Aquinasの主張
1. 哲学とキリスト教信仰の関係について
前提
12~13cにかけてアリストテレス哲学の全貌が明らかに
キリスト教(信仰、聖書、啓示、奇跡) V.S. 哲学(自然学、存在論)≒アリストテレス哲学
table:
共通点 神は万物を創造した 全ての存在者の第一原因たるものが存在する
相違点 神の「無からの創造(creatio ex nihil)」 世界は永遠である
三位一体やキリスト復活 ∅
『神学大全』第一問題第一項「哲学的諸学問の他になお別個の教えは必要か」
哲学的諸学間の他になお別個の教えは必要ないとも考えられる。
1)理性を超えたものの追求は人間の試みるべきことではない。それは『集会書』第三章に「汝より高きものを尋ねるな」と語られているごとくである。他方、理性のもとに属する諸般の事柄は、哲学的諸学間において伝えられるところで充分である。それゆえ、哲学的諸学間の他に別個の教えは過剰であると考えられる。
2)教えの関わるところは「有ens」の他にはありえない。けだし、およそ知られるところのものは「真」の他にはなく、「真」は然るに「有」と置換されるのだから。然るに哲学的諸学間の取り扱うところは、あらゆる「有」にわたっており、神もまたその例外ではないのであって、さればこそ『形而上学」第六巻にアリストテレスの示しているように、哲学の一部門に対して「神学」の名称が与えられているのである。それゆえ、他には不要である。〔中略〕以上に答えて私はこう言うべきだとする。人間の救済のためには、人間理性を以て探究されるところの哲学的諸学間の他に、なお神の啓示に基づく或る種の教えの存することが必要であった。そのゆえは第一に、人間は神を自己の或る目的として、これに向かって秩序づけられているものなのであるが、この目的たるや、理性の把握を超えている。>〔中略〕だが、人間は自己の意図や行為を目的に向かって、自ら秩序づけなくてはならないのであるから、目的は彼らにとってあらかじめ知られていることを要する。かくて、人間理性を超えた或る種の物事が、神の啓示を通じて人間に知らされるということが、人間の救済のために必要だった。
―― ※意訳(要原文確認)※
人間は神をめがけて秩序づけられている
この目的は人間理性の把握を超えている
しかし、生きるにあたり自分で自分を秩序づけねばならない、そのために目的を知っていなければならない
この目的把握のために、哲学とは異なる教えが要請される
1)については〔...〕人間の認識以上の高次の事がらは、人間は理性によってこれを探究すべきではない。我々は却って、それらが神によって啓示されているところを信仰によって享受するのでなくてはならない。(…)そして聖教は、まさしくこうした事柄において成立する。
確かに理性を超えたものを理性によって追求すべきではない
啓示は理性によってではなく、信仰によって探究する
2)については〔…〕認識されるべきものに対する観点の異なるにつれて異なった学が導入される。例えば天文学者と自然学者は、両者同じ帰結を導く〔e.g. 地球は丸い〕が、前者は論証を数学、つまり質料の抽象された媒辞によって行うが、後者は質料を含めた媒辞で行う。だからして、或る事柄が、哲学的諸学問においては自然的理性の光によって認識されるものとして扱われ、また同じ事柄が、別個の学問においては神的な啓示の光によって認識されるものとして扱われても、何ら問題はない。
物事の認識に応じて別個の学問があり得る
一つの事柄について、哲学的視点も神学的視点もありえる
『神学大全』第一問題第二項「聖なる教えはscientia(学、学知、学問)であるか」
聖教は学ではない、とも考えられる。
1)学はすべて自明的な基本命題から出発する。然るに、聖敷の出発するのは信仰箇条からであり、信仰箇条はしかし自明的ではない。すなわち、それらは必ずしも万人の容認するところではない。「テサロニケ人への第二書翰」に言うごとく、「一切の人々が悪く信仰をもっているわけではないのだから」。ゆえに聖教は学ではない。
2)個別は学の関わるところではない。然るに聖教は、例えばアブラハム、イサク、ヤコブの事績など、個別を扱う。ゆえに聖教は学ではない。
他方〔…〕アウグスティヌスは『三位一体論』第十四巻に、「それによって最も救済的な信仰が生まれ、育てられ、守られ、強化されるところの事柄のみが、この学に着せられる」と語っている。だが、こうした事柄の属する学としては聖教以外には全く存在しない。ゆえに聖教は学である。
以上に答えて私はこう言うべきである。聖教は学scientiaである。ただし、学に二通りの種類があることを心得ねばならない。すなわち、一部の学は、知性の自然的光によって明らかとなった諸々の基本命題から出発する。数字、機何学等がそれである。これに対してまた一部の学は、上位の学の光によって明らかとなった諸々の基本命題から出発する。例えば〔...〕音楽学は算数学によって明らかとなった諸々の基本命題から出発するごとく。いま、聖教が学であるのはこの第二の仕方による。つまり、それは上位の学(すなわち、神〔...〕における知scientia)のによって明らかとなった諸々の基本命題から出発する。かくして、音楽の学が算数学の伝える諸々の基本命題を信ずると同様に、聖戦は、神によって自己に啓示された諸々の基本命題を信ずるのである。
1) についてはこう言わねばならない。それぞれの学の出発点たる基本命題は、自明的である場合もあれば、遡って上位の学の明証性に基づく場合もある。そして聖教の諸々の基本題がまさしく後者にするものであることは、上述のとおりである。
2)についてはこう言わねばならない。聖教において個別(的なもの〕がえられるのは、これらを扱うことがそれの主要な仕事だからではない。こうした事柄が購入されるのは、ときに愉理学におけるごとく生活の範例としてであり、ときにまた。聖書ないし監数の基礎である神の示が我々にまで到達する仲立ちをなした人々の権威を顕示せんがために他ならない
神の存在証明:『神学大全』第二問題第三項「神は存在するか」
神は存在しないとも考えられる。けだし、
1) 互いに対立する一方のものが無限なものであるならば、その反対のものは完全な無であるはずだ。ところで、「神」という名称には、或る無限の善が理解される。ゆえに、仮に神が存在しているとするならば、いかなる悪も見出されないだろう。だが我々の世界には悪が見出される。ゆえに神は存在しない。
2)〔...〕我々の世界においてみられる物事は、たとえ神が存在しないと想定しても、すべてそれ以外の根源を以てして成就されることのできるものであると考えられる。すなわち、自然的なそれらは自然本性という根源に還元できるし、また企図に基づくそれらは、人間の理性や意志という根源に還元される。ゆえに、神が存在するとすべき必要は全くない。
他方、その反対の論に言う。
『出エジプト記』第三章には、「我は在るところのものである」という、神自らに出でる言葉が語られている。
以上に答えて私はこういうべきだとする。
神が存在することは、五つの途によって証明されることができる。
第一は、運動変化motusである。
この世界ではものが動いている、つまり運動変化していることは確実である。動くものは、すべて他者によって動かされる。というのも、ものが動く場合、このものは必ず、自らがそれにまで動くところのものに対して可能的potentiaにあることを要するが、動かすものは、これに対して、自らが現実態においてある限りで動かすのである。〔...〕例えば、「可能的に熱いもの」である木材を現実的に熱くするのは、火といった「現実的に熱いもの」である。〔...〕「動いているものがそれによって動かされているところのもの」がそれ自身も動いているのだから、これもまた別のものによって動かされているのでなければならず、さらにこれを動かすものも同様である。だが、こうして無限遡行するわけにはいかない。〔...〕かくして我々は、必然的に、いかなるものによっても動かされていない或る「第一動者primum movens」にまで到達せざるをえない。そして万人が神とみなしているものはまさしくこういったものである。
なにかを動かすが、自分は動かないもの=不動の第一動者
第二は、作動因causa officiensである。
我々はこの可感的なものの世界において、作動因の因果系列が存在しているのを見出す。そこには決して、自分が自分自身の作動因であるものは見出されない。もし仮にそのようなものがあるとしたら、自分が自分自身よりも先行するものであるということになるが、これは不可能である。しかしまた、作動因の系列を辿って無限に遡ることもできない。〔...〕我々は、何らか「最初の作動因・第一作動因causa efficiens prima」が存在するとせざるをえないのであるが、こうしたものを万人は神と名づけている。
第三は、可能possibileと必然necessariumである。
我々は、事物には「存在することもしないことも可能なもの」、つまり、生じては滅んでいくものが数多あることを見出す。これらはすべて、常に存在していることの不可能なものである。〔...〕ゆえに、もし、あらゆるものが「存在しないことの可能なもの」でしかないとすれば、何も存在していない時があったことになるだろう。もしそうだとすると、今もなお何も存在してはいないはずである。なぜなら、存在しないものが存在し始めるのは、何らかすでに存在しているものによってしかありえないから。〔...〕だがこれは明らかに偽である。ゆえに、必ずしもすべての存在が可能的なものであるというわけではなく、そこには何か必然的な存在がなければならない。〔...〕何か「自らによって必然的であるところのものper se necessarium」が存在するとしなければならない。これを万人は神と呼んでいる。
第四は、事物に見出される種々の段階gradusである。
諸々の事物において、何らかの善・真・高貴が、多少の度合いがありつつも見出される。然るに、種々の場合位について多と少が語られるのは、何か最高度においてあるところのものに近づいていくという仕方によってであり、例えば、最高度に熱いものにより近いものの方がより多く熱いのである。〔...〕何らかの領域において最高度のものと呼ばれるものは、その領域に属すすべてのものの原因をなすのであって、例えば最高度に熱いものである火があらゆる熱いものの原因であることは、「形面上学」第二巻に書かれているとおりである。ゆえに、いかなる事物の場合でも、その存在の原因であり、またその善性やその他の完全性の原因でもあるような何かが存在するのでなければならない。これを神と呼ぶ。
最高度に熱い火→熱い鉄→沸騰した水→ぬるま湯
最高善(神)→かなり善い存在→それなりに善い→善くない→悪
第五は、諸々の事物の統括gubernatio rerumである。
我々は、認識能力のない自然物が、目的的に働いているのを見る。これら自然物は、常にないしたいがいは同じ仕方で働いて最善のものを達成している。ゆえにこれらのものは、決して偶然にではなく意図的にその目的に到達していることが知られる。しかし、認識能力をもたないものが何か目的に向かうということは、認識的・知性的な何かによって方向づけられていなければありえない。あたかも、飛ぶ矢が射手によって方向づけられるように。よって、あらゆる自然的な物事がそれによって目的にまで秩序づけられているような、そういう知性的なものが存在していなければならないのであって、我々はまさしくそれを神と呼んでいる。
「認識能力のない自然物が、目的的に働いている」
ヒマワリが太陽のほうに向かって伸びる
石ころが川下のほうへと転がっていく
「あらゆる自然的な物事がそれによって目的にまで秩序づけられている」=目的論的世界観