018.gun men out
中学生
鼻が曲がったかと思った。一瞬視界が真っ白になって、たたらを踏んだ足の感触だけがあった。視界が戻ってそののち、強烈な痛みが鼻骨を貫いた。
「ってぇ……」
笛の音がして試合が中断される。ボールを投げたのはサッカー部の男子で、じゃあ結構スピードもあったんだろう。
「ほんとごめん! ほんっとうにごめん!」
「いや、ぼーっとしてたのはこっちだから」
ドッジボールなんて避けるか獲るかで、相手がぼーっと他のことに意識を向けているケースを考えて投げるわけがない。普段クラスの中心で溌剌としているそいつが俺に向かって謝るのは居た堪れなかった。周りにクラスメイトが寄ってきてすごく心配そうな声を出している。
「あれ」
呆けた声を出したのは俺一人で、周りの女子からわっと悲鳴があがる。上唇に血が落ちてきて、俺は顔面にボールを受けただけじゃなく鼻血まで出した間抜け野郎になってしまった。とっさに手で覆い隠すけど抑えきれない。
「やば、本当ごめん」
「気にすんなよ、大丈夫大丈夫……」
本物の焦った空気が流れる。絶対こいつ「女子に当てちゃった」って思ってる。体育なんか油断してると誰でも派手な怪我することあるんだし、そこまで焦らなくてもいいんだけどな。別に痛いけど、そんな、そっちが泣きそうな顔しなくてもいいし、周りのやつらは絶対責めないでほしい。まあ、当たったのが他のやつじゃなくて俺で良かった。一応頑丈だし。
「初鹿、保健室行ってこい。誰か、付き添いーーー」
「僕が行きますよ」
声を上げたのは見学していた久人だった。予想はできていたからなんとも思わない。
とりあえず水道に引き摺られていく。
「馬鹿だなぁ。当たるボールじゃなかっただろ」
なんか、久人、怒ってる?
「お前ならあれ当たってるぞ」
「そういうこと言ってるんじゃないんだよ。白井君も雪なら取ると思って投げてたよあれ」
「……うん」
「何か考え事?」
「……いや」
「僕はもう大丈夫だって言ったと思うけど、それとは違うこと?」
「ぼーっとしてただけ」
「もーーーーー」
水道で血を洗い流すもなかなか止まらない。
「ティッシュあげるからとりあえず保健室行こ」
靴を脱いでいるので、靴下が廊下の床を擦った。保健室は消毒液の匂いがして、空調の音だけがして、誰もいない。
「やばい、なんか」
「気分悪い?」
「ん、あー」
「鼻血出てたら気持ち悪くもなるよ」
呆れたような声で久人が手際良く処置してくれる。適切な姿勢を取ると少し楽になった。
さっき何を考えていたか白状すれば心底から馬鹿にされるし心配されるし申し訳なさそうにさせるってわかってる。だから俺は大人しく黙っていた。
一昨日は俺達を恐慌が襲った。久人に大発作が起きたのだ。忘れ物を取りに特別教室へ戻った俺の目に飛び込んだのは、床にうずくまる久人と、そのただならぬ様子に固まって動けなくなったクラスメイトだった。別に彼らが悪いわけじゃない。動けるのは俺だけだ。そうわかっていたからそこで俺は、個人的な感情を全て遮断した。
最悪なことに特別教室は本校舎から遠い。だから俺は階段を飛び降りて、制止する教師の声も悲鳴を上げる女子も全部無視してクラスの教室まで駆けた。まとわりつく制服が邪魔だった。
久人の鞄から見慣れたぼろぼろの巾着を取り出す。中身を確認してから来た道をとってかえす。途中で苦情が来そうなほど乱暴に保健室のドアを開けて、実際眉をひそめた先生に今すぐついてくるように叩きつける。四階分の階段を駆け上がる。靴を脱がずに教室に駆け込む。自分の息がうるさい。あいつの様子をうかがうために無理やりふいごを抑えつける。吸入薬の機器を保持して、久人が必死に頑張るのを手助けする。遅い、遅かったかもしれない、早く、いつもみたいに喋ってくれよ。
やっと追いついた養護教諭が久人の様子を見て、救急に連れて行く必要があるという。俺は外聞をかなぐり捨てて久人をおぶって、階段を降りて、駐車場まで連れて行く。一応意識があるので救急車を呼ぶほどではないという。
一瞬真っ暗に絶望した。そんなわけないだろ、なんでそんなに悠長なんだ。
発車した影を見送って、俺は立ち尽くした。チャイムが鳴っても行き場所がなくて、鍵のかかっていなかった、誰もいない第二音楽室に忍び込んで、ずっと自分の息の音を聞いていた。誰にも見つからない場所だった。そのまま家に帰って翌日部活のやつらに叱られた。なんにも言葉が耳に入ってこなかった……。
「きいてるー?」
彼女たちのものよりずっとやわらかくて、向こうが透けそうなぐらいやる気のない声がした。
「……聞いてます」
力無い、かもしれない。俺の印象が挟まっている。
「鼻血出したの初めて?」
「あー、そうかも」
記憶にある限り、こんなふうに、頭に衝撃を受けたことはない。怪我もまあ人並み。病気なんかしたことない。なんでわけられない? なんでもいいから目に見えるようにしてナイフで切り分けることはできないんだろうか。
丈夫な体に生まれた代わりに産んだ側はすぐ死んじゃったな。とかそんなことばかりリフレインする。言ったってしょうがない、って言ったって事実は事実なんだ。
「心配してくれてありがと」
それは俺が言う言葉だ。
「俺もう一人で大丈夫だよ」
「雪知らないだろ。暇なんだよねー体育の見学って」
知らないよ。なったことないから。
校庭はさんさんと晴れ、ライトグリーンのカーテンが揺れる。
「保健室来るの初めて?」
「熱中症の先輩運んだことある」
「えらい」
僕も筋トレして誰か運べるようになるかなとかすっとぼけるからティッシュがズレた。
「筋トレのための筋トレからじゃない」
「やるか。もやし脱却したい」
どうか無理しないで。