040.ブランケット
大学生
一限が終わってあくびをしていると、隣の浅香が帰り支度をしていた。
「仕事?」
「は? あんた掲示板見てないの? 休講」
掲示板というと、スマートフォンやパソコンでアクセスできる、学内ネットワーク下の学生用サイトのことを指す。実際の掲示板ではないと久人が言っていた。確認すると、履修している科目の横に休講を表すマークがついている。まわりの同じ学科の学生たちは皆荷物をまとめていた。本来火曜日は四限まで学科専門科目が詰まっており、皆この教室で昼ご飯を食べるのが通例になっている。
「初鹿はどうする?」
「……サークル行くにしても早すぎるから、一回帰ろうかな」
「そう。じゃあね」
風のように去っていく浅香を見送って、雪もリュックにバインダーとペンケース、ボトルを放り込んだ。今日はサークルの集会もバイトもないフリーの日だ。
雨だったので自転車は家に置いていた。今は曇りながら持ちこたえている。電車で二つの最寄り駅で降りて、もう一度あくびをした。スマホをいじりながら、人の少ない駅でエスカレーターに向かう途中、何か景色の中で見たことのあるものが動いた気がした。
「ん?」
よくよくあたりを確認する。まばらに並ぶ人の列、その向こうに待合席がある。そこで俯く女子の横顔に見覚えがある。
「理奈?」
近づいて声をかける。こちらを向いたのは、中学の頃の後輩だった。ここらへんでよく見る高校の制服に身を包んでいる。
「雪先輩、ですか?」
「そうだけど……どうしたの。顔色悪いけど」
「え、ああ、大丈夫です。ちょっと体調悪くて動けなくなっちゃっただけで……。ほんと、大丈夫……」
真っ白な顔で震える後輩は薄着というわけではなかったが、雪はとりあえずリュックに入れっぱなしにしていた大判のマフラーを取り出して折り畳んだ。もらったものだが、寒さに強いのであまり使っていない。
「一回立って、これ下に敷いて座って。絶対寒いから」
「そんなの、いいですって。あの」
「いいから、先輩の言うこと聞く」
部活をやっていたときの立場を活かして強めに勧めると、理奈は申し訳なさそうにちょこんと座り直した。その横で雪は大型のリュックをごそごそと漁る。
「学校電話した?」
「一応……」
「とりあえずこれ飲んで。不味くはないと思う」
「いや、あの……あ、ありがとうございます」
家で淹れてきた熱い焙じ茶のボトルを渡す。ほっと一息ついた理奈の顔色が少しましになったのを確認して、雪は隣の席に座った。
「どう体調悪いの?」
「えっと、あの……お腹が痛くて……。生理痛が……」
「ああ……」
わからない方の病気だ。だけどできることはある。
「薬とか飲んだ?」
「今日忘れちゃって……。あの、先輩はお急ぎじゃないですか? 私……」
「教授が講義バックレで半日以上暇になったから全然良いよ。運良かったね」
まあこんな程度じゃ体調がよくならないことはよくわかっている。多分寒いのはよくない。とにかく暖かくする。安静にする。できるなら横になる。そして雪にはそれができる場を用意することができる。
「ちょっと休んでいきなよ。私の家、すぐそこだから」
「そんな……悪いですよ」
「駄目。ちゃんとましになってからじゃないと帰せない」
最近の雪は、はっきり言葉で言うことを覚えた。心配しているということは、はっきり態度に示した方が良い。
けれどもこれは、肉体的性別を利用して女の子を連れ込んでいるのではないか。そう思ったりもする。まあ最後どう審判するかは彼女だと踏ん切りをつけた。
途中、薬局に寄って理奈の薬と、ホットレモンの粉末を買った。その手の甘い飲み物は置いていないのだ。久人や時雨にむくれられそうだなと、ぼんやり雪は思った。何度も文句を言われ、最近になってやっと、家にコーヒーや紅茶用のシュガーを置くことを許容し始めたのに、後輩のためにはあっさり買う。
部屋の暖房を全て切って家を出たので、室内はひんやり寒い。雪はリモコンで暖房の温度を上げ、電気あんかのコンセントを入れ、理奈の鞄を受け取って代わりにジャージを渡した。このあんかは、この部屋に遊びに来るたびに寒いと言う時雨が問答無用で置いていったもので、ジャージも、よく泊まりに来る時雨が置きっぱなしにしているものである。ここはあいつのとまり木じゃないんだけど、いろいろ言うのも流れが悪い。
「スカートじゃ寒いし、しわになるし、吊るから貸して」
慌ててごそごそしだす理奈を背に、ケトルで湯を沸かす。来客用というか予備というか微妙なポジションにいるマグカップを出した。
「しばらくしたら温まってくると思うから、とりあえず今はそれ抱いといて。薬は飲んだ?」
「はい」
「あ、理奈、りんご好き?」
「え? あ、はい」
「わかった。じゃあちょっと横になってて」
理奈はカバンからタオルを出してベッドに敷いた。それから微かに良い匂いのする寝具に包まって、さっきまで駅のホームで震えていた自分と今の自分との状況の差に、少し笑ってしまった。まだ腹部は痛むものの、頼りになる先輩のもとで安心できる状態になった。先輩の部屋は整理されていたが、棚には専門科目と音楽理論の書籍が詰まっていて、机やラックにはいくつかの鍵盤装置が並んでいた。部屋に入ってすぐ右手には電子ピアノも鎮座している。もう見覚えのある制服はなく、モノトーンのカジュアルな服が見え隠れしていた。そんな中、机の端に置かれていた塗装の剥げかけたチューナーだけは、部活の思い出から時を経た分の装飾を得てそこにあった。
部屋には聴いたこともないけど穏やかな曲が流れていて、理奈の耳をかすめていく。チャイムみたいな曲だなと彼女は思った。先輩はこんな曲も聴くんだ。部活から帰るとき、雪はいつもイヤホンをしていなかった。あのとき私は、先輩を遠くから眺めているだけだった。先輩は、あまり人を寄せ付けない空気があったから。他のパートの私は直属の先輩に怯えつつ、二人で行きあったときに挨拶と軽い雑談だけをしていた。
でも先輩はその頃からすでに優しかった。朝練をしていて、シャッフルの曲の複雑なリズムに苦戦していたとき、他のパートなのに、出来るようになるまで指導してくれた。友達のパーカッションの子も、オーケストラチャイムが運べなくて同学年の子たちと立ち往生していたとき、真っ先に助けに来てくれて、無事傷をつけずに運ぶことができたと言っていた。トロンボーンの子は、雪先輩は怖いパートリーダーの先輩が去るといつも謝っていたと後ろめたそうにいっていた。練習の面倒を見るのはいつも雪先輩で、彼女はぶっきらぼうなところもあるけれど、いつも自分たちが理解できるようになるまで穏やかにつきあってくれたと。
ふと携帯が震えた。懐かしさの煙が薄れていくのを感じながら、理奈は友人から来たLINEに「やっぱり今日は行けないかも。ごめん今度ノート貸してほしい」と返し、「OK。早く治しな〜」とメッセージを受け取った。
キッチンの方でしていた物音が止み、雪がベッドに近寄ってきた。
「これ、りんごすりおろしていろいろしたやつ。もらったはいいんだけど、俺……甘くてあんま食べられなくてさ。あ、これ。はちみつかけると美味いって知り合いが言ってた」
言葉の途中からいつもより若干早口だった。
「い、いたれりつくせり過ぎませんか……?」
「病人は黙って甘やかされてる権利がある」
そういう雪の表情は、理奈が知るより随分と柔らかく、五年の歳月の流れを感じさせた。
「先輩、一個言っていいですか……?」
「え、なに?」
「そっちが素なんですよね。気にせず『俺』って言ってください」
「……聞こえてた?」
「あはは」
「じゃあ、そうするよ」
正確には、中学のときから知っていた。先輩が時雨先輩と喋ってるときは、そう言っていたのを聞いたことがあったから。不思議だったけど、素直にかっこよかったので、一回ぐらい自分でも聞いてみたいなと思っていたのだ。
雪は椅子をぐるりと回して座った。
「高校この辺なの?」
「はい、大学もC大に行けたらって思って、今勉強してるんです」
「理奈の成績ならもっといいとこ行けるんじゃ?」
「ああ、ええと、私、C大の研究室に行きたくて。そこで扱ってる研究テーマに興味があるんです」
「そうなんだ……。入学前からそこまで考えてて偉いな」
「いやいや、そんな……」
「じゃあ大学受かったら連絡くれよ。いや、受かんなくてもさ、うまい飯奢るから」
「いや、そんな、悪いですよ。そこまでしてもらうなんて……」
「いいんだよ。俺、先輩なんだから」
理奈は先輩の色紙に書いた言葉を思い出す。
『とても優しい先輩のこと大好きです。たくさん助けてくれてありがとうございました』
「ました」じゃないな。そう思って理奈は、痛みを忘れて小さく笑った。