029.忠言
高校生
俺の担任でもある数学教師の和泉先生は、ノートを数えながら何気なく言った。
「ピアノ、やってるんだっけ?」
「誰から聞いたんです?」
「甲斐と霜坂が言ってたんだよ」
そんなことしなくても良いのに俺が解いた提出分をざっとチェックされる。
「初鹿はまあ成績普通だな、普通すぎ。霜坂に教わったりしないの?」
毎回学年上位を取る久人だが、一緒に勉強することはあっても積極的に教わることはない。ついでに時雨も成績は優秀。つまらない優等生だ。
「まあ、ピアノは辞めるなよ」
なんだか唐突で、脈絡のない発言に聞こえた。先生はピアノでもなんでも楽器をやっているという話は聞かない。
「……はあ」
翌日の授業は、3限が今年最後の数学だった。和泉さんは時間の半分ぐらいで伝達事項を終え、クラスの皆はもう切り上げかとそわそわしていた。
先生は教卓に手をついて、突然長い話を始めた。
昔、俺が教育実習に行ったクラスは少し変わっていて、あるひとりの女の子を毎日日替わりでクラスの誰かが見舞いに行っていた。珍しくクラス全員が本当に仲が良さそうなクラスで、その女の子はもともと人気者だった。俺も何度か病室に行って、新しい単元を教えつつ彼女を見舞った。彼女は何度も言っていた。「ピアノが弾きたい」と。
俺はそこで顔を上げた。
彼女はエレクトーンとピアノの奏者で、オリジナルの曲を作ったりもしていた。コンテストでの映像をその子の親御さんから見せてもらう機会もあった。画面の中のその子は溌剌としていて、病室の彼女とは少し違って見えた。俺が実習を終えたとき、ひとつ曲をプレゼントされた。彼女の歌声が入ったボイスレコーダーと、コードの書かれた歌詞カード。俺はそれを貰って、面映く思いながらその学校を去った。
翌年、彼女は亡くなった。それはもう唐突に。
俺は、学校へ行きたいと、みんなと勉強がしたいと言って死んでいった生徒を知っている。どうせ、みんな、大したことも考えず高校生活を謳歌するんだろう。俺もそうだった。それが悪いとは思わん。俺が言いたいのはただ一つ、とにかく自分のやりたいことをやれ、後悔しないように全力を出せ。全力でやれ。言い訳を残す余地を作るな。それで、誰かと交わす一言一言を大事にしろ。ありきたりだが、忘れがちなことだ。
はい、以上、一年間ご苦労さん。来年当たるかはわからんが、今年の俺の授業はこれで終わりだ。
和泉先生はそのまま机の上の出席簿や教科書、テストの解答の余りを雑にまとめて教室を出ていき、あっけにとられた俺たちの拍手がその背中に追いつけたかはわからない。
放課後、日直だった俺は日誌を提出しに職員室へ向かった。和泉先生はコーヒーを飲みながらドーナツを食べていた。そこに置いておいてくれと指示されたので、俺は黙って日誌を置いた。そのまま帰ってもよかったのだが、どうしても気になっていたことがあったので、俺は引き返した。
「今日の話みたいなのがあったから、俺に『ピアノを辞めるな』って言ったんですか?」
「さあな。……悪かったよ。俺個人の事情でそんなこと言って」
「いやいいですけど。……面談のやつ待ってもらっててすみません」
「いい、いい。お父さん忙しいんだろ。返事もらえればいいから」
昨日昼を食べるときに久人と話した。和泉さんがああ言うことを話した件についてではない。今あいつが作っているアプリについて。フットスイッチでタブレットの譜めくりをする機械が高いと言ったら、テンポとタイミングを入力して勝手に譜面を切り替えるアプリを作り始めた。放課後、俺の家で試してみる予定だ。
「……大丈夫ですよ。やめないんで」
音楽って、一回やってしまうと、やめられないんですよ。知ってましたか。
和泉先生はこちらを振り返って、にやりと笑った。
「いいねぇ、やっぱり初鹿は音楽が好きなんだな」
急に逃げ出したいような衝動が俺のことを襲う。自分のことを開いた瞬間特有の、恥にも近いような感情。
「別にいいじゃないですか」
「いや、俺は感動しているんだよ。ちょっと、何かの機会に聞かせろよ」
「いや下手なんで」
「霜坂に聞いてみるか」
「いやずるいですって」
窓の外では穏やかな日光が差しており、三月の風がコーヒーと紙のにおいのする職員室に吹き込んでいた。俺は、部活を辞めたのに吹き続けている管楽器のこと、手に馴染んで離れない鍵盤の感触、手放せないイヤホンのことを考えていた。