと思っていたのに、嫌だよ。良いことなんてなくていいのに。
「今日は父さんがおいしい焼売買ってきてくれるんだよ。雪の分もあるよ」
そんな、喉が苦しくなるようなことなんて。
目が熱くなって本当に逃げ出したかった。でもそんな足はもう残っていなかった。だから俺は、まだまだ弱いだけの俺は、久人に支えられながら少し泣いた。
■■■
病院に行って診断を受けて(それなりにひどい状態で、少し怒られた)、緊張がとけてぼうっとしている間に全部お金をおばさんに払ってもらっていた。押し問答する暇もなく甘いスポーツドリンクで黙らされて、俺はまたもや他人に迷惑をかけたことで恥ずかしくなった。久人はいろいろ慣れていて、俺に保険証を出すように言ったり、問診票をすらすら書いたり、薬局に行って薬を取ってきたりしてくれた。
霜坂の家に帰ると、おじさんと賢人がいて、食卓にはすでに豪勢なご飯の準備が伺えた。食器が五人分並んでいて、目を擦った。手を洗っている間に、廊下の向こうでおばさんが父に電話しているのを知っていた。具体的にどこか忘れたけれど、確か今回は時差があったと思う。
ご飯を食べている間、競技での俺の様子を久人は楽しそうに話して、おじさんと賢人は感心して素直に褒め言葉を重ねた。下手に何か喋ろうとすると、もらった親切から自分が見せられないものまでこぼしそうで、俺は黙ったまま頷いた。シャワーを済ませるとおばさんが手招きするので首を傾げながら近づく。棚の横にあったドライヤーとタオルで髪を乾かされた。他の人にこうされると、なんかいつもと全然違って気持ちがいいと気づいた。
「母さん、布団どこ?」
「ああ、この前取り込んだままだ」
「あったあった。兄さん手伝って」
他の人が風呂から上がったらアイスを食べようと言っていた。「雪と父さんはコーヒーゼリーだ」と聞いた。こんなにもらったら、そんなことしたら、今までだって返せないぐらいもらってるのに、どうしよう。
「雪、おせっかいだけど、ちょっとだけ言わせて」
うろたえる俺の前で、おばさんがソファーの角に座った。少しこちらに寄ってきて、俺の横に手をついた。
「なに?」
「ちょっと耳に痛いかもね、でもまあ聞いてよ。
あのねぇ、無理したらだめ。体の具合が悪くなったら誰かに相談して。それから、私たちとのつきあいを単なるプラスかマイナスかで考えないで」
大事なことを言われているのはわかった。特に最後。
「これは、久人にも言ったことなんだよ。あの子もね、自分が迷惑かけてるって昔泣きながら謝ってきたことがあった。なんにも返せてないって。そんなわけないのに」
でも、それは、久人があなたの子供だからそれでいいんだよ。
「雪だって、こんなに久人と仲良しでずっと一緒にいるんだから、もううちの子供みたいなもんだよ」
……なんだって?
「雪は苦労人だからね、見てて単純に心配なのよ。お父さんがいないときなんかもう毎日でもうちに来ていいんだから。私たちが勝手に雪の世話焼いてるみたいなところがあるんだからさ、雪が気を揉む必要はないよ。まだ子供なんだから、いろいろもらえるものはもらっておきなよ」
「……は、い」
そんなさ……。そんなこと無理に言わなくたって良いんだよ。良いのに。
良いの? 本当に、良いのかな?
俺は、一番自分に優しくしてくれるはずだった人、殺したのに。良いのかな。
背が高くなったね、なんて言って、久人によく似た顔の女の人は、俺の頭を撫でて笑った。
まもなく、軽い買い忘れのために外に出ていたおじさんが家に戻ってきた。テレビをつけたが、なんだか静かで、見慣れない風景を映していた。海外の旅行番組だった。
もう一度目を開けるとあの世界に立っている。何不自由なく立ち上がって、そろそろと歩くけれど、ここで過ごした長い時間が証明するように、怯えることは何もない。テクスチャだけが蠢く川面に近寄って、反射する自分の顔を見た。疲れているはずだったけれど、平常な顔をしていた。あんなに良いことがあったんだ、やっぱりあっちの方が夢なのかもしれない。
次はいつ帰れるんだろう。そう思った自分に、少し驚く。
「ねえ、眠いんだろ。そろそろ寝に行こうよ」
久人が顔を覗き込んでいた。目だけであたりを見ると、暖色漂うリビングだった。足はまだ痛い。賢人に肩を貸してもらって、階段を上がる。寝る前何かアニメ見ようよといって久人が笑っている。俺は色に溢れた視界を鏡のように目に映して小さく驚く。
あんなに痛かったのに。こんなに痛いのに。こっちに戻りたいなんて、初めて思ったな。