004.夜へ落下
高校生
1.
錆ついて動かしづらい通用口を閉めると同時に、音楽を再生する。今日は勤務中、面倒な客が来て疲れた。早く家に帰りたい。けれど空腹のときの方が飯がうまいのと同じで、疲れているときの方が音楽は沁みる。電子音の海に潜り、暗い道を行く。薄く伸びていくシンセストリングスが重なって溶けていき、やがて歌声の入った2曲目に繋がる。aqua ballの『水濫』を、どれだけ聴いても聴き飽きない。疲労でぼやける空洞状の頭に、ピアノのフレーズが響く。
信号がなかなか変わらない。いつもと大して中身の変わらないリュックが重く感じられる。
ふと見下ろしたスニーカーがぼろぼろになっていて、街頭に照らされたその色がくすんでいる。以前雨が降ったときに水が入ってきたのを思い出して、買い替えの時期を悟った。俺としては同じもので構わないのだが、もう店には置いていないだろう。随分前に買ったから。
バイトが終わって真っ先にウォークマンに触れたのに、スマートフォンを確認していない。フォローしているアーティストが新しい曲をアップロードしていた。リストに追加する。時雨からメッセージがあったけれど、急ぎではなさそうだから放っておく。クラス全体のグループで宿題の範囲を聞いているやつがいたけれど、もう返答があって会話は終わっていた。タイムラインを流し見する。aqua ballの新しいアーティスト写真が公開されていた。珍しくユキがピースをしていた。その指がかき鳴らすソロを反芻する。
2.
そうしているうちに、マンションに着く。今日は週の真ん中で、ゴミ出しをする必要はない。エレベーターに乗ると、空気が少し冷たかった。最上階まで上がって、そこでちょうどアルバムの3曲目が終わる。
もちろん暗い部屋なので、電気をつけていく。玄関先、自室、ダイニング、洗面台。イヤホンを外して、手を洗ってから冷凍のご飯と、レトルトのおかずを温めた。ダイニングのテーブルについて、壁を眺める。電子レンジの動作音と自分の呼吸の音がする。
PCを起動して、ストリーミングサイトに接続する。登録しているいくつかのチャンネルのうち、最も規模の大きいもののライブをクリックした。ヘッドフォンをした女子が1人、小さなライトだけが照らす部屋で本を読んでいるループアニメと、ローファイヒップホップが流れる。画面の世界は明けない夜で、大きな窓の外ではネオンが明滅する。チャット欄には英語が溢れている。
Welcome "deer_818" ! Here's your coffee♫
botが仮想のコーヒーを差し出してくる。流れる音楽の作者を称えるコメントや、今から勉強をすると意気込むコメントなどが、現れては消えていく。穏やかなテンポで揺れるギターのフレーズが部屋を満たす。同じような雰囲気の膨大な数の曲を、ずっと流しているチャンネルがいくつもあって、高校生になってからはよく聴いていた。
PCがあるのとは別の小さなサイドテーブルに食器を並べて遅い夕食を取る。バイトが始まる前に食べておけばいいんだろうけれど、今日は学校に残って宿題をやっていたから時間がぎりぎりになってしまった。さっきクラスのグループで聞かれていた範囲の分だ。せっかく時間を取ったけれど、わからない問題がいくつかあった。
チャット欄は誰かの発言を皮切りに、
16:38 Ankara
21:40 Beijing
08:42 LAX
13:44 here
時間と場所で埋まっていた。そんなもの、世界時計を検索すればすぐにわかるのだけれど、チャット欄に打ち込まれるだけで、そこに誰かがいて、その誰かが確かにこのライブストリーミングに入力しているのだという感じがした。チャット欄の英数字は、彼らの存在に輪郭を与えているようだった(すべてがbotの賑やかしである可能性もある。俺はそうであってもいいと思う)。
俺も箸を置いて、
22:46 JP
残しておく。
3.
一人のためには浴槽に水を溜めるのも面倒で、大抵バイト帰りの日はシャワーを浴びて済ませることになる。バイト中に『風呂に入っている間に鼻歌を歌う』と客が話していたのを思い出して、俺はあまり歌を歌わないなと思考が流れた。どちらの声で歌えばいいんだろう。そういえば、どこまで低い声が出て、どこまで高い声が出るんだろう。結局は誰の前で歌うかということが重要だから、一人の今はなんでもかまわなくて、その曲に合っていればいいのだろうか。
中学の合唱コンクールのときが最後だと思う。ほとんど聴こえないぐらい小さい声で歌っていた。熱意を持って皆を指導する女子たちには申し訳なかったけれど、本当にやる気のないやつだった。三年のときは伴奏担当が急に骨折して交代させられたから、本番では歌わなかったけれど。そのときは偶然、知っている曲だったこともあって練習が間に合ったものの、あんなにぎりぎりで弾くことになるのは二度とごめんだ。
熱いシャワーを浴びて、もう遅いからすぐにあがる。脱衣所に置いておいたスマートフォンは音楽を鳴らし続けている。着替えながら、こういう音階でやれば落ち着く雰囲気になるのかと耳で感じる。今まで聴いてきたメロディーは、ずっと自分の中に降り積もっていくが、覚えきることは難しい。無意識の底に残っていたら良いなと思う。向こう側には何も持っていけないから。
俺はたくさんの音楽を聴くけれど、好きも嫌いもきちんとあった。好きの範囲が広くて、嫌いの範囲が限定的なんだと思う。俺はメロディーが好きだった。他人の言葉が聴きたいんじゃなくて、メロディーが聴きたい。人の歌声はあってもなくてもよかった。ボーカロイドはたまに聴く。初めから楽器のようで親しみやすさがあった。
真っ直ぐ響く、抑えられた痛切さに心をかき乱される。無感動だと言われることが多いけれど、音楽を聞いたときの感情の動きは、容易く俺を揺さぶってくる。でもどうやってそれを言葉にすればいいかわからないし、言葉にしたところで誰にもそれは伝わらない。俺のような感じ方をする人間を連れてきて、同じ曲を聴かせるしかない。
リビングに戻って、自室を除いたすべての照明を消した。玄関先の床下にあるたくさんの備蓄から一本、水のペットボトルをとって自室に戻る。スマートフォンは音楽を鳴らし続けている。
4.
部屋の照明を消した。イヤホンをつけて、窓の外を見る。電光掲示板が瞬く。また再生ボタンを押して、今度はRei Harakamiのアルバムを聴く。目の裏にコンビニの光がまだ残っているような気がする。籠った都会的な電子音が踊っている。向かいのマンションに、まだ電気の着いている部屋がたくさんあった。
眠りに着いた瞬間に切り替わる世界。青灰色の薄暗い街。ビルとアスファルトで埋め尽くされる視界。15.734 kHzの音がする。毎日同じ世界の夢を見る。ここに人間はいない。物体に触れる感覚は無く、自分の存在さえも空虚だ。
次も、帰っていけるだろうか。
次も、帰りたいんだろうか?