減速主義との関係
なんか全体的に加速主義も減速主義も金持ってるやつ同士がなんか言い合ってんなって印象
もとが資本主義に対する立場の違いだから当然と言えば当然
若干加速主義よりな文章
加速主義よりというより、加速主義に迎合したくないが、あまりに減速主義に穴が多いのでそれに言及せざるを得ないといった感じの文章
資本主義に対抗する活動も資本主義に取り込まれるという皮肉
加速といわれる情景を三つの側面(技術的加速・社会変化の加速・社会リズムの加速)から分析し、近代化の歴史を、「時間性」――つまり人々が「時間」をどう認識するか――の根本的な変化の歴史として描き出す。
マクルーハンの「メディアはメッセージだ」という言にも通じる?waranziya.icon スケール・ペース・パターンを変化させるメディアの性質の内、特にペースがここでは重要かもwaranziya.icon
減速主義者にとっては「良き人生」の探求が、その社会学的関心の核を占めることになる。良き人生、それはローザによると、「疎外」とは対立する概念である「共鳴」(resonance)の経験を通じて可能になるものだ。
人(=主体)と世界(=客体)とのあいだには、多様なかたちの関係性が結ばれ得るのだが、そこにおいて人が自らの身体や感情を、周りの自然環境や他者といった外部の存在と調和のうちに経験することができるとき、それは「共鳴」として経験される(そうでない場合は「疎外」として経験される)。こうしてローザの社会学は、人と世界とのあいだの「健全」な関係を規範的に提示するという、極めて良俗的で啓蒙的な教説へと変容する。
私の言う「高潔」「気高い」はこのことでは?
減速主義には
「不本意な」減速主義と(加速レースに耐えられず精神疾患を抱える人など)
「意図的な」減速主義があり、
さらに「意図的な」減速主義は
「イデオロギー的な」減速主義と(反近代的な理想を掲げるがために減速をめざす人など)
「加速的」減速主義がある(より効率的で生産的に、加速社会へと参加することを目指す人)
「意図的な」減速主義者は、テクノ資本主義の齎す余剰の再分配にまつわる問題には目を背けている
加速と減速にまつわる問題系を、社会的・構造的に共同で取り組んでゆくべく「パブリック」な課題ではなく、個人の倫理的責任とその行動の問題として「個人化=私有化」、あるいは、哲学者J・バトラーの言葉で言うならば、「責任化(Responsibilization)」してしまう
Pokemon Sleepはこれの亜種では?waranziya.icon
「スローライフ」ではないが、「ゆとりをもった」「健康的な」行動は、資本の投機対象とされている
少し違う話かも