肉体感/身体性
「過剰に可視化された情報による身体性の欠如」
何を言いたいのかというと、人間が実物の月を見て感じる感情と、絵に描かれた、または画面に写された写真なり動画なり漫画なりを見て心に浮かぶものは、根本的に全く異なる、ということだ。 しかし同じことがひとつあるとすれば、心の動きである。
実物の月を見て動いた心と、同じ動きが平面の写真や絵や動画から伝われば、それが表現としては正解なのである。 ある意味で、表現というのは、お互いの心象風景のなかで、θ(テータ)リンクを形成するのに近い。 θリンクがなんなのかということに関しては、加藤文元先生の名著「宇宙と宇宙をつなぐ数学」を参照されたし。数学の本でありながら数式がそんなに出てこないので読み易いはずだ。 https://gyazo.com/de563c99a78875307d6814a8ef637a6f
今後はデータの幽体的存在感を意識した作品を作っていくかもしれない. 今, 映像というバーチャルなものと, 身体やロボティクスというマテリアルでできたものがこの世界のコンピューティングや表現の中心になっているが, それを超えてどうやってマテリアルでもバーチャルでもないものを生み出し, その存在を知覚していくのか. これから我々がデジタルヒューマンに変換され, 時間や空間の障壁を超えて世界中に存在できるようになったとき, その存在はどういうアナロジーで語られるべきか. 僕はそれを幽体だと思っている. 冒険を続けてきたことで、次第に錆が落ちてきた感覚、というのも私にはある。勢いに任せて北極を歩いていた若い頃、冒険中は今のように感覚が開く感じは自覚していないのだが、無意識の自分はスイッチをオンにしようと頑張っている。北極の少ない情報量の中から必要な情報を観察し、先々の変化を察知しようと頑張っているのだ。雲の流れを読み、海氷の変化を観察し、ホッキョクグマの存在に耳をそばだてる。全ては自分の身を守るためだ。錆びていながらも、スイッチはそれなりに作動して冒険が終わる。 自分が何か事を起こそうとする遥か以前から、身体と脳内ではすでに準備は行われていて、実際に事を起こそうと意識された時にはあらかた準備が進んでいる。そんな感じだ。 ダマシオによれば、これは身体を通した情動が脳に大きな影響を与えているという。つまり、身体性を高めていき、高度な身体感覚を持った人はより高度な予備選抜が可能となっていく、ということに他ならない。