ブラバンディアのシゲルスにおける心身論
知性単一性を主張
知性単一説を考えるための論点
1. 知性は,魂の他の能力(栄養摂取と感覚の能力)と同じ実体に属するか。
2. 同じ実体には属さないとした場合,その知性は全ての人々にとって単一であるか。
3. 知性が単一である場合,知性認識のはたらきはどのような意味で個々人に属するか。
【論点1】:知性は魂の他の能力と同じ実体には属していない
要は知性的能力と感覚知覚能力・栄養摂取能力はかつて魂に属し、魂が能力を発動させることで活動に移行する
活動に際し、知性は身体によらず、感覚・栄養摂取は身体が必須
ある人々の見解(アルベルトゥス・マグヌス?,トマス・アクィナス)
栄養摂取的なもの,感覚的なもの,知性的なものは,同一の単純な実体=魂に根ざしている
三つの能力を備えた魂全体が,外から到来する
知性的能力を媒介する → 身体なしにはたらくことができる
栄養摂取的能力と感覚能力を媒介する → 身体においてしかはたらくことができない
→三つのすべての能力は,外から到来するのに,身体との関係を通じては異なっている
→おかしい、とシゲルスは主張
理性的根拠による反証
栄養摂取的な能力と感覚的な能力が,質料の可能態から導き出されることは確証できる → そこで,栄養摂取的な能力と感覚的な能力とが,外部から到来するのだとすると、考えられる帰結は
より先に質料の可能態から導き出されていた栄養摂取的な能力と感覚的な能力が,新たに外部から到来した栄養摂取的な能力と感覚的な能力によって破壊されるのでなければならない
必然的に,一人の人間の中に二つの栄養摂取的・感覚的な能力が存在しなければならない
身体と一体化した栄養摂取的・感覚的な能力と、外部から飛来した栄養摂取的・感覚的な能力の二つをもつ
↔ しかし,どちらも不合理な帰結であるので、前提が誤っている
→外部から飛来する魂には知性のみが宿る、とすればよい
シゲルスの立場 ―― 知性的な能力と栄養摂取的な能力・感覚的な能力
栄養摂取的な能力と感覚的な能力は,同じ単純な魂に根ざしている
しかし,知性的な能力は,栄養摂取的な能力・感覚的な能力と同じ単純な魂に根ざしているのではなく,〈複合された〉同じ魂に根ざしている
→したがって,知性的な能力が栄養摂取的な能力と感覚的な能力と合一されるのは,複合された魂
においてである
というのも,知性は,単純であり、外部から到来するからである
シゲルスの立場 ―― 知性と身体との関係
知性が身体を完成するのは,その実体を通じて〔=身体の実体的形相〕ではない
身体の実体は、もう栄養摂取的な能力・感覚的な能力によって完成されているから
能力から導出されるはたらきは,能力の担い手である実体と釣り合いがとれている
→ だから,もしそうだとしたら,知性の活動は,必然的に身体を使用することになる
↔ しかし,これは,アリストテレス〔=知性の活動は,身体を必要としない〕に反する
知性が身体を完成するのは,その能力を通じてである
知性は,分離されうる可能性をもっている
→ はたらき/活動のレベルにおいて,知性が身体から分離できるのであれば,その実体も,身体から分離しているのでなければならない
→それゆえ,知性は,自己の本質を有しているのだから,自己のうちに存在をもつのであって,他のもののうちに存在をもつのではない
人間の実体は魂(形相)+身体(質料)
魂は単純な次元で栄養摂取的な能力・感覚的な能力による
じゃあ知性はどういう風に関与するのかというと
身体と知性は分離するので、知性が魂を構成することはできない
知性は能力として栄養摂取的な能力・感覚的な能力による単純な魂に参与する
ここにおいて魂は複雑な魂になる
→では、知性が属する実体(外部より飛来した魂)は、1人1つずつなのか?
【論点 2】:知性は数的に多数化されない
1. 個体化の原理は質料である
生成するものが何かを生成する場合,それが数において多であり種において一であるのは,質料を通じてでしかない〔アリストテレス『形而上学』第 7 巻 8 章 1034a4-8〕
↔ しかし,知性は,質料(身体)なしに存在する,それ自体で存在をもつ実体なのだから〔=【論点 1】〕,非質料的である
要はネコは個別同士では違う一匹一匹かもしれないけど、全部同じ「ネコ」として見れるのは形相たる「ネコ」という種のレベルで同じだから
→ したがって,知性は,すべての人々において単一である
2. 種の個体への分割は量的なものである
類が種へと分割されるのは質的〔=形相の相違〕であるのに対して,種が個体へと分割されるのは量的〔=質料の相違〕である
↔ しかし,知性は,非質料的である
→したがって,知性は,すべての人々において単一である
3. 一つの種の下にある個体の多数化の目的因
種的な存在それ自体は,数的に一つのものにおいては救われることができないため,個体を多数化する〔アリストテレス『魂について』第 2 巻 4 章 415b3-7 など〕
↔ 〔質料から〕分離したもの=知性においては,一つの種の下にある個体の多数化は必要ではない
→したがって,知性は,すべての人々において単一である
→ならば、「Aさんが考える」というのはどのようなことか
【論点 3】:表象を媒介する知性認識の「はたらき」
経験論の立場
リンゴに対して、五感=感覚でそのイメージを認識し、表象を作り出す
抽象化→概念(リンゴだ、赤いなど)を知性によって認識する
シゲルスの解答
後に現実態において知性認識されたものとされる表象された志向(intentiones imaginatae)が,我々と結びけられる
このことを通じて,こうした表象された志向が異なった人間たちにおいて多数化される限りにおいて,知性は,我々と結びつく
そして,こうしたことに即して,知性は,異なったものにされる。
とはいえ,知性そのものは,その実体に即しては単一であり,また,知性の力能(potestas)でさえも単一であるけれども
「我々」には、単一知性と結びつく感覚以上の能力は必要ないのか?
知性と我々との結びつきは,実体や能力の次元ではなく,はたらきの次元である
単一知性は,表象された志向に対しては可能態にある
→だから,単一知性が知性認識というはたらきを現実化するためには,形相としての表象された志向を本性的に必要とする
複数の人間の表象された志向はすべて,一つの意味内容(ratio)をもっている
→だから,単一知性は,人間たちがもつ表象された志向と限定的な仕方で関係している
感覚的表象の個別的認識と知性の普遍的認識との結びつきは保証されるのか?
表象された志向は,一つの意味内容(ratio)をもっている
知性認識が成立するための条件は,普遍性である
→だから,表象された志向がもつ普遍的な意味内容を〈抽象する〉ことが必要である
表象された志向から普遍的な意味内容を〈抽象する〉能力 ――「能動知性」
抽象された普遍的な意味内容を〈受け取る〉能力 ――「受動知性」
⇌ つまり,知性認識のはたらきが表象された志向に依存するとしても,表象された志向があるだけでは,知性認識を成立させることはできない
知性的認識の主体
知性認識のはたらきが結びつく我々とは,第一義的には「種としての人間」である
知性と「種としての人間」との結びつきの方が,知性と個人との結びつきよりも本質的である
⇌ つまり,知性と「個人としての人間」との結びつきは,付帯的に起こる(accidit)
というのも,人間という種も,それに結びつく知性も「永遠」だから
→したがって,われわれは知性認識のはたらきが自らの中で生じていることを経験するとしても,そのはたらきの主体は,われわれ一人ひとりではなく,個人とは離れた人類と本質的に結びつく単一知性なのである