001.がらくたになりうるものたち
高校生
日曜日には、電車とバスを乗り継いで田舎町へ向かう。その街には祖父の家があり、祖父はすでに亡いが、俺はその家と別棟の鍵を持っている。鍵を開けて、買っておいたコンビニの弁当を食卓の机の上に置く。父の希望で定期的な清掃を業者に頼んでいるため、埃はない。仏壇に頭を下げてから、俺は別棟に向かう。
祖父は俺が中学一年生の春に亡くなった。彼は楽器とレコードの蒐集家だった。レコードは父と祖父の友人が分けて引き取ることになっていたが、楽器は吹く者もいないのに持っていてもしょうがないと入院後から買い手を探していたようだ。昔の俺は、祖父について別棟に入り浸っていた。
いや、今もか。
祖父自身、学生時代は吹奏楽部に所属し、社会人になってからも地元の楽団でホルンを吹き続けていた。別棟には小規模な室内楽編成を組めるぐらいの数の吹奏楽器がある。俺は小学校から帰るとそれらすべての手入れの仕方を教わり、時には吹いてみたりもして過ごした。父の仕事が珍しく休みになったときは、書斎でレコードを聴くこともあった。
保管室のドアを開けて電気をつけると、涼しい風が体を撫でた。本棟の電気は止められているが、こちらは楽器のため常に空調が効いている。1Lのペットボトルの紅茶とコーヒーをドアの外に置いて、俺は楽器のそばに近づく。
祖父は楽器を売る話を父にしていなかったらしい。それを聞いた父は、俺が楽器に親しんでいたこともあるのだろう、なんとかして家に置いたままにできないかと頼み込んだ。俺はその会話を隣で聴いていた。息子の意外な頼みを聞き入れたい祖父の気持ちは、俺にも伝わってきた。温い暖房の風を何度か吸って口を開く。
「俺が診るよ」
そんなわけで、暇な日曜日、俺は一日かけてこの家にある楽器を手入れし続けている。
昼休み、隣のクラスからやってきてまっすぐ俺の席に近づいてきた時雨に屋上へ誘われた。久人の方を見ると、手に持った本を指さされて、手を合わせて頭を下げられた。図書委員会の当番だ。昼休みの当番は3限が終わってから図書館へ急がなければならない。開館時間は、3限が終わった5分後から。久人に手を振って、俺は時雨に向かって、上を指した右指を見せる。教室で言い合いをしたくない。
アルミホイルに包んだおにぎりとタッパーに入れて解凍された冷凍食品、ペットボトルのお茶が今日の昼飯だった。時雨は小さな弁当箱に上品に詰められた綺麗な弁当を食っている。少し見ると、おかずは和食ばかりだ。
「なにかこの中で好きそうなものはある?」
「え、なんで」
「欲しいのかなって」
「俺は他人の弁当からものをとるような人間じゃない」
「いやでもおいしいよ、これとか」
ちょいちょい、と箸を握りこんだ手の人差し指でだし巻き卵を指す。
「いらねえよ。全部自分で食えよな」
「はーい」
くすくす笑って時雨は箸を進めた。今日はよく晴れていて、空が青い。部活をやっている学生の大半は休み時間に早弁して部室に行ったり体育館で汗を流したりしている。屋上はさほど混まない。時雨は朝練はやるけれど、昼はまちまちだ。うまいけど、音楽室に張り付いているタイプじゃない。
「それって雪君が自分で作ったの?」
「まあ」
「すごいね。ちゃんと自分のことが自分でできている高校生なんてなかなかいないよ。君は中学のときからしっかりしてるなぁ」
「どこから目線だ」
といっても毎日作っているわけじゃない。昨日の夜暇だったから作っておいただけで、朝起きてからは日課のランニングとシャワー、食事で登校時間になってしまう。
「雪君は、休日って何をして過ごしているんだい?」
時雨とこういう話はあんまりしたことがないなと思った。方や吹奏楽部の人気キャラクター、方や帰宅部の独り身で、話す機会は少なかったからだ。未だ認識は付き合いの長い知り合い止まり。今日なぜ急に俺を昼に誘ったのかもわからない。気まぐれは面倒だが断るのも面倒だ。
祖父の家においてある多数の楽器、それを俺が手入れしているという話をした。そうでないときは自宅の掃除。そうでないときは久人に誘われて本屋やら映画やらにつきあっている。日曜にバイトは入れない。
「へえ、じゃあお祖父さんの家にはトランペットとかもある?」
「5本ある。コルネットは2本。変わり種含めるともっと」
「いいなぁ。でも中学のときって学校の楽器使ってただろ?」
「中学で自分の楽器もってくとか目立ち過ぎるだろ」
あと、中学生は思ったより楽器の扱いが雑だ。コンクールや野球部の応援ともなると、運搬が絡んでリスクも高くなる。不特定多数の他人に触られることを思うと、学校所蔵の安い楽器を使っていた方が気が楽だった。
「なるほど」
時雨は一つ大きく頷いてから、そのまま塩鮭を食べ進めている。
「お前は自分の楽器持たないのか?」
「私の好きでやってることだし、そこまで家に面倒かけられないよ。高いしね」
「へえ」
他人の家に首突っ込むようなタイプじゃないけれど、自分は昔から家に専用の電子ピアノを持っているのでなんだか気が引ける。
「大学生になっても続けていたら、そのときに自分でバイトして買うよ」
大学生になったら、じゃなくて、続けていたら、なんだ。
「そのときは一緒に選んでよ。やっぱりストラドがいいかなぁ」
「は? 一台目から調子に乗り過ぎだろ」
最近、こいつと話すときに壁が取れていく気がする。他人と話すのって難しいな。
終礼が終わって、鞄を整理していると久人が話しかけてきた。うちのクラスは部活に入っている生徒が多いらしく、教室はものの数分で空に近くなる。
「昼はごめんね」
「いや全然。当番おつかれ」
「ありがとう。残る?」
「帰る」
鞄を背負って靴箱へ向かう。
「今日バイトは?」
「ないよ」
「暇?」
「暇」
「晩御飯うちで食べていきなよ」
「マジ?」
「マジマジ。冷蔵庫の中身からして今日は鍋だね」
ちょうどここ最近食べたかったから、悩んでしまう。涼しくなってきたし鍋は家でもよくやるけど、片手鍋を一人でつつくのと土鍋を大人数で囲むのとはわけが違う。
「肉? 魚?」
「牛肉だよ。父さんの実家からたくさん送られてきたんだけど、兄さん今日忙しいんだって」
「なるほどなぁ」
つまり、消費を言い訳にしていいから来いということだ。霜坂家はそこまで大食いじゃない。俺はポーズだけのため息をついて久人のおばさんにLINEを送る。霜坂の家で飯を食べさせてもらうのは、俺が小さい時からよくあることだ。おそらくおばさんとは自分の親よりもよく喋っている。
「昼は時雨さんと食べたの?」
「断る方がめんどくさかった」
「貴重な友達じゃん。大事にしなよ」
そう言われるけれど、すんなり認められるわけでもない。友人が少ないのはもう諦め始めていて、どうでもいいかとすら思っている。中学のときから何かと喋りかけてくる時雨は、一体俺のどこが気に入っているのかわからない。俺は「わからない」相手のことは苦手だなと常々思う。
「休みのときの話した」
「お休みの日は何をされていますか?」
「そう。楽器倉庫の話」
久人は俺に付き合って何回かあそこに行ったことがある。楽器に関しては門外漢だから、来ても本を読んでいるか、パソコンでプログラミングをしているだけだけど。ここら辺と違って静かなところがいいんだそうだ。バスで電車の駅まで戻ると古本屋があって、そこに寄るのも好きらしい。
「時雨さんってトランペット担当だよね。今度暇なときに誘って連れて行ってみたら?」
提案が意外過ぎたせいで、顔を突き出して「え?」と言ってしまった。休日まで一緒に連れまわるような仲ではないつもりだけれど、楽器を渡しても丁寧に扱うだろうということは三年間の部活動生活でわかっている。要するに、
「良くもないけど嫌でもない?」
とりあえず頷いておく。俺はなんとも微妙そうな顔をしていることだろう。
電車が来ている気配がするけれど、急ぐわけでもないのでエスカレーターで立ち止まったまま話をした。右側を小学生の集団が走り抜けていって、久人が「危ないなぁ。大丈夫かな」と言っている。電車のドアが閉まったときにホームに着いて、俺達は誰もいない待合席に座った。
「帰り寄りたいとこあるから、先家に行っといてもいいけど」
「まあ暇だしいいよ」
「餌がね、そろそろなくなりそうだから」
俺は音楽関連の趣味しか持ち合わせていないが、久人は多趣味で、読書もやるしゲームやアプリを作るのも好きだし、アクアリウムも盆栽も好きだ。後ろ二つは俺の楽器いじりと似たような経緯で、親戚に勧められてハマってしまったと言っていた。「金を食う趣味だよな」と言ったら「将来、雪が楽器集めやオーディオ機器にハマるのを楽しみにしているよ」と返された。隣で聞いていた久人の兄は「一回ハマると大変だぞ」と言っていた。注意したい。
「 」
特別快速が通り抜けているので全然聞こえない。通過音が収まるまで待ってから聞き返す。
「ごめん、なんて?」
「吹いてて一番楽しいのってどの楽器?」
他人に聞かせられるほどのものではないけれど、祖父やその友人に教わったおかげで、一通りの所蔵楽器は吹くことができる。でもその中で一番楽しいと言われると、すぐには答えられなかった。というか、吹いていて楽しい、演奏していて楽しいって、どんな感じなんだろう。
楽器の調整と手入れは、なんというか、あるべきものをあるべきところに戻す安堵感を伴っているように思う。でも、演奏はどうだろう。俺は失敗もするし、基本的な技術はプロにはかなわない。パーフェクトにうまいわけじゃない。ピアノもほかの吹奏楽器も、ミスなく不自然なくフレーズを終えられれば安心はする。けれど、楽しいってどんな感じなんだろう。
でも楽しいってどんな感じ? って聞きたくないな。小学生でもわかりそうなことだ。わからないけど。
「音色が一番好き、とか」
助け舟を出される。
「……アルトとかペットとか?」
でも普段俺は吹奏楽を聴かない。
「中学のときそういうのやろうって思わなかったの?」
「どっちも人気なんだよ」
希望用紙を出すときに、周りで「トランペットやりたい」とか「アルトサックスがいい」とかいう声がたくさん聞こえて、俺は一番上から順にトロンボーン、ホルン、バリトンサックスと書いた(チューバだけは祖父の家にもなく、俺は慣れていなかった)。その頃から、俺には多分中低音が似合っていた。ちょうどよかった。
別に音なら全部好きだと思う。だからなんの不満もなかった。これが返答の正解だったかもしれない。
「優しさに溢れてるね」
「そんなんじゃねえよ」
休日、朝起きてリビングに出ると、出勤の準備を整えた父がちょうど出かけるところだった。
「今日は帰れる?」
「ああ、晩御飯は一緒に食べられそうだ」
傘を持って家を出た父の後姿を見て、今日は雨かと気づく。洗顔の水の冷たさがきつくなってくる頃だ。簡単な食事を摂り、ウェアのパーカーを被ってランニングを済ませた。シャワーを浴びてもまだ九時半だ。リュックに道具が入った巾着を放り込んで財布とスマートフォンを確認し、再び家を出る。
秋なのでボブ・ジェームスのアルバムを流す。贅沢なピアノの音色とサックスの音色が絡んで薄曇りの街を照らす。最近になって、Youtubeのサジェスト機能が優秀になったような気がする。アカウントをきちんと作って、気に入った曲をリストに入れる作業を怠らなくなると、普通にしていたら出会わないようなアーティストを教えてくれるようになった。父の好みがフュージョンに寄っているので、そういった曲を再生していたらトップ画面でこのアーティストが目に留まった。ジャズチックなフレーズを弾くのは難しそうだと思う。
軽いスネアの音を体に刻みながら駅舎を出る。ちょうど曲が終わる。フェードアウトさせてイヤホンを外す。コンビニに寄って、唐揚げ弁当と1Lの麦茶を買う。それからバスに乗り込んで、一番後ろの定位置に座った。休日でもこの路線は人が少ない。
祖父の家には、バスに乗車して20分ほどで着く。林を抜けたあたりで降車ボタンを押すとちょうどいい。雨は一旦止んでいるようだ。バス停はそっけないものでベンチすらなく、ただ時刻表を兼ねた標識がつったっている。
まずは鍵を開けて本棟に入る。ビニール袋から弁当と割り箸を出して食卓に置く。仏壇に入って挨拶をする。しばらく頭を下げてから、別棟に向かう。
保管室のドアを開けて電気をつけると、調整された空気が体を撫でた。ペットボトルの麦茶をドアの外に置いて、俺は楽器のそばに近づく。リュックから取り出した道具入れを机の上に置いた。まず棚からサックスのケースをおろし、すべて開く。今日はこいつを念入りに診る日だ。おかしなところがあれば持ち出して、帰り道にある楽器屋に預ける。簡単な修理なら覚えたけれど、木管楽器はやっぱり難しい。楽器屋は祖父の学生時代から続いていて、俺が行くと奥からおじさんが出てきてゆっくり丁寧に症状と対処法を教えてくれる。
ここは静かだ。普段学校にいると、雑音が多くて驚く。"あの場所" も人はいないけれど、それでも一様な音が鳴っている。ここは、静かで、息がつける。長い年月を蓄積させてきた楽器に囲まれる静寂。本来音を出す役割のものたちを、ここではずっと、博物館の化石のように保管している。