copulaの分析
be動詞(「Aは…である」)は
1. $ a=b
2. $ F(a)
3. $ \forall x (F(x) \to G(x))
の3つにわけられる
1. タモリは森田一義である
2. タモリは芸人である
3. 芸人は芸能人である
これを区別しないと混乱する(タモリは別に芸人という概念と一緒ではない)
Bertrand Russellは、現代論理学の誕生によって、それまでの哲学史において提示されてきたさまざまな考えが異なる概念の混同に由来するものであることが示されると考えた
例えば、それまでの単純な「主語―述語」関係による文の分析においてしばしば混同される次の三つの相異なる関係は、現代論理学の記法によって明確に区別される
個体の同一性関係($ “ a = b”)
個体と性質の関係(“$ F(a)”)
性質と性質の関係(“$ \forall x( F(x) \to G(x) )”)
補足として、「リンゴは赤い」という日本語の文は、$ F(a)、$ \forall x(F(x) \to G(x))のどちらでもとれる
英語では起きえない曖昧さ
"The apple is red."といえば$ F(a)であり
"all apple are red."といえば$ \forall x(F(x) \to G(x))となる
この区別が曖昧なのではなく、普段使っている文が曖昧だということ
さらに、19世紀末の哲学者たちのあいだでは広く「実無限」の考えは矛盾を含むものと考えられてきたが、カントールの集合論やラッセルのタイプ理論は、無限集合を整合的に扱うことが可能であることを示している
現代数学では、同じ時期にErnst ZermeloとAdolf Fraenkelによって考案された公理的集合論($ \textbf{ZF})が集合を扱う標準的理論に
$ \textbf{ZF}は、素朴集合論のように自由な集合の生成を認めるのではなく、いくつかの公理によってボトムアップに集合を定義してゆくことで、ラッセルのパラドックスを解消