026.モノクロヒーロー
中学生
悲報は突然訪れた。華奢なクラスメートの女子はギプスで固められた左腕を庇いながら登校してあっという間に他の生徒に囲まれた。交通事故。腕だけで済んで幸運だった。痛かったけど今は大丈夫。
しかしクラスにとって不幸なことに、彼女は三日後に迫った文化祭の合唱コンクールで、ピアノでの伴奏役を任されていた。当然片腕で演奏できる曲ではなく、急遽開かれたホームルームで全員が沈黙する。このクラスで唯一ピアノが弾けると知られているのが伴奏者の彼女で、担当を決める際には満場一致だった。腕を折った女子はそれだけでも辛いだろうに、ついには泣き出してしまう。練習用の録音などもなく、絶望的な状況である。
雪は泣いている女子を見て、かわいそうだなと純粋に思っていた。腕を折ったことはないが、一度足の骨を折ったことはある。腕の骨折にリハビリがあるのかは知らないが、ピアノを習っている彼女はしばらく演奏ができないし、ブランクを挟むことになるので苦労するだろう。合唱コンクールのために練習していたのも知っているし、故意の過失ではないのだから泣かなくとも良いのにと思っていた。
「誰か、ピアノ弾けない?」
「弾けるやつがいたとして、今から三日でどうすんだよ」
「ていうか練習できんの二日しかないんだよ」
「ごめん、ごめんね」
「いや謝らなくていいよ」
「大丈夫だからね」
「打ち込んで録音流すか?」
「誰がやるんだ」
「もうアカペラで歌えば?」
クラスの空気が剣呑に染まる。皆怒っているわけではなく、不安なのだ。
「ねえ」
隣の席から久人が机を叩いた。
「なんだよ」
「できるでしょ。雪なら」
「はあ?」
正直、久人にそう言われるかもしれないと薄々予感はしていた。けれど素直に頷くかと言われればそれは無理な話である。もしあと一週間早ければきちんと完成まで持って行けたかもしれない。だが練習時間はあと二日。しかも雪は吹奏楽部に所属していてそちらの合奏もあり、連日遅くまで学校に残っていた。圧倒的に時間がない。もし雪が楽譜を一目見て完璧な演奏ができるのなら話は簡単だが、現実はそうはいかない。
「無理だ。あと二日だぞ」
「そっか」
そう言って久人は少し悲しそうな顔をした。そこで雪は思い出す。久人は一年のときも、二年のときも、満足に文化祭に参加できず、合唱コンクールの練習もみんなと合わせることはできず、病室で一人で歌うわけにもいかないから雪が見舞いに行ったときだけ小声で歌っていて、今年はみんなと一緒に歌えるねって昨日、
ガタタ
椅子が鳴る音を、どこか他人事のように聞いた。声を調整する。
昨日の帰り道、楽しそうに笑ってたんだ。
「やるよ」
教室が静まる。
「え?」
学級委員長が聞き返した。
「一応、ピアノ、弾けるから。ごめん、当日ミスるかもしれないけど、今から練習するから」
「そう? じゃあみんなそれでいい? 初鹿さん、ありがとう」
救世主の登場だった。安堵の拍手に包まれ、雪は両手を力の限り握りしめていた。これでもう逃げられない。
問題が解決したとなったら現金なもので、皆呆けた顔で授業を聞いていた。だいたい半分が午後からのクラス展示準備のことを考えていて、もう半分は宿題の少ない準備期間にどう遊ぶかを考えている。
そんな中、授業を全く聞かず、雪は頭の中でクラスの選んだ曲を鳴らし続けていた。大丈夫、そんなにテンポの速い曲じゃない。ただ間奏が多い。特徴的なリズムだから間違えられない。調号の多いキーな上、転調がある。ラスサビではさらにゴージャスに和音が追加され、コーラスと掛け合うように高音が絡む。流行りの曲で、有名で、だから皆が選んだ曲だ。多くのクラスメートが好む曲だ。
各クラスで差が生まれないよう、ピアノの伴奏は採点に一切関わらないと事前に通達されている。それでも失敗すれば合唱に影響が出るのは避けられない。
昼休みになった途端、雪は学級委員長を捕まえて話しかけた。
「ああ、初鹿さん、さっきはありがとうね」
「いや、うん。あのさ、午後いなくてもいい?」
「え、えーと、初鹿さんの班はそこそこ仕事終わってるから、一人ぐらいいなくてもなんとかするけど」
「じゃ、ごめん、抜けるから」
鞄を引っ掴んで雪は教室を走り去った。前伴奏者の女子がこちらに話しかけたさそうにしているのはわかっていた。わかっていたから逃げ出したのだ。謝られるのも神様を見るような目で見られるのも神妙な顔で楽譜を託されるのもまっぴらだった。自分のエゴで立候補したのだから。
携帯で楽譜のプリントサイトを開き、合唱用の譜面を探す。有名な曲だから、すぐに見つかった。コンビニへ駆け込み、ナンバーを打ち込んで印刷する。すぐに学校へ戻って、職員室へ急いだ。
「どうしたの?」
温厚な老音楽教師がきょとんとした顔で雪を見上げた。吹奏楽部の顧問をしている彼は、第一と第二の両方の音楽室の鍵を管理している。雪は朝練のためによく音楽室を開錠するから、部活の時間以外でも挨拶を交わすことが多かった。下手に嘘をつく意味も無い。雪は馬鹿正直に今朝クラスで起きた顛末を語り、特例で今日と明日、第二音楽室倉庫の鍵を貸してくれと頼み込んだ。
「はあ、そりゃ君、大変なことを請け負ったねぇ」
雪は頭を下げたまま、顧問が立ち上がる音を聞いた。
「倉庫なんかでいいの? あそこ、歯抜けの電子ピアノしかないから、普通に第二のグランドを使いなさいよ。どうせクラブも合奏ばかりなんだから第二は使わないもの」
チャリ、と鍵を渡される。
「ありがとうございます。すみません」
そのまま踵を返そうとした雪だが、鎖で繋ぎ止められたかのように動きを止めて、もう一度顧問に向き直った。
「伴奏のコツとかって、ありますか?」
「そうだねぇ」
斜めの方向を見て少し考えた顧問は、ひょいと雪へ目を合わせた。
「指揮者に振り回されないことかな」
■■■
第二校舎の四階にある第二音楽室は、昔生徒数が多かった頃の名残で残っているものの、今では吹奏楽部のパート練習以外ほとんど使われない。吹奏楽部員が使うにしても、真夏日で校舎裏なんかが潰されるときぐらいで、秋も深まった今日、近づく者はいなかった。
雪はまず部活動前にいつもするように、部員で揃いのポロシャツと体操服の半ズボンに着替えた。パンを齧りながら楽譜を眺めて、昼食が終わったら1Lの水筒から水分を摂った。そして鞄からセロテープを取り出し、慎重に楽譜を繋ぎ合わせる。
準備は終わった。大きなリングにぶら下がった多数の鍵の中から、特徴的な細長い形状のものを取る。黒い布を半分めくって鍵をグランドピアノに差し込み捻ると、カコンと小気味良い音と手応えがした。屋根は面倒だから放置、譜面台と鍵盤蓋だけ開ける。楽譜を広げて、軽くスケールを弾いて指をほぐした。楽譜を見上げる。片手ずつ弾くなんて悠長なことはしない。のろのろとじれったいほどゆっくりしたテンポで、雪に埋まったトンネルを掘っていくように、大きな木材から像を彫り起こすように、練習を進めていく。ある程度音を認識したら、また最初から弾く。二行新しく進んだら、また最初から。そういう風にして、雪は愚直に弾き続けた。
実際に弾くと、ラスサビ以外の難易度はそうでもないことに気づく。ところがそのラスサビとそれ以降がなかなか難しく、数回弾いただけではとても形にならない。二時間弾いたところで一度鍵盤から指を離した。
背もたれに体を預ける。
「はあ」
考えないようにしていたが、つくづく面倒なことを請け負ったものだ。クラスに貢献するタイプでもない。行事を楽しみにするタイプでもない。滅私奉公なぞくそくらえだ。わざわざ自分から責任を持ってどうするんだろう。
「あーあ」
理由は簡単だ。だけど別に久人のせいじゃない。これは、俺がやるって決めて宣言したんだから、俺の責任だ。水筒から茶を飲んで、息をつく。再度、鍵盤に触れる。
誰かがノックをする頃には、雪は実際のテンポから -20 した速さで課題の曲を弾いているところだった。本人はそうは思っていないが、これは驚異的なスピードである。誰もいないのをいいことに、シルバーグレイのチューナー・メトロノームからは大音量の電子音が流れていた。そうしないと蓋を閉めた状態でもピアノの音に負けてしまうのだ。楽譜の邪魔になるしまだ暗譜もできていないから普段みたいに譜面台の上に置いて視覚的にテンポを把握するのもまずい。そういうわけで、雪はノックの音に全く気づかなかった。
「入るよ」
なので、ノックの主も答えを得ずにさっさと教室に入ってきた。雪と同じ吹奏楽部員の時雨は、こちらを見て笑顔で手を上げる。
「どうしたの? 珍しく厄介事に参加してるじゃん」
きっとクラスのやつに事情を聞いたんだろう。余計なことを。
「……お前でもねえのにな」
雪は凄く嫌そうに目を眇めて言った。その声は苦々しげに低い。
「ていうか、合唱コン厄介事って言うなよ」
「本番まで三日、練習期間残り二日で一から曲完成させるのはさすがに厄介」
「厄介事に首突っ込んで仲介するのが生きがいのお前に言われたくねえ」
ピアノの椅子から立った雪は音楽室の床に座り込んだ。上靴を脱いであがってきた時雨も隣に正座する。雪と同じように時雨も部活用の服だった。紺色のポロシャツがだぶついている。
「なんか用?」
「あと三十分で合奏だから呼びに来た」
「あー、時間足りねえ」
雪は舌打ちをしてうつむいた。
「そんなに難しい?」
「いや、部活の曲も後輩完璧じゃないから教えてやらないとなのに俺何やってんだろうって」
「おや」
前髪に隠れて雪の表情が伺えない。が、声は荒れていなかった。投げやりになっているわけではなさそうだ。
「なんとかするしかないんだけどな」
雪は床についた手の指を波のように動かしてカーペットを叩いた。それは時雨がよく目にする雪のクセだった。
「雪なら耳コピで一発だと思ったんだけど」
「お前な、メロディーとコードを弾いてソロアレンジするのと合唱用に伴奏するのとじゃわけが違うんだよ」
「まあそれもそうか。私もやれって言われてもできないしね」
「そもそもペット以外できないんだからそれ以前の問題だろ」
「普通は一個楽器ができたらそれなりなんだよ」
わからないなと時雨は思った。聞くに三年間、自分と久人以外にピアノが弾けることを知られていなかったらしい。音楽の授業の前にピアノを弾ける生徒が流行りの曲を演奏するのは恒例行事となっており、あのクラスなら誰が、と言うのを顔の広い時雨はよく把握していた。人並み以上にできることがあれば多少なりとも自ら口にすることはこの年代では珍しくないのに、雪はその演奏技能を隠したまま過ごしてきたらしい。
余程目立ちたくないのだ。そもそも自分の性質が目立つものだとわかっているから。
「部活終わったあとも使えるの?」
「良いらしい」
「付き合ってあげようか?」
「普通に邪魔。お前そもそも別のクラスじゃん」
「確かに」
雪は散らかした荷物をまとめて鍵を持った。誰もいない第二音楽室から、部員で溢れる第一音楽室へと移動する。携帯が震えた。
『クラスの準備で放課後残るんだけど、終わったら一緒に帰る?』
久人からだった。
『部活のあとも残るから先帰って』
合奏開始ぎりぎりになるまでどこで何をしていたのかとパートリーダーから叱責を受けながら、雪はずっとずっと、課題曲を頭で鳴らしていた。ピアノの音で頭を埋めて、ヒステリックな女子の声を受け流していた。
■■■
翌日は文化祭前日ということもあって、丸一日授業もなく、朝から教室は賑わっていた。
「音楽室十時半だってさー」
雪は教室の装飾作りを手伝いながらその言葉を聞いた。各クラスの合唱の練習用に三十分ずつ音楽室が貸し出される。そろそろ移動するよー、と委員長が声を上げた。
「初鹿、いける?」
指揮を担当する男子が声をかけてきた。久人は少しハラハラして会話を盗み聞いていた。
「まあなんとか。こっちのこと気にしないで振っていいから」
首をキコキコ鳴らしながら雪は無表情で言った。焦りのないその様子に、指揮者の男子の方がかえって気圧される。
「そ、そうか。じゃあ始めよう」
前伴奏者以外のクラスの皆は、ピアノから音が流れるまで、伴奏者が交代したという事実を、半ば忘れていた。イントロが流麗に鳴って、歌い出しにたどり着いても気づかなかった。自分達がなんの障害もなく歌えていると言うことに気づいて、ようやく首を傾げる者が何人か出た。サビで気持ちよくハーモニーを奏でて、いよいよ「どうなっているんだ?」という顔をする生徒が増えた。
皆がグランドピアノの方を見る。雪はリラックスした様子でピアノを弾いていた。楽譜をちらと見て、それから指揮者の様子を確認するためにこちらを見る。何人かの生徒は雪と目があった。何事も無かったことのようにまた雪は鍵盤を見る。指揮者の男子は驚きのあまり拍子を数え損ねたが、それでも合唱は滞りなく流れた。
やがて演奏は終わる。余韻を響かせて雪が鍵盤から手を離す。瞬間、
「な、なんで弾けるの?」
「すごい!」
「え、めっちゃすごいじゃん!」
クラスメートは素直に驚いていた。昨日雪が立候補したとき、雪がピアノを弾くことができるなんて知らなかったクラスメートは、まあ吹奏楽部所属なら心得もあるのだろうと軽く流していた。まさかここまでの腕とは誰も思っていなかったのだ。
「それっぽく弾いてるだけだよ。楽譜通りじゃない。明日までにはちゃんと間に合わせる」
皆が口々に褒めるのを、雪は鬱陶しそうな顔をして制した。心の底からの表情であることが久人にはわかった。
「時間ないでしょ。数こなそうよ」
今この瞬間雪に向けられる歓声は、そのまま前伴奏者に突き刺さるナイフだと雪は認識していた。自分が立候補したことで、彼女を泣かせたくないのだ。
音楽室から退散するとき、ピアノの椅子の高さを元に戻していた雪を久人は待っていた。
「すごいね、帰ってから練習したの?」
「夜中までやったしイヤホンつけて曲聴きながら寝た」
「でも一日じゃん。すごい」
久人は楽しそうに歩いていたので、雪は浅い息をついた。わざわざ参加して、良かった。
「ありがとう」
「は?」
「だって僕のためだろ?」
久人は笑顔でそう言い放った。それには周りから愛される者特有の自信が表れていた。
「そう思うんなら、しっかり歌えよ」
不機嫌そうな顔と、突き放すような声で雪はそう言った。今度は、その表情が照れ隠しであることが久人にはわかった。
■■■
休憩のためドアを開けた勢いで後輩を轢きかけた。昨日と同じように第二音楽室に籠って、追い込みをかけているところだった。別のパートの、クラリネットを担当する一歳下の後輩だ。別パートの後輩なのに、よく雪に話しかけてくる。
「雪先輩」
「理奈。……なんでここに?」
「昨日、時雨先輩から聞きました。伴奏の練習してるって。あの、突然来てすみません」
「や、別にいいけど」
話が続かない。彼女が自分を慕う理由はよくわからないので、雪は動けなかった。実際理奈が雪を慕う理由は簡単で、陰口悪口渦巻く吹奏楽部の中で誰のことも悪く言わないためである。それゆえ、理奈は、時雨のことも良く思っていた。
「内緒なんですけど、お菓子持ってきたんでどうぞ。私はすぐ戻るんで。お邪魔してすみません」
小柄な後輩は雪の手にパッケージを押しつけて転がるように駆け出す。おさげがふわりと跳ねた。
「ま、待って」
雪は突然のことにうろたえたが、きちんとお礼を言いたいという気持ちが、その足を前に踏み出させた。
「その、わざわざ来てくれてありがとう」
「……いいえ! でもお礼ありがとうございます。合唱コン応援してるんで!」
にっこり笑って今度こそ後輩は階段を降りていった。手のひらには、ハイレモンとビターの板チョコ。それから四つ折りにされたルーズリーフ。雪は靴を脱いで、音楽室の中に戻って、座ろうとして、
「ああ」
自分が外に出た理由を思い出した。一式を鞄の中に隠して、一度トイレに向かう。用を足して廊下に出ると、窓越しに真っ赤な紅葉が舞っていた。秋らしい景色に、遠くから学生の声が透けている。
薄暗い音楽室に戻って、再度もらったものを改める。四つ折りにされたルーズリーフは、後輩たちからの寄せ書きだった。雪自身は認識していないが、部活動中一切怒らず、楽器の演奏力が高く、無愛想ながらも丁寧なところのある先輩ということで、雪の後輩からの人気は非常に高い。ヒステリックにキレ出す先輩に囲まれていると、その輪に入らずしんとして楽器を構える雪が別種の生き物に見えるのだ。そういえばこの子は野球応援のときに、そういえばその子は体育祭のときに、という風に以前手伝ったことを思い出しながら、雪はハイレモンを齧った。
甘いものが好きじゃないというのは、バレンタインのときに言ったんだったか。よく覚えていて、マメな後輩だ。
「なんだか大事(おおごと)になったな」
雪は肩を回して、ピアノの前に座った。
■■■
昨日の反省を活かしバカでかい音でドアが叩かれた。返事をするのもなんだか馬鹿らしいので無視してピアノを弾き続けると、ノックの主は教室のドアを開け、上靴を脱ぎ、優雅にピアノの方へ歩いてくる。
雪がアウトロを弾き終わったところで時雨は口を開いた。
「やあ、調子はどうだい?」
「お前が来なきゃ絶好調だった」
「それは失礼」
近くの椅子を引いて座る。見ると右手にトランペットをくっつけたままだ。ここで吹くつもりはなく、気づいたら持ってきていた可能性が高い。吹奏楽部員とはそういうものだ。
「明日だねぇ、文化祭」
「黙ってほしいんだけど」
「本番だねぇ」
「うるせえマジで」
ニヤニヤと笑う時雨は完全に他人事として楽しんでいた。
「ペットパート大丈夫なのか。パーリーがこんなとこで油売ってて」
「大して練習もしないのに取り巻きの票のおかげでリーダーやってるのがいるトロンボーンの方が苦労してるんじゃない?」
「言うじゃねえか。いつから人の腕審査できるようになったんだよ」
「本当のことだからね。君だってわかってるだろ。何度も言うけどさ、君がパートリーダーになればよかったのに」
「嫌だよめんどくさい」
「めんどくさがるわりには、こんなの引き受けるんだね」
楽譜をつまんでひらひらと裏表に返す。
「どうしてこんなのやるはめになったんだよ」
「……いいだろ。俺の勝手だ」
「久人君に頼まれた?」
「まあ、最初はそうだけど、でも理由の大半はそれじゃない」
「なるほどねぇ。ね、通しで弾いてみてよ。間違えてもいいから」
「うざ。絶対ミスんねえからな」
宣言通り、最初から終わりまで弾いた雪は一度も間違えなかった。すごいな、と時雨は感嘆する。雪がピアノを弾いているところを見るのは初めてだったが、大きい手が飛ぶように動くさまはダイナミックで見応えがあった。どのフレーズを弾いていてもその動きは重さを感じさせず、しなやかである。
ノックの音がする。
「はーい」
代わりに返事をした時雨がドアを開けに行った。
「や、時雨さん」
「久人君じゃないか。どうもこんにちは」
「入って良いかな?」
「気にせずどうぞ」
久人が小さく手を振りながら音楽室に入ってくる。雪はそちらの方を見ずに声をかけた。
「クラスの方は」
「ほぼ完成したよ。ばっちりです」
「迷惑かけたかな」
「いや全然。むしろ皆感謝してるよ」
「だといいがな」
「卑屈だな雪君は」
「時雨さんもそう思う? そうなんだよね。なんでだろ」
足の速い夕陽が教室に差し込む。時雨の持つトランペットを金に染めて反射する光は、雪の目を痛めつけた。瞬きを繰り返すと、人のいない第二音楽室を秘密基地のように占拠する自分たちの姿が瞼の裏に焼き付いた。
時計の針が合奏開始時刻に近づく。部員の中で最年長の雪と時雨は、演奏する曲にソロパートを持っていた。とはいえ、普段から真面目に練習に取り組み、本番にも強い二人には、何ら憂慮することがない。後輩が経験のために1stを担当する曲の、最後の詰めが、部活での目下最大の心配事だ。
すっかり慣れ切った様子でアウトロを弾き終えた雪が、指を組んで手首をくるくる回す。
「全然問題ないじゃん」
「やってみたら以外と、って感じ」
なるほどねぇ、とグランドピアノの周りをくるくる回る久人は頷いた。せっかく足を運ばせたのだから、なにかしてやりたいと雪は思った。
「準備疲れたろ。もう少しなら時間あるから、なんか好きな曲でも弾いてやろうか」
「本当? なんでもいいの?」
「まあ、クオリティに目を瞑ってくれれば」
「じゃあこれこれ」
少し掠れた声で、久人が歌う。お世辞にもうまくはない音程の歌声だったが、そのメロディに雪はすぐ思い当たった。途端にかぶせるような声で抵抗する。
「えーそれかよ。もっとマシなの選べよな」
「なんでもいいって言ったじゃん! 取り消すの遅いよ」
「なになに。なんの曲なの?」
覗き込んでくる時雨に、雪は苦い顔をして沈黙する。久人はまるで自分の功勲を語るかのように胸を張った。
「『夜桜道』って曲。昔、雪がピアノを録って入院してた僕のとこにプレイヤー持ってきてくれたことがあるんだけど、その中で僕が一番好きな曲なんだよ。雪が作った曲なんだ」
「ほうほう」
フクロウみたいな声で呻った時雨が目をきらきらさせて雪の方を見る。
「君、曲も作れるの? 万能だね。ぜひ聴かせてよ」
「やだよ。そんな大した曲じゃないし恥ずかしい」
「多数決多数決。いいじゃん、雪が作る曲、どんなのか聴いてみたいよ」
自分の作った曲なんて、自分の中身を取り出して相手に見せるみたいで恥ずかしいから嫌なんだけど。そんなことを言っても聴いてもらえなさそうだった。雪は久しぶりに弾く曲の最初のポジションに両手を置いて、諦めの心地で浅く息を吸う。
それは柔らかな低音と、涼やかな高音のフレーズの掛け合いから始まる、静かな曲だった。時折風が吹くように、軽やかな装飾音が視界を彩った。弱い中低音のロングトーンに寂しさが香る。ずっと同じ形の伴奏が、淡々とこちらに話しかけてくるかのようだった。三分間、教室は雪の空間だった。そこには白に近い色でほんのり光っているようにも見える桜の花びらが舞っていた。
静けさの中に曲を終わらせた雪は、時雨と久人が拍手するのを聞きながら置いていた楽譜を畳んだ。
「うーんやっぱり好きだ―。なんか僕が知ってるのとちょっと違うんだけどアレンジとかしたの?」
「まあ」
「君が作るんだったらもっと激しい曲かなとか思っていたのだけど、柔らかくて良い曲だったね」
「どうも」
「というか、イントロの装飾音符弾くのかなり難しいんじゃない? 動き目で追えなかったんだけど」
どの部分かと問うた久人に、時雨は歌で返す。こっちはそこそこうまい。まあ管楽器やってて音が取れないんじゃやっていけないから当然ではあるのだが。
「難しい部分ってどうやって練習するの?」
「お前はどうやって練習すんの」
蓋を畳んだり、布を被せたり、手を止めないまま雪は尋ねた。
「んー、どういう風にだめなのか分析して足りないパーツを補うために練習メニュー組んだりするかな」
非常に優等生な解答でよろしい。
「雪はどうするの?」
「俺?」
上靴を履きながら、雪は手元の楽譜に視線を落とす。
「できるまでやり続ける」
■■■
本番は完璧に終わった。ミスもないし、指揮者も安定して振っていた。クラスの女子が根気よく男子に教え続けたおかげでハーモニーもそこそこ聞けるものになっていた。長く、長く、息をついた。役目は果たした。そういうふうに油断していた雪は、彼女の接近を許してしまう。
「初鹿さん」
「……なに」
伴奏者の座を雪に託した彼女はとつとつと感謝の意を語る。雪はなんともなさそうな顔でそれを聴いていた。正直、頭の中の半分は午後の吹奏楽部のプログラムに気を取られていた。
「ごめん!」
一際強い語調で投げかけられた言葉に、はっとして、雪は彼女に向き直った。
「私、知ってたの。あなたがピアノ弾けるってこと。中一のとき、コンクールひとつ後ろの番で、舞台袖で演奏聴いてたから。あとで、ピアノの教室に入賞者が貼り出されてて、あなたがとてもピアノが上手だってこと、知ってたの。……でも立候補しないってことは嫌なのかなって思ってて。だから無理させてごめんなさい。ありがとう」
雪は絶句した。雪にとってそのコンクールは、周りから称えられる出来事でもあったが、その分雪自身には苦い思い出でもあったからだ。そのコンクールは雪が最初に出場したもので、そして、そのコンクールは雪が最後に出場したものだ。周りに蠢く鮮やかなドレス。親子が揃う待合室。失敗に泣く少女。頼れる大人のいない空間。握りしめたスラックス。靴のことまで考えていなかったから、本選なのに足元がスニーカーだった。
しかしそういった事情を彼女が知る由もない。雪は大きく息を吸った。
「ああいう曲は、あんたのが向いてる」
ぼそりと吐いた言葉は思ったより低く聞こえ、雪はこれで彼女を怖がらせていないだろうかと考えをめぐらせた。しかしそれは杞憂だったようで、彼女は困ったように、でも確かに笑った。
雪はギプスを指して言った。
「早く治るといいな」
「うん、ありがとう」
仲の良い女子たちのところへ戻る彼女の背を見送って、雪はこれでようやく、本当の意味で役目が終わったのだと悟った。
体育館の外に出て、次のクラスの合唱が終わるのを待っている途中、
「雪、おい雪」
聞き慣れた声を聞く。振り返るとスーツ姿の父が手招きしていた。今日は休日出勤だったはずではなかったか。
「親父、なんで来たの?」
「霜坂の奥さんから聞いた。雪が伴奏するって、あと吹奏楽部でもソロを吹くんだと」
「……」
沈黙するしかない。
「言ってくれよ」
「だって、無理するだろ」
「しないさ。お前は昔コンクールのときも何も言わずにいただろう? それで久人君が気を回してくれたんだ。まったく……」
「……ごめん」
「いや。しかしいい演奏だった。優勝間違いなしだな」
満足気に頷く父の顔を見ていられなくて俯いた。どうやら、褒められて嬉しいという感情は残っているらしい。
「吹奏楽部の演奏も楽しみにしてるぞ」
「……ああ、任せて」
その日の俺のソロは、今でも父さんが見返すぐらい出来がいい。