041.テセウスの船に乗れたなら
高校時代
土曜昼過ぎ。別の日にバイトのシフトを変わった都合で、今日の午後は何も予定がなかった。それを知った久人が今うちに来ている。スマートフォンでYoutubeを徘徊していると、コピーバンドの界隈にたどり着いた。The THE BAND Bandの動画をなんとなしに見ていると久人が話しかけてくる。
「なにそれ」
「有名なバンドのコピーバンド? カバーバンド?」
「ほうほう」
頷くだけ頷いて、久人は目線をパソコンの画面から離さない。多分今、ちょうど良いところなんだろう。何をしているのかは知らない。最近こいつのブームはプログラミングだから、おそらくそれ。俺は邪魔をしないで、晴れた午後の余暇を良質な音楽とともに享受する。
実はaqua ballのカバーは見たことがない。というより、今元気に活動している日本のバンドのカバーはあまり見ない気がする。abが海外のバンドをカバーしているところを見ることは多い。けれど、そうでなく、クオリティの保証されないアマのバンドに時間をかけない傾向にあるんだろうか。
それは変だな。そのバンドがうまいか下手かなんて、聴くまでわからないのに。俺はそういう基準では音楽を選定しないはずだ。
じゃあ、本家を見れば済むからだろうか。昔に解散してしまったバンドは、動画としてデータが残っていないことも多い。だから例えば、インディーのバンドにつく熱狂的なファンで構成されたコピーバンドは、後世の俺にそのバンドの存在を伝えることがある。それでも、本家本元のもつエネルギーにはかなわないのだけど。
クラシックでは、誰が演奏しようとその曲の同一性みたいなものは残されている。作曲者の力が強いんだ。でも現代において、誰が作曲したかを気にする人は少ないような気がする。誰が作曲したかではなく、誰が演奏しているか、もっと言えば、誰が歌っているか、それが大事とされているんだ。
「雪はaqua ball好きじゃん?」
突然久人がこちらを向いた。作業が一段落したらしい。
「そうだね」
「カバーしてみたり、アレンジしてみたり、しないの?」
それは俺にとって難しい問いだ。しかし、音楽をプレイする側でない久人にうまく説明できるだろうか。
「なんて言ったらいいのかな……」
「俺がアレンジするのは、違法改造じゃないか?」
「へえ、雪はそう思うんだね」
「ああ、うん。俺は、そう思う」
久人の指摘は正しい。俺は、他の人がどうしようと、どうでもいい。俺が楽曲と向き合うときの、自分だけのルールみたいなものだ。音を変えて、楽器を変えて、テンポを変えて、キーを変え、コードまで変えて。そんなことをしていたら、その曲の、魂というか、核みたいなものはどこへ行く? 俺が、俺の手で、その曲を潰してしまうんじゃないか?
「じゃあカバーは?」
「それも、一種の罪というか、100%正しい行為ではないかなって思う」
「なかなか厳しいんだね」
久人は腕を組んで左手で顎をさすった。俺はグラスのサイダーを飲み干す。かっと炭酸が喉を撫でてすぐに滑り落ちていく。
「でもabもよくやっているよね? 海外の曲とかさ」
「……『俺が』やるときは、なんとなく罪悪感があるんだ」
自分ルール。横断歩道の白い部分は踏まない。試験の朝は必ずこの曲を聴く。本番でステージに上がるときはかならず左足から。ありふれている。そんなありふれたルールのうちの一つだ。
本家本元の曲に対する敬意がかちすぎているわけでもない。ただ、もともとあったものをバラして再構築すること。それで評価を受けること。それが。
俺には、なんだか適切でないことのように思う。
俺がときどき家のピアノでaqua ballの曲を弾いていることも、実は俺の中では正しいことじゃない、だって、本当の音にはならないから。
「仮に、本家本元の人たちから『やってもいいよ』って言われても、雪の罪悪感は消えないんだろうね」
黙ってうなずく。まあ、そんなことないけど。
なんとなく思っていたことを無理やり言葉にしたので、きっと筋は通っていないんだろうな。けれど久人相手なので別に気にしない。
久人は俺が注いだサイダーのグラスを両手で取って、そっと飲んだ。喉を潤してから、そうだな、と言う。何か、久人なりの意見が来るんだろうなと思った。
「僕の知ってるゲームに、作者の人が『二次創作を歓迎します』って公言しているものがあるんだよ」
「二次創作?」
「そのゲームのキャラが登場する、自分で考えたストーリーのマンガとか、小説とか。あとはそれこそ、サウンドトラックのボーカルアレンジとか。要は原作があってその上でなりたつ作品の事だよ」
「……それで」
「僕は、そうして生まれてくる作品も楽しんでる。多分、雪がカバーした音源を楽しむ人も、いるんじゃないかな。それをきっかけに本家を知る人だって、いると思うんだ」
伝播のきっかけになる。データに溢れたこの時代で、数は正義だ。そういうことなんだろうか。
俺の演奏で?
「……ちょっと、それは、なかった考えかも」
「そう? まあ、雪って難しく考えすぎなところあるからさ。あまり厳しく難しく考えず、好きなものを好きなようにやってみるってのも、案外いいと思うよ」
好きなもの、なんだろうか。でも、自分一人のときにabの曲を弾いているということは、それが俺にとって好きなことのひとつなのかもしれない。
返事の代わりにラの音を一度鳴らす。余韻が終わるまで俺は待った。久人はまたパソコンのキーボードを鳴らしていた。部屋は適切な温度と湿度で保たれていて、俺たちをくるむ空気は柔らかく、ここで鳴る音はエレクトロな録音だが、それでも芳醇だ。
試しに、原曲からキーを二つ上げて『Wataridori』を弾いてみる。ライブの最後の方にこの曲が来ると、よくこのキーで演奏されている。多分、サキの喉が開いて、高い音の方がよく出るようになるんだろう。ロングトーンの多いこの曲では、サキの声がよく印象に残る。こっちのキーだと、少しあどけないというか、幼いというか、小さい頃の約束というキーワードが思い浮かぶ。今の俺の演奏だとボーカルが、つまり歌詞がないから、浜辺と海というステージをそのままに別の物語が浮かび上がってくる。ギターのカッティングはない。ドラムの刻みもない。あるのは、原曲通りの度数のハーモニーと、俺がそれに合わせた左手の伴奏だ。
こんなことをして、いいのだろうか。これは、本物じゃない。
そう思っても手は動く。長い間やっていたこともあって、ピアノを弾いているとき、たまに俺の意志を無視して両手が転がっていくことがある。他の俺が演奏できる管楽器では、こうはいかない。
ラスサビ後の後奏で少し迷い、ライブ版のコードで演奏してみる。アコースティックギターが欲しいなと思いながら、四分音符の区切りをつけて曲を終えた。
ピロン、と音が鳴る。
振り返ると久人はスマートフォンを操作していた。なんだったんだろうと思っていると、ポケットのスマートフォンが震える。
「こういうのもあげちゃえば立派なカバー動画だよ」
どうやらばっちり盗撮していたらしき久人は、そのデータをまるごと送ってきた。何をやっているのだか。
一度再生ボタンを押そうとしてやめた。久人は俺の前に画面を突き出して、目の前で元のデータを削除したことを見せた。
俺はイヤホンを引き抜いて、自分のスマートフォンを差し出す。
「自分で客観的に聴く勇気ないから、とりあえずミスがないかだけ教えて」
「なかったとおもうけど、もっかい確認するね」
イヤホンを取り出す久人を横目に、自分のYou Tubeのアカウントを確認する。登録チャンネルはバンドばかり。一番上に、aqua ball。今夜、オンラインライブが予告されている。
メニュー欄に目が行く。自分の動画か。
天井を見上げる。高い壁は答えを何も教えてくれない。
この動画は、俺の動画にはならないな。やっぱり俺はそう思ってしまった。