008.この先
中学三年初夏
雪
携帯に一報があったことに気づいたのは、合奏の前だった。何度目かの事態に、俺は奥歯を強く噛む。今すぐ病院へ駆けつけたい気持ちと、彼のこの症状は長く付き合わなければならない持病で俺が慌てても何も変わらないという事実と、今日の合奏を放り出すわけにはいかないという俺のちっぽけでどうでもいい社会性。
別に部活の中でどう扱われようと今更だ。パートリーダーには毛嫌いされている。なのに俺はこれを放りだせない。
「先輩? 移動ですよ」
「今行く」
トロンボーンを握り潰さないように気をつけて時間が過ぎる。金属はぶつけるとすぐにひしゃげる。ただ祈るように楽器を構える。
平穏。それは得難いものだろう。
病室に入った瞬間、俺を待っていたかのように顔をあげていた久人と視線があった。急な入院だったからか、床頭台にはまだ簡素な荷物しかなく、発作の余波を引きずって久人の顔は疲れていた。
「ごめん。行けないや」
十分な沈黙を待つ前に、久人は笑って、つとめて軽やかにそう言った。こいつにとってこれは慣れきってしまうほど訪れた事態で、それが仕方ないことなら簡単に諦められるぐらいに冷静だ。人の気持ちを知った上でこいつは笑ってる。
明日から、俺達の学年は修学旅行に行く。
別に一緒の班なわけでもない。部屋だって分かれてる。当たり前だ。学校にいるときと一緒で、いつも隣にいるわけじゃない。もし行き会ったら二言三言話すだけだ。だけど久人は、他の生徒と同じように、修学旅行に行って、楽しい思いをすることぐらい許されて良いはずだった。
だけどそうはならなかった。
無駄な感傷なのか? 当事者でない俺が過剰に心配するのは度を越しているか? だけど仕方ないだろ。俺の母親は、お前みたいに体が弱くて死んだんだ。
俺なんか産んでさ。
「土産話、楽しみにしてるよ。気をつけて行ってきてね」
「ああ、わかった」
声が震えるのを隠せなかった。怒りか悲しみか判別がつかない。久人には全部きっと筒抜けだった。
「雪、送っていくよ」
「……ありがとう」
おばさんが後ろから声をかけた。面会時間をとうに過ぎていて、特別に会わせてもらっただけだった。長居するわけにはいかない。俺は大人しく病室を去った。
「ごめんね、雪も楽しみにしていたでしょ」
「おばさんが謝らないでよ」
車の中は静かだった。いつもよく喋る奴がいない。
「久人の分までなんて絶対言わないから。雪は雪の分を、素直に楽しんどいでね」
「……はい」
子が子なら親も親だ。不安と心配を飼いならして表に出てくるのは優しい言葉。
家にはいつも通り誰もいない。シャワーを浴びてそのままベッドに倒れこむ。宛てのない感情に浮かされて、暗い部屋と青い世界を行き来するうちに朝になっていた。あの青い世界でずっと考えても何も思いつかなかった。こうやって二重の世界にまたがって意識のある俺の時間を分けてやればいいのにとか、そんな仕方のないことばかり頭に浮かんでどうしようもなかった。やがて朝になった。電気もつけないまま、冷蔵庫の中で最後の一枚だった食パンを焼かずに食べた。リュックを背負って、ボストンバッグを持って、スニーカーを履いた。靴紐を痛いほど丁寧に結んで、黙って家を出た。
静かにしろと言われていたのに新幹線の中はざわめいていた。俺は三列の席の、一番通路側に座っていたけれど、隣の子は、さらに隣の子とおしゃべりに夢中で助かった。
ろくに眠っていない。通路の床をずっと眺めていると、乗り物酔いしたのか少し気分が悪くなった。車両連結部へ出る。
「……」
乗車してきた入口とは逆に位置する西側のそこは、S字状に湾曲したデッキだった。ただの連結部だと思っていたら、多目的室や洗面台などが広く並んでいる。列車が走る際にたてる、抑制された轟音に包まれていた。少なくともこの隠れ家のようなスペースには、今、俺以外の人がいない。それが心を落ち着けた。
窓の外を見ながら考える。つまり、俺には親しく話す友人は久人以外いないし、修学旅行に来て楽しめる人間ではない。だというのに、なぜ俺がここにいるんだろうということだ。
流れ行く景色、映像は新鮮なものだった。俺は初めて新幹線に乗る。普段の行動半径はローカルな範囲に収まっている。それはきっと久人も同じだ。あいつは生まれてから今まであの家から大きく離れたことはないようだ。体を気遣って、おばさんやおじさんは旅行を控えていた。今回の遠出は、めったにないチャンスだったはずだ。
それをなぜ、あんな風にあっけらかんと諦められたのだろう。そういうふうに、見えたのだろう。
久人だって何も思っていないわけではないはず。ということは、あの笑顔は俺のためのものだったのだ。俺が健やかに旅行を楽しむための。でも、それは今のところ叶っていない。
俺が久人を糾弾する資格はない。当然だ。なぜなら、中学生らしく久人がわがままを言ったとして、俺にはそれを宥める術は無いからだ。久人に負担をかけず上手に慰められないのなら、俺には何も言う資格はない。
だから、俺は、この旅行を楽しんで、久人に思い出を語るしかないのだ。けれどそう簡単に割り切れる性格じゃないんだ。俺は久人の容体が不安定な期間に、それを忘れて学校行事を楽しめるほど器用な人間ではない。
「やあ、眺めはどうだい?」
背後から声がかかった。声の主に心当たりがあって、俺は嫌な顔をする。まあ、きっと、誰に話しかけられても嫌な気持ちになったんだろうけど。
「……何の用だよ」
俺と同じ制服姿の、甲斐だった。昨日のことを思い出す。癇に障って、足先で車両の床を叩いた。
■■■
時雨
その子に初めて話しかけたのは、誰もいない早朝だった。教室を包み込み内蔵を揺らす、芯のある艷(つや)やかな金管の音に圧倒されたためだった。部活動中に一度も鳴らしたことのないような音で、雪は無人の校舎を塗りたくっていた。私はしばらく、黙って、心がさざめくここちよさに浸っていた。
雪は、私が今まで話してきたどんな人間とも、違った雰囲気をまとっていた。学校という空間の中で、孤立せざるを得ない状況に陥ってしまった人間はいても、自ら孤立したがる人間はそういない。
雪からは、他人に隙を見せたくないという感情が強く読み取れた。できる限り自らの情報を明かさず、いつもコミュニケーションはこちらからの一方的なものだった。相槌以上の返答をもらうのは難しかった。けれど、その表情は動かないわけではなかった。心の中でも必要以上に邪険にせず、かといって快くも思っていない。雪はいつも私に対して無愛想であった。他のクラスメイトからの呼びかけには、平淡な無表情で答えた。
その頃、私に話しかけられ嫌そうな顔をする人間はいなかった。私は少々特殊なポジションにいて、安全な地位を確立していた。敵対する者同士の間でも、上手く仲裁を務めた。いつの間にか出来上がっていたその役割は、私と相性が良かったのだろう。多分、訓練の成果が出ているんだ。
雪は私のことを嫌っているように見えた。しかし私は、くだらないことは尋ねなかったので、決定的に雪を怒らせたことはなかった。
あの日までは。
翌日から修学旅行を控えていた。揉め事の多い吹奏楽部だが、その日は三年が皆浮かれていて何事もなく活動が終わった。トランペット、ホルンパートの子らとともに校門を出て帰路につく。
今年は特に暑くなると言われていて、制服移行期間に入った途端皆競うように夏服を着始めた。私はまだ先でいいけど。
いつものように雑談しながら歩いていると妙なことに気づいた。私たちの少し後ろを歩いていた雪が駅への通学路を逸れ、学生の間でバス道と呼ばれている大通りへ出ていったのだ。いつもはまっすぐ帰るのに。めずらしい。
魔が差したというのが正しい。尾行だ。
一緒に歩いていた部員に用事があるからと言って列を抜ける。彼女らは特に気にした様子もなく、別れの挨拶を投げかけてきた。その間にも雪はどんどん歩いていく。目的地がどこにあるかはわからない。駅にもバスプールはあるが、学校を挟んで真逆の方向となるこの道の先にももう一つ、車庫を有する各方面への路線の起点があった。ここから徒歩で行ける場所など、西側の女子短期大学、東の複合商業施設、南東のテニスコートぐらいしか思いつかない。こちら側に住まいがあるわけでもなさそうなのに、いったいどこへ。
雪がバスに乗った時点で敗北は決まる。そう考えながら歩いていると、バスターミナルの端、九番乗り場で雪は立ち止まった。
「あー、これはだめかな」
そして振り返った。完全に負けだ。ここで逃げても弁明できずかえって状況が悪化するだけだろう。尾行がキモいことだということは、わかっているつもり。
「お前さ、ずっと着いてきて何の用?」
学校で聞くよりも随分硬く、低い声に驚いた。耳が良いのか気配に聡いのか、こちらの尾行にも気づかれている。その声はハスキーな渋みを帯びていた。彼女は部活で揃いのポロシャツに体育着のハーフパンツ姿で、大きなスニーカーを履いていた。短いソックスのおかげで、膝から下が露わだった。背の高さと髪の短さもあって、いつもの制服でも隠しきれないボーイッシュな雰囲気がむきだしになっていた。ほぼ男子に見える。あえてそうしているのかもしれない。
「甲斐だったのか」
「やあ。尾けて悪かったね。どこか良い寄り道の宛てでもあるのかと思ってさ」
「この先には病院しかないぞ」
雪は路線案内図を指した。バスはまだ来ないようだ。
「どこか悪いの? それとも見舞い?」
「言わなきゃだめか?」
「わかった、当てるよ。後者かな。君自身は元気そうだ」
「正解」
と言っても、その見舞いが常の事であるとは思えない。昨日までの彼女は毎日私たちと一緒に(といっても喋りはしなかったが。集団の一部として)駅まで戻ったはずだ。身内だろうか。だとすれば私は完全に邪魔者だ。
「そうか。勝手についてきて申し訳ないね」
「別にどうでもいいけど……。三番から駅まで戻れる」
手を振って追いやられたので大人しく退散するとした。
帰りのバスで、今日欠席していたクラスメイトを思い返す。三人休んでいたように思うが、いずれも雪とは関わりのない部類の生徒だ。身内か、他に可能性があるとしたら別のクラスの生徒か。さすがにそこまでの状況は知れない。私は詮索を止めた。
翌日は集合が東京駅だった。準備もあったため、祖母からは朝の習慣をやらなくともよいと言いつけられていた。もとより強制されているわけではない。私がやりたいと申し出ているだけだ。
京都と奈良の観光で二泊三日を予定している。けれど甲斐は本家が京都にあり、盆や年末年始に上京するのがならいだった。西方でありながら馴染んだ土地ではある。上品な練り和菓子をそろそろ食べ飽きているかも。
新幹線の車両をいくらか占領して旅が始まる。生徒の中には新幹線に乗ることが初めてだという者もおり、浮ついた話し声がそこかしこではじけている。私にとっては何度も見た車窓で、ここでは富士山に注目する者が多いが、浜名湖の方が見ていて面白い。
席が近いクラスメイトと話したり、トランプをしたりして過ごした。話題は、主に自由行動でどこを回るか。手にしたスマートフォンに目を走らせながら、皆思い思いに期待を膨らませている。
弁当を食べて、いったん席を外した。さっきまでトンネルの多い区域を走っていたためか、耳の奥から頭にかけてにぶい痛みがある。立ち上がって深呼吸したかった。
ドアの窓から外でも覗こうかと思っていたら、先客がいた。雪だった。
「やあ、眺めはどうだい?」
「……何の用だよ」
昨日と違い、雪は指定のセーラー服を着ている。暑がりなのか夏服だった。ぱりっとした白色に紺のラインが走る大きな襟つきのセーラーシャツ。スカートは面白みのない紺一色。夏服にタイはない。私たちの学校は男女ともに制服の意匠が地味で、冬服であったとしても紺と白のツートンカラーであるのに変わりはない。女子生徒の中には不満を持つ者も少なくないようだ。
幸い、基本となる服以外には“派手でないこと”といったような指定しかなかったため、見た目を飾るのに熱心な子らはその言葉を拡大解釈して個性を演出しようと努めていた。その中で、そっけない恰好の雪はある意味目立っていたともいえる。
昨日と同じ大きなスニーカーの踵が、ゆっくりと二回、床を叩いた。背も高ければ足のサイズも大きそうだ。走行音に混じって、まるでこちらを値踏みするかのような硬い音が伝わる。
「トイレなら空いてる」
「いいや。ずっと椅子に座っているのは窮屈に思えてね」
「向こうの方が近かったろ」
「広いほうがいいでしょ。ついでに雪が見えたから、京都でおすすめの甘味処でも教えてやろうかと」
「甘いもの苦手だからいい」
「何度か行ったことがあるんだけど、そこのあんみつは本当においしくてね。特に栗の甘露煮の入ったものが良い」
「甘いもの苦手なんだけど」
「抹茶とわらび餅を頼んでもいいね。それならあまり甘くない。君でもきっと食べられるよ。もう自由行動で組む相手は決めた?」
雪との会話は、少し話を聞かないぐらいがちょうどいい。私はそれなりにみんなのことを観察している。私のような変わり者でない、“普通の”生徒に話しかけられたとき、彼女は必ず身構える。慎重に、ぼろを出さないように、無愛想でもなく、しかし他人の興味を削ぐ絶妙な返答をもって交流を絶つ。
なぜ私が雪から特別扱いされているかというと、それは私が他の生徒全員から特別扱いされているからだ。いや、正確に述べると、扱い方は異なる。他の生徒は(まあ、自分で自分に向けられる言葉を正直に記すのも傲慢だとは思うが)私のことを、有名なタレントに接するかのように扱う。実際に聞いたところ、皆にとって格好いいアイドルの王子様みたいなものらしい。自分の顔なんて鏡で見てもよくわからず、なんだか自分だけのものじゃないような気がするんだけど、それは周りの人にはわからない。雪は私のことを、粗雑に扱っても壊れない道具のように接している。
「修学旅行だというのに、浮かない顔だね」
「ほかのやつらと喋ってろよ」
「それに寝不足かい? 隈がひどいな」
「……おい」
身を寄せて頬に触れる。背が高い雪と私では、頭一つ分以上の差がある。必然的に見上げることになったが、光の加減で黒にも青にも見える目の下には、濃い隈ができている。
「どうでもいいだろ」
燻る煙のようなため息混じりの声だった。もっと明確に拒絶されるかと思ったが、雪は淡々と身を引いて、私が触れていた部分に手を当てた。見えたものを反芻する。
「他人から触られるのそんなに嫌い?」
「……」
無言は肯定。 頷いたのが聞こえる。わかった、次からは気を付けるよ。
席に戻って馬鹿正直に初鹿雪と話していたと言ったら、少し驚く話を聞いた。
「へーあの子今回はやっと来たんだ」
「知ってるの?」
前に座っている子は家庭科部だ。
「三年間クラス一緒だからね。なんか宿泊行事全部サボってた気がする」
へえ、そうなんだ。なんでだろう。気になるな。この子には言わないけど。
まあ、この子には言わないけど……
「どうしてもここには来たくなくて、でも霜坂君本人に言われたんじゃ断れなくて、どうにもならなくて。といったところかな」
本人に聞いてしまうか。いやもう面倒くさい。当てよう。
一日目の夕食後だった。他の子に話しかけられてもすげなく暗い顔の雪に、咎めるポーズで声をかけたのが始まりだった。なんで干渉したって、そんなの墓を荒らして秘密を掘り当てるために決まってる。悪人ぶるとかではなく、普通に悪人だ。
雪は何も言わなかった。図星は明らかだった。無言は肯定だし、たとえ雪が否定したって私は見抜いただろう。彼女にとってこの修学旅行は甚だ不本意で、しかし唯一の友人である久人君がそれをよしとするはずはない。彼は欠席だと聞いた。体調が悪いのかよく保健室にいるとも、噂に伝え聞く。雪君視点では、土産話でも聞かせてくれと送り出されたはいいがどうしても納得がいかず、悔しさもどかしさ諸々の感情で眠れなかった。大筋は合っているはずだ。だって読めるから。私が知りたいと思えばそこに私しか読めない絵で描いてあるのが見える。
「お前、いつもこうやって人の事情に首突っ込んでるのか」
「まさか。私の周りにいる女の子は大体おしゃべり好きでさ。こちらが聞かなくとも悩みを話してくれるよ」
「このクラスはそんなのばっかりかよ」
「吹奏楽部もね」
「疲れそうな生き方だ」
雪はぽつりとそう言った。嘲っているのでも怒っているのでもなかったが、そんなことを彼女がいうのは意外だった。私は自分の内側から湧き出す必要に迫られて、次の台詞を吐く。
「君もね」
雪は黙ってこちらを見ている。ここには私たちだけだ。だからこれを言ってもいいと思った。前から気になってた。君はもっと自由に。
「君は皆から向けられる無数の『なんで』に傷つけられてきたんじゃないのか。どうして傷つくのかというとそれは君自身にも明確な答えがないからだ。
皆の前ではうまく隠しているつもりだろうけど、君は自分の性別に困っている。どっちでもないように見せるため、教室では群れず、親しい相手を作らず、さまよっている。だけどいずれ限界が来るよ。隠してばっかいちゃどこかでガタがくる。ばれないように隠すんじゃなくて、違う方法を探すべきだ。
私から言わせてもらえれば、昨日みたいなオフの君の雰囲気をそのまま学校へ持ってくるのがいいと思うけれどね。私という真ん中の前例があるんだから、徐々に皆も慣れる。“そういうふうに”扱ってくれる。空気を作る努力をするべきだよ」
雪の顔が強張る。彼女の触れられたくない部分に土足で踏み込んだ。だから怒鳴り声の一つは覚悟していた。拳かもね。
息を吸う音のあと返ってきたのは、今まで聞いたこともない長い言葉だった。
「まあ、正解だと思うよ。お前の言ってることは。けどな、お前は人にアドバイスをしすぎて、それを求めていないやつにまで押し売っているはた迷惑なやつだ。俺がいつ頼んだ? 明確に拒否しないとわからないのか? 遠回しにでも理解してくれないか? いいから、クラスや部活での用以外は話しかけないでくれ」
極力感情が抑制された声だった。
「あはは、私の意見が絶対的な正解だなんて思ってないよ。けど誰かに言われないと君は考えないだろう。問題提起さ」
「俺は、お前のことが嫌いだよ」
「うらやましい?」
声は低く、痛みに耐えるかのような表情で睨む目は、深く黒く厳しい。心の底で微かに驚く。羨ましいんだ。私のことが。真ん中をうまく歩いてやがるから、羨ましいんだ。自分でもわかってるんだ。うまくやりたいって、そう思ってる。
そうか、私の前では『俺』なのか。きっと本当が『俺』なんだ。やっとわかった。もともとそうなんだ。誰かから役割を求められた上での髪の短さだと思っていた。違う。雪自身の認識がそうなんだ。
「うらやましい? そんなわけないだろ。ふざけんなよ」
ついに雪は会話を投げだして立ち去ってしまった。今の声色を聞いたことのある人間はなかなかいないだろうと思うと、十分な収穫だった。多少揺さぶりすぎたかもしれないけれど、まだまだ彼には興味がある。
ある程度の偏見はあるもので、殴られても仕方ないかなと思っていたけれど、その種の元気はなさそうだった。明日の昼過ぎにでもまた会話ができればいいなと思う。詫びも兼ねてわらび餅をつつこう。なんとなく抱いていたかつての違和感が、今では全部はまって一つのパズルの完成画になっていた。
おもしろい人だ。私みたいに変わっているけど、私とは似ても似つかない。
翌日は良い天気になった。源氏物語ミュージアムを見てから一度宿へ戻って昼食を食べ終わった。厳密な注意があって、自由行動へ出発の合図がされる。事前に申請したルートでいくつかの寺社や通りを歩くのだ。
忘れ物をして慌てるルームメイトたちと別れて廊下を歩いていると、縁側に変わった影を見た。角を曲がると蹲る中学生がいる。
「なあ、なにしてんの」
頭を上げた雪君の顔色は青く、煽るように声をかけたのは失敗だったかもしれない。
「気分悪い?」
私だって鬼じゃない。
「……ほっといて」
強情なやつだな。
ルームメイトに、体調が悪くなった子に付き添うから、先に行っておいてとメッセージを送った。すぐに了承のメッセージが返ってくる。追加で、
『友達大丈夫? 手伝おうか』『いいや、大丈夫。楽しんできて』
スマートフォンをスカートのポケットに入れて、右手をだらりと下げた雪の隣にスカートの裾をまとめて座る。友達、ね。まだその言葉はふさわしくない気がする。
「ほんと、余計なこと……」
「まあまあ、昨日の迷惑代だよ」
「はぁ?」
急を要する病気を抱えているとか、そういうわけではないらしい。一時的に体調が優れないんだろう。私たちの場合、もう片方の人類と比べて考慮すべき症状もあるが。
「月のものだったりする?」
「……違う」
自分はバグを抱えている。知らないので、対処に困るなあと思っていたが、本人いわく違うらしい。助かった。
「じゃあどういうふうに体調悪いか教えてよ。なんにもできないよ」
「いや、だから、しなくていい」
「がんっこだなぁ」
ざっと観察する。どこか特定の場所を押さえているわけではないし、腹痛の線は薄そう。昨日新幹線で会話した時点で相当寝不足だったのは知っている。
「……っ、おい」
ノーモーションで額に手をかざす。自分のと比べて少し熱いかな。手首を掴んでこようとする動きから軽々と逃げて聞く。
「頭痛は?」
「ちょ……っと、痛い」
握りしめたシャツが手遅れな皺になっている。これは、だいぶ痛いってことだ。きっと。前の体育祭のときも膝の具合を隠したままリレーを走ってあとあと大概なことになってたし、春先に授業の実験で人をかばって腕を火傷したときも大騒ぎする周りをよそに全く痛みを表に出さなかった。普段から痛がっても誰にも助けてもらえなかったのか? ああいや、そんなわけないな。彼には久人君という仲の良い相手がいる。じゃあ逆だ。心配させないために痛くないふりをしているんだ。
私のことを本当に嫌いで弱みを見せたくないなら、もっと抵抗するだろう。そんな感じじゃない。一連の言葉は相手のための逃げだった。しょうもない。
教師に言うべき。それはわかっていたが、諸々の手順を考慮したうえで面倒だなという結論に至った。
「ねえ、ちょっとぐらいなら歩ける?」
「いや、だから」
「いやもうそういうのいいから」
徹底してるのもかったるいなぁ。
このあたりも何回か来たことがあるから、生徒が寄り付かなさそうで静かな場所も知っている。方角を変えて横道を抜け、少し歩いた先に寂れた展望台があるのだ。適当に教師をちょろまかして向かう先を変える。理由がなければ私は真面目だけど、理由があるなら悪さもする。昔の家族はそれをよく知っているだろうし今の家族も幸い皆理解がある。
お金を払う必要すらない程度の、チープな展望台。昔はちょっとしたアイスや食べ物の店があったけれど、今は根元に売店があるだけだった。しかし高い場所で、見晴らしは良い。エレベーターで昇っている途中、雪君はぼんやりと、でも珍しそうにあたりを見まわしていた。
展望ガラスは外側が少し汚れているが、座席周辺は古びながらも清潔だ。クッションがへたれているのが難点。雪君を座らせて、自販機でジュースを二本買って無理やり持たせる。私も隣に座った。あ、甘いの嫌いなんだっけ。
「静かでしょ。さあ寝なよ。子守唄でも歌う?」
「いらない」
「じゃあなにか話そうか?」
「……」
無言は肯定。君の言う通りにしよう。外の景色を見たまま、声を静めてささやく。
「修学旅行、楽しみじゃなかったの?」
「そんなに」
「もったいないなぁ」
「お前こそ」
少し後ろめたそうに言う。今更殊勝になるなんておかしいな。やっぱり無愛想に見えてそんなことはない。周りが評するような冷血人間なんかじゃないんだ。虐げられる下級生の盾になっているのを何度も見ている。やり方が下手なだけで、彼はいつも優しい。
「私、この辺何度も来たことがあるから。親戚の家が京都駅から地下鉄一本のところにあってね。ここも小さい頃よく連れてきてもらったよ。昔はおいしいアイス屋が常駐していて、よく買ってもらったんだ。抹茶味がおいしくてさ。いつもこれでいいの? って言われるんだけど、それがおいしいんだから仕方がないよね。
なんなら午前に行った博物館も行ったことあるし。泊ってる旅館とかは初めてだけどさ。当たり前だよね。いつもは親戚の家に泊るんだから。温泉好きだから、ゆっくり入れてよかったなぁ」
相槌はない。横目で見たけど、まばたきが多くなってるのはわかってるんだから早く寝ればいいのに。
「なあ、なんでここまですんの」
「……結構今まで世話になったりしたりしてると思うんだけどなぁ。じゃあ逆に私が具合悪かったらなにもしてくれないの」
そうとは言わせないぞ。今までの自分の行動を思い出すんだ。部での言い争いに無関心にならず、きちんと消火の手助けをしていた。他パートの困っている後輩にリズムを教えていた。誰もが嫌がる肉体労働は必ず雪がやった。私は手伝ったけれど、大して手伝いにはならなかったな。往復の数は君が一番で積載量も飛び抜けていた。簡単な楽器の修理だって出来て、でもそれを振りかざして自慢することはなく、先に私に相談してから、朝早くひっそりと不具合の多いトランペット、サックスを直してくれた。
それからあの音。誰よりも君が真っ直ぐに楽器と向き合っている。凪いだ心が映す、本当に綺麗なあの絵。もったいないなぁ、私の脳から直接印刷して皆に見せてあげたい。
魅力があると思うんだよ。それに面倒見がいい。友達を作ってやりたいなんて思わないけど、孤立することはない。
雪は目を逸らした。
「……しないんじゃない」
こんなに嘘をつくのが下手な人間がいるのか。呆れを通り越して私は感動した。見るまでもなく真っ白な嘘だ。
「君って普段から旅行とかしないの」
「ない」
「じゃあほんとにもったいないな。早く治して夕方からでも遊ぼうぜ」
「……昨日言ってた店に行くの?」
はっとして真横を見た。雪はぼんやりした目で遠景を見ていた。案外ちゃんと取り合ってくれる。胸の底でかすかな手応えを感じた。長く押していた家具が少し動いて、ちょうどいい場所に移動したみたいだった。
「そうだよ。古本屋もいっぱいある。久人君にお土産買おうよ」
「俺本なんかわかんないよ」
「私もちょっとしか知らないよ。いいんだってお土産なんか九割気持ちだよ」
ちょっと寝る。雪がそう言ったから、私は良いよと言った。ゆらゆら揺れる体をなんとかこっちに寄せて、努力して支えた。それから私はカメラを取り出して、おばあさまに見せる写真を撮るために、展望台の窓の向こうへピントを合わせた。