003.絶海
高校生
一瞬で青暗い世界に落ちる。
例えば、朝学校に向かうとき
例えば、合奏の途中で
例えば、久人と話しているとき
暗い部屋、眠りに落ちるとき
周期があるなら、俺もとっくに認識できているはずだ。強いて言えば、中学生ぐらいのときから、夢だけじゃなく日中でもあっちに移ることが増えたというぐらい。
あっち。向こう。あの場所とはなんなのか。俺にもよくわかっていない。夢の中で、俺はいつも同じ街に立っている。物心ついたときからずっと同じ場所の夢を見るから慣れたけれど、現実にあの場所と合致する景色を見たことはない。空はずっと暗く、雨が降りやまない。やまない雨は冷たくもなく、俺はあの場所で何に触れても感触を得ることはない。視覚と聴覚だけが機能する場所で、俺は自由に動き回る。
街は静まりかえっている。有意なメロディーを聴くことはない。どこか遠くで、長い長い低音がゆっくり響いている。
街の全てが色褪せたブルーグレーの色調で、まともに色がつけられているのは俺だけではないかと錯覚する。
スタート地点は同じときもあれば違うときもある。いちいち覚えていないけれど。
ビルが多く、都会的な場所ではあるが、やはり人はいない。俺の行動に制限はなく、どの場所に向かっても扉はかならず開く。開けたドアは毎回閉めないでいる。そうすると、別の回で同じ場所に行ってもそのドアは開けられたままになっている。住宅に入ると、家具なんかはそれらしくおいてあるものの、冷蔵庫の中には水かサイダーか携帯食料しか入っていなかったり、本棚には中身が全部白紙の本しか入っていなかったりする。内装はそれぞれ違っているが、既存の家から人と、その人を象徴する個性的なものを全て引き抜いて一様に仕立て上げたようながらんどうの空間ばかりが並んでいる。
ビルの屋上から街を一望していて、遠くを見ようとして足を踏み外したことがある。
夢の中で死んだらどうなるのだろうと考える間もなく、俺は落下した。したはずだったけれど、何も起きなかった。どさりという音はしたが、俺の体に痛みはなく、すぐに起き上がることができた。そのとき、本来なら感じるであろう体の接地面の感触がなく、俺はこの場所ではなにものも俺に害を及ぼすことがないのだと悟った。
だからといって行動に変わりはない。疲労を感じない体でひたすらに歩き、目についた建物をあらため、何もないことを確認して次の建物に向かうだけだ。
どの建物の電灯も死んでいて、道路に立っている街灯と、空の光源が頼りだ。太陽の動きが見えないため時間経過はよくわからない。もしかしたら太陽も月もなく、雲の向こうに適当で巨大な照明が設置されているのかもしれない。
時計は全部止まっている。デジタル時計は画面に何も映さない。
学校にも誰もいない。不思議だったのは、文字がないことだ。文字が書かれているであろう場所は全て白塗りになっており、思い返すと道路の標識や様々な看板も、そうであったことがわかる。
駅と線路はあっても、やはり動くものがない。一度線路をたどっていくと、駅間の中途半端な場所で立ち往生している車両を見つけた。車体の型はどこまでも無個性。電車には詳しくないが、記憶を漁ってももちろん見たことのない車種だった。数えると一両目から八両目まである。運転席から車掌室まで誰もいないことを確認して、ロングシートに寝転がる。窓の外にはやはり動かない街があって、その日はそこで終わった。
道路には車が止まっているときがある。この街の規模にしてはずいぶんと少ない。もちろん中には人がいない。乗り込んでもキーがないので運転できないことに気づく。扉が開くのは俺が動かしているからで、なにかしらのきっかけがないと駆動できないようだ。後ろから人力で押すとゆっくり動くが、あまり意味がないので早々にやめた。
起きているときにもあの場所に行くことはある。目の前に話し相手がいるのに、一瞬で目の前が暗くなってあの場所にいることがある。戻ってくるまで時が止まっているような感じで、俺の反応速度以外は相手に違和感を与えないみたいだ。一瞬の間を引き延ばして転送されているらしい。
幼い頃、人は毎日違う夢を見ると知らなかった俺は、久人に聞かれるままあの世界の話をしていたが、現実から直接あの世界にいけるようになってからはすっぱりと止めた。それが荒唐無稽であることぐらい俺にもわかっていたからだ。
俺にはあの世界の真相を暴きたいという欲求はない。そういうものだと割り切れるようになった。
久人や時雨がいる方の世界にいる時間が長いので、こちらを現実世界だと思っているが、あの青暗い世界が現実なのかもしれないと考えたことは数知れない。青暗い世界における五感の欠如を異常だとみなしているが、もしかしたら、俺にとってはあちらが本当なのかもしれない。
そんなことを考えながら夢の中で動き回っていたから、中学時代はいつも夢うつつでぼうっとしていた。そこに成長痛とか、部活のストレスとかが乗っかって、現実に手を抜きすぎた結果、
「どうしたの?」
……こいつに借りを作ってしまったことがある。
「なんでもない」
誰にも話せない秘密を抱えて何年も経つ。多分、久人にも、そして声をかけてきた時雨にも、俺に話せない秘密があるんだろう。だから俺の夢も、きっと特別ではない。
足を踏み出した先は、あの青い世界だった。